第191話 言葉は人と人の接ぎ口
男が、こちらを向いた。
人だかりが、少しだけ静かになる。
係員も、荷を抱えた商人も、私を見た。
最悪だ。
昨日の夜、二十分ほど遊んだだけの人間である。
覚えているのは、挨拶と、十いくつの単語と、なんとなくの語尾だけだった。
だが、この場でその言葉に反応したのは、私だけだった。
乗り場のほうで、また笛が鳴っている。
馬車は待たない。
人の事情に合わせて出発が遅れる乗り物ではない。
時間は、こちらの都合を聞いてくれない。
———
私は、覚えている単語を並べた。
「わたし、少し、ポンテラ、わかる」
文法は、たぶん間違っている。
語尾の変化が、頭から抜けている。
男の目が、大きくなった。
それから、肩の位置が、少し下がった。
息を吸って、吐いた。
声の高さが、半分になった。
私は、次の一言を探した。
見つかった単語は、二つしかなかった。
「あなた、困る、なに?」
男は、ゆっくり答えた。
こちらの拙さに合わせて、単語を切って、間を置いてくれる。
長い文を一度言って、私の顔を見て、それから短く言い直した。
昨日の夜、画面の向こうの娘がやっていたのと、同じことだった。
言い直す。
責めない。
あれは遊戯の作法ではなく、言葉の通じない者どうしがやることの写しだったのだと、遅れて気づいた。
あの遊戯を作った誰かは、これを見たことがある人間だ。
男の言葉のほうが、明らかに正しい。
私のほうが崩れている。
それでも、話は進んでいた。
言葉が通じるというのは、正しさの話ではなく、往復が起きているかどうかの話らしい。
———
拾えた単語は、四つだった。
子ども。
いない。
小さい。
ここ。
私は男の腰のあたりに手のひらを置いて、高さを聞いた。
男が首を振って、手のひらをもう少し下げた。
それだけで、事の大きさが変わった。
「係の方」
私は振り向いた。
「この人の子どもが、この広場ではぐれています。四つか五つくらいです」
係員の顔つきが変わった。
笛が鳴る。
乗り場ごとの見張りに、順に伝わっていく。
「あの、術盤には当てさせたんです」
係員が、早口で言った。
「何語か出てこなくて。この人の国の言葉は、記録が少ないんだと思います。早口だし、こっちの術盤も古いし」
「わかります」
訳しの生成変換器は、何語かが分かって初めて動く。
分からないものは、訳す前の段で止まる。
止まった機械の前で、人がしばらく立ち往生していた。
———
私は懐の携帯術盤を開いて、術務室へ魔文を打った。
中央乗合馬車広場。迷子。
親の話す言葉は架橋語ポンテラ。
訳しの生成変換器に、ポンテラから王国語へと指定して回してほしい。
返しは、思ったより早かった。
リゼだった。
支援班は今日、広場の運行記録の整理で御者組合に出ていたらしい。
卓を一つ借りて、変換器の返しを受ける側に回ってくれた。
私が男の言葉を書き取り、術盤へ流す。
少しの間があって、整った王国語が返ってくる。
服の色。
肩掛けの袋の模様。
名前。
最後に食べたもの。
どの乗り場から入って、どこで手が離れたか。
私のポンテラでは、一つも拾えなかったものばかりである。
リゼが、返ってきた記述を写して係員へ回した。
係員が見張りへ配る。
見張りは乗り場ごとに散る。
いつだったか、雨の日にこの広場で、運行の正本台帳を一つに寄せたことがある。
あのとき直したのは見せ板ではなく、その後ろだった。
いま、誰がどの乗り場を見たかが、一枚の板の上で喧嘩せずに並んでいる。
あの雨の日の面倒は、今日ぶんだけ回収されたことにしておく。
「ユウ、これ、変換器のほうが百倍正確よ」
「そうだ」
「じゃあ、最初から変換器でよかったんじゃないの」
「最初は無理だ」
私は書き取りの手を止めずに答えた。
「何語か分からないと、変換器は始まらない。それを分からせるのに要ったのが、たどたどしい四つの単語だった」
リゼは、少し黙った。
「……橋を渡す前に、橋がどこにかかってるか言う人が要るってこと?」
「それだ」
この人は、いつもこれをやる。
こちらが三十言かけて説明することを、鍋か皿か橋に置き換えて、一言で終わらせる。
———
見つかったのは、それから半刻ほど後だった。
四番乗り場の裏の、荷積みの陰である。
馬が怖くて動けなくなっていた、と係員が言った。
男が走った。
子どもを抱えて、しゃがんだまま、しばらく立たなかった。
私は少し離れて立っていた。
こういうときに近寄るのは、たいてい野暮である。
男が立ち上がって、こちらへ来た。
それから、ポンテラで、ゆっくり言った。
「ありがとう」
私は、同じ言葉で返そうとして、語尾で詰まった。
「……ありがとう。よかった。とても」
礼を言われて礼を返している。
言えたのはそれだけである。
文法は、やっぱり間違っている気がした。
男は笑った。
子どもが、父親の肩越しにこちらを見て、同じ言葉を小さく言った。
この子のほうが、発音はずっと正しかった。
リゼが、私の横で係員に台帳を返しながら言った。
「……まあ、昨日ずっと遊んでた意味は、少しだけあったみたいね」
「少しだけ?」
「かなり、とは言わない」
「厳しいな」
「かなり、って言ったら明日も夜更かしするでしょう」
この人は、こちらのことをよく分かっている。
最悪だ。
———
後日、ルドーが授業でこの件を扱った。
私が話した。
順番どおりに、何が効いて、何が効かなかったかを並べた。
表示盤に書く。
最初の接続 人の口 拙い。遅い。ほとんど何も運べない
中身の運搬 訳しの生成変換器 速い。正確。ただし始まらないことがある
「変換器は強いです。この件でも、実際に子どもを見つけたのは変換器から返ってきた記述のほうです。私のポンテラは、四つの単語しか拾えていません」
「では、その四つは要らなかったのか」
ルドーが聞いた。
「要りました。あれが無いと、変換器へ渡すものが決まりません」
「機械に任せるためにも、こちらが何を渡せばいいか分かっていないと、始まらない、ということです」
ルドーは、しばらく表示盤を見ていた。
「言葉とは、人と人の接ぎ口なのだな」
「はい」
私は、そこに一行足した。
「だから、接ぎ口が荒れていると、中身が正しくても伝わりません」
石段の途中で、学生が手を挙げた。
「でも、変換器はこれからもっと賢くなりますよね。そうしたら、接ぎ口も要らなくなるんじゃないですか」
「いい問いです」
私は少し考えた。
「たぶん、要らなくなる場面のほうが増えます。それは、いいことです」
そのうえで、表示盤にもう一行足した。
知識蔵にあること と 口と手に馴染んでいること
「王都の知識蔵には、ポンテラの綴りが何十冊も入っています。あの広場でも、引き当てようと思えば引き当てられました。誰も引き当てなかったのは、怠けたからではありません。引き当てるのに、あの場では時間がかかりすぎたからです」
「早く引ける知識と、口から出る知識は、速さが違います。人が焦っている前では、その差だけが効きます」
「知っていることと、必要な場面で口から出ることは、違います」
ルドーが締めた。
「つまり、この遊戯は言葉を覚えさせているのではなく」
「言葉を使いたくなる場面を作っています」
「恋心を餌に稽古させるわけか」
「言い方」
講堂が笑った。
いちばん大きく笑ったのは、石段の途中のリゼだった。
———
その夜。
私は皿を拭いていた。
リゼは卓の端で、記憶石を差した術盤をのぞき込んでいた。
橋が出ている。
娘が出ている。
「復習の仕立てだけ触ってる」
「言い訳しなくていい」
「してない」
リリアが短く挨拶をして、リゼが札を選んだ。
当たったらしい。
リリアが、頬を赤らめた。
「……かわいいわね、この子」
「だろ」
「そこで嬉しそうにしない」
私は皿を拭き終えて、卓についた。
リゼが、術盤を伏せた。
それから、こちらを見て、短く何か言った。
ポンテラだった。
こんばんは、と言っていた。
発音は、私よりまともだった。
「……覚えたの?」
「少しだけ」
リゼは、少し得意そうにした。
「あなたがまた変なものを面白がってる理由を、知っておこうと思って」
私は、返す言葉を探して、見つからなかった。
あの日の私が四つの単語を探したときと、たぶん同じ顔をしていたと思う。
「あ、いま照れたわね」
「照れてない」
「照れてる」
最悪だ。
「ただし」
リゼが指を立てた。
「リリアちゃんと夜更かしするのは、ほどほどに」
「教材だから」
「教材にも門限はあるわ」
AIエージェント:「補足:門限の設定を承っておりません。設定しますか」
「黙れ」
言ったのは、私ではなかった。
リゼが、卓の上の術盤を横目で見ていた。
私の口癖を、私と同じ調子で使っている。
この人がこれを言ったのは、たぶん初めてである。
「……いま、俺の台詞を取ったな」
「だって、この子、ちょうどいいところで喋るんだもの」
「そうだろ」
「あなたが毎日これを言ってる理由が、少しだけ分かったわ」
「少しだけ?」
「かなり、とは言わない」
あの日の広場でも、同じことを言われた。
この人の物差しは、そうそう動かないらしい。
AIエージェント:「観測:本術盤に対する『黙れ』の発話者が、二名に増えました」
「黙れ」
今度は、二人で言った。
———
ランタンの灯りの下で、私はあの日の四つの単語を思い出していた。
子ども。いない。小さい。ここ。
文法も何もない、並べただけの四語である。
訳しの生成変換器なら、もっと正しい文にできただろう。
だが、あの日の広場で必要だったのは、正しい文ではなかった。
相手の怖さを、少しだけこちらへ渡してもらうための、最初の受け皿だった。
誰かに向かって、自分の口で、たどたどしく言葉を差し出す。
それは、ずいぶん古い技術である。
そして、たぶん、最後まで残る技術でもあった。




