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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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192/256

第192話 要るだけの印が、借りられない

 朝食の席で、リゼが同じ紙を四枚、鞄に詰めていた。


 どれも同じ形をしている。


「四枚とも、中身は一字一句おなじ。台帳の名前だけが違うの」


「なんで四枚も要るんだ」


「先週から、こうなったから」


 リゼは紙の端を揃えた。


「台帳ひとつにつき一枚。目的の欄も、期間の欄も、写しをどこに置くかも、四枚ぜんぶ同じことを書くの。しかも刻限が三十日だから、来月もおなじ四枚を書くのよ」


「……書き写してるだけじゃないか」


「うん」


 リゼは鞄の口を閉じた。


「だから、そのうち中身を読まなくなると思う」


 こちらを見る。


「書いてるわたしが読んでないもの、誰が読むと思う?」


 俺は湯呑みを置いた。


 朝の台所は暖かくて、麦粥の湯気が窓の桟まで上がっている。


 その中で、いま、たいへん物騒なことを言われた気がした。


「まあ、始まったばかりだしな」


「そうね。慣れるかもしれない」


 リゼが鞄を肩にかけた。


「慣れたら、それはそれで怖い気もするけど」


 このやりとりを、三月後に思い出すことになる。


———

 王都記録監査院の会議室は、天井が高い。


 声がよく響くので、みんな自然と小さく話す。おかげで、紙をめくる音だけがやたら大きく聞こえた。


 長机の端でリゼが会議記録を取っている。支援班の見習いの仕事だ。目が合ったが、素知らぬ顔で筆を動かしていた。


 監査院の主席検め官はオーレンといった。五十代の男で、話す前に必ず書類の角を揃える。


「基幹記録庫の閲覧について、先週からあらためています」


 オーレンが表示盤に書かせた。


 一、記録庫ひとまとまりの閲覧は、今後出さない。台帳ごとに出す

 二、申請には、目的、期間、写しの置き場、再び使うかどうかを書く

 三、上役と、記録の管理者、二つの許し印を取る

 四、刻限は三十日。延ばすときは、書き直して出し直す


「これが、要るだけの印というものでしょう」


 室内が静かになった。

 誰も反対しにくい。四つとも、正しく見える。


 セシルが手を挙げた。基盤魔術班の技術まとめ役だ。


「細かく許すなら、そのぶん安全ではないのですか」


 私はもう一度、資料をめくった。


「向きは、正しいです」


 オーレンがこちらを見る。


「向きは正しいです。作り方が危ういです」


「どこが」


「まだ言えません」


 正直に言った。


「三月動かせば、出ます」


 オーレンは怒らなかった。

 書類の角を、もう一度揃えただけだ。


「ユウ殿。私はこの二年で三度、市民の前に説明に立ちました」


 声を張らない人だった。


「三度とも、広すぎる印が原因でした。人別台帳に外から術式が入りかけたとき。契約者の記録が外へ出たとき。共通札が汚されたとき。三度とも、私は同じことを言われました。なぜ止められなかったのか、と」


「はい」


「細かくして、何が悪いのですか」


 答えられなかった。


 マリエが長机の向こうで、何も言わずに書き取っていた。

 この人が黙っているときは、たいてい、言うことを溜めている。


———

 三月経った。


 住民行政の分析室は、紙で溺れていた。


 机の上にも、下にも、窓辺にも綴りが積んである。以前ここへ来たときは、こんなに紙は無かった。


 政策分析係のミゼルが、そのうちの一束を持ち上げてみせた。三十前後の、手の速そうな人だった。


「疫病のあとの調べです。学びの場を欠けた日と、扶助の受け取りの関わりを見ています」


「要る台帳は」


「八つです」


 ミゼルが指を折った。


 人別台帳の年齢と世帯の欄

 医の施設を使った記録

 地区ごとの人の出入り

 扶助の申請記録

 学びの場の欠けた日の記録

 仕事の分けの記録

 地区ごとの人の数

 住民資格の記録


「以前は、疫病あと分析用、で一枚でした」


「いまは八枚」


「いま出しているのは、十二件です」


 私は顔を上げた。


「八つで足りるのでは」


「足ります」


 ミゼルはあっさり肯いた。


「四つは、来月要るかもしれないぶんです」


 私は綴りを見せてもらった。


 最初のひと月ぶんは、丁寧に書いてあった。目的の欄が三行ある。何のために、どの範囲を、どこまで見るか。


 二月目は、写しだった。

 三月目は、日付だけが書き換わっていた。


「なぜ、多めに取るんですか」


 訊いてから、意地の悪い質問だと思った。


 ミゼルは少しも動じなかった。


「足りなくて止まると、わたしが遅いことになります」


 机の綴りを平手で軽く叩く。


「多く取って余っても、誰にも怒られません」


 これは、怠けではない。


 どちらに転んでも損をしない方を選んだだけである。人間は、そういう風にできている。制度がそれを見なかったのが悪い。


 最悪だ。


———

 術務室に戻って、三月ぶんを数えた。


AIエージェント:「観測:この三月に出た申請は四千百件。許し印は四千七十件。差し戻しは三十件です」


「黙れ」


 黙れと言ったが、数字は消えなかった。


 三十件。

 四千件のうち、三十件しか止まっていない。


 止めるための仕組みを三月動かして、止まったのが三十件である。


 表示盤に書いた。


 申請          四千百件

 許し印         四千七十件

 差し戻し        三十件

 同じ文面の申請     六割

 刻限を延ばした申請   八割

 一度も使われなかった印


 最後の行は、空けたままにした。


「そこは」


 セシルが訊いた。


「数えていません」


 私は筆を置いた。


「許し印が増えただけで、判断は増えていません」


 セシルが表示盤を見上げたまま黙った。


 迂回は三つ、見つかっていた。


 一つ。上役はまとめて押している。同じ文面の申請が六割あるのだから、一枚ずつ読めというのは、押す側に日を二倍寄こせと言うのに等しい。


 二つ。急ぎの仕事は、印の広い先任に代わりに見てもらっている。頼む方も頼まれる方も善意である。ただ、印借り控えに残るのは、先任の名前だけになる。


 三つ。共有の術盤に広い閲覧の限定印を持たせて、みんなでそこから見よう、という案が出ていた。


「誰の名も付かない印を一枚置いて、皆でそれを使うそうです」


 セシルが言いにくそうに言った。


「名前のない印は、名前のない事故になります」


 最悪だ。


 どこかで見た形だと思った。


 何年か前、王都で合言葉が次々に破られた年がある。上は、もっと長い合言葉にしろ、変える刻をもっと短くしろと言った。あのとき私は言った。合言葉をもっと重くするだけでは、人が先に折れます、と。


 人は覚えきれず、別の窓口と同じ形を使い回した。


 同じである。

 名前だけが違う。


———

 その日の夕方、エイダが綴りを一つ持ってきた。術務室の若い術務担当だ。


「これ、載ってます」


 術務室の新人教材だった。

 新人が最初に読まされる薄い綴りは、何冊かある。これはそのうちの一冊で、印の話だけを集めたものだ。


 開かれた頁に、覚えのある板書があった。


 姫印借りの原則


 一、大権印を常時持たせるな

 二、必要なときだけ借りる

 三、借りられる手は限定する(許し術目録)

 四、本人確認を入れる(印詞・合言葉確認)

 五、控えを残す(印借り控え)

 六、刻限をつける(時切れ印)

 七、借りた印で余計なことをするな


 昔、この七つを講堂の表示盤に書いた。木箱を五つ並べた日だ。


 その脇の余白に、別の筆で一行あった。


 よって、印は細かいほどよい


 私は、その一行をしばらく見ていた。


 前にも、これを見た。


 二百年動いた税務の術式から跳躍詠唱が一掃されて、還付が二日止まった年。事の起こりは、別の一冊の、同じ余白の一行だった。読めない術は、次の時代で人を泣かせる。その脇に、誰かが良かれと思って書き足していた。よって、古い書き方は見つけ次第なくすこと。


 消すと、誰かが同じことを書き足す。


 最悪だ。


AIエージェント:「補足:あなたは共通札の件で、保守者の権限を棚卸しし、限定印で最小に絞る、と述べています。人別台帳の件では、読み取りと変更の印も分ける、と。どちらも会議記録に残っています」


「黙れ」


 その足で学校へ行った。


 講堂は夕方の色になっていた。ルドーが教卓で、次の講義の札を並べている。


 学校側の写しにも、同じ一行があった。


「言いました」


 私は綴りを閉じた。


「間違っていません。あれは、あの日の正しい答えです」


 ルドーは何も言わない。


「ただ、細かくしたあとに、誰がそれを配るのか。いつ取り上げるのか。それを言いませんでした」


「言わなかっただけだろう」


「言わなかったことは、伝わりません」


 私は綴りを机に置いた。


「伝わらなかったことは、書かれていないのと同じです」


 ルドーが茶を置いた。


「足せ」


「はい」


「はいは一回だ」


———

 二日後、住民行政から呼ばれた。


 ミゼルの分析の下書きが、地区の役所と学びの場へ会議用に配られていた。十二部。


 その中の一枚に、地区ごと・年ごとの、欠けた日と扶助の重なりを並べた表がある。


 名前は一字も書いていない。

 伏せてある。


 ただ、北の丘地区は世帯が少ない。


 十代、扶助あり、欠けた日が二十日以上。

 この三つが重なるのは、三人しかいない。


 地区の役所の職員が、これはあの子のことでは、と気づいて上へ上げた。


 写しは同じ日のうちに全部戻った。外へは出ていない。誰も傷ついていない。


 まだ。


 魔安対からカナメが来て、印借り控えを検めた。前置きをしない人である。


「事故ではありません」


 カナメは綴りを閉じた。


「危うかっただけです、と言いたいところですが」


「言えませんね」


「はい」


 カナメが顔を上げた。


「外へは出ていません。回収も済みました。ですが、誰が、何のために、あの台帳を開いたのかが、出てきません」


 順に見ていくと、三重になっていた。


 一つ。八つで足りるところを十二取っていたので、担当していない台帳まで開けた。地区をもっと小さく割れる区分が、その四つの中にあった。取ったのは、足りなくて止まると自分が遅いことになるからだ。


 二つ。目的の欄が「分析のため」だったので、誰も止められなかった。三月で四千件を捌く上役に、それ以上を求めるのは無理である。


 昔、王城の門の台帳でも同じものを見た。上印許し帳に、夜間通行の調整、とだけ書いてあった。それで別の門まで開いた。


 三つ。締切前にもう一枚要ることが分かったが、その台帳の印は刻限が切れていた。書き直して出し直すと三日かかる。締切は明日だった。だから、印の広い先任に頼んで、代わりに見てもらった。


 控えには、その一枚ぶんだけ、先任の名前が残っている。

 その先任の申請の目的欄には、こう書いてある。分析のため。


 誰が要ったのかは、どこにも残っていない。


 配られた十二部のうち一部は、学舎にも届いていた。

 ルドーが、それを持って来ていた。壁際で腕を組んでいる。


「昔、私は何と言った」


「後から追えない操作は、存在しないも同然だ」


「そうだ」


 三月かけて、四千件の申請を書かせた。


 追えるようになったものは、ひとつもなかった。


 帰り際、カナメが小声で言った。


「北方の件は、まだ追えていません」


「跡は跡のまま、置いておきましょう」


———

 監査院の会議室に、また同じ顔が並んだ。


 オーレンは、その日も書類の角を揃えてから話した。


「台帳ごとでは、足りなかったということです」


 紙をめくる。


「次は、台帳の欄ごとに許し印を取るべきではないか。名を伏せていない欄と、そうでない欄を、同じ扱いにはできない」


 室内の何人かが頷いた。

 頷き方が、疲れていた。


「逆です」


 声が、思ったより低く出た。


「仕組みが、そういう行動を誘発しています」


 オーレンが顔を上げた。


「まとめて取る方が得になる形を、私たちが作りました。真面目な人ほど来月ぶんまで申請します。真面目な上役ほど、止めないために早く押します。真面目な若手ほど、間に合わないので隣の人に頼みます」


「それは、現場の甘えでは」


「甘えではありません。全員が、正しく計算した結果です」


 オーレンが、初めて少し声を張った。


「ユウ殿。あなたは、最小裁可の原則を否定なさるのですか」


 窓の外で、鐘が鳴っていた。


 私は、教材の余白の一行を思い出していた。


「いいえ」


 首を振った。


「むしろ、本気で守るために、いまのやり方を疑っています」


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