第192話 要るだけの印が、借りられない
朝食の席で、リゼが同じ紙を四枚、鞄に詰めていた。
どれも同じ形をしている。
「四枚とも、中身は一字一句おなじ。台帳の名前だけが違うの」
「なんで四枚も要るんだ」
「先週から、こうなったから」
リゼは紙の端を揃えた。
「台帳ひとつにつき一枚。目的の欄も、期間の欄も、写しをどこに置くかも、四枚ぜんぶ同じことを書くの。しかも刻限が三十日だから、来月もおなじ四枚を書くのよ」
「……書き写してるだけじゃないか」
「うん」
リゼは鞄の口を閉じた。
「だから、そのうち中身を読まなくなると思う」
こちらを見る。
「書いてるわたしが読んでないもの、誰が読むと思う?」
俺は湯呑みを置いた。
朝の台所は暖かくて、麦粥の湯気が窓の桟まで上がっている。
その中で、いま、たいへん物騒なことを言われた気がした。
「まあ、始まったばかりだしな」
「そうね。慣れるかもしれない」
リゼが鞄を肩にかけた。
「慣れたら、それはそれで怖い気もするけど」
このやりとりを、三月後に思い出すことになる。
———
王都記録監査院の会議室は、天井が高い。
声がよく響くので、みんな自然と小さく話す。おかげで、紙をめくる音だけがやたら大きく聞こえた。
長机の端でリゼが会議記録を取っている。支援班の見習いの仕事だ。目が合ったが、素知らぬ顔で筆を動かしていた。
監査院の主席検め官はオーレンといった。五十代の男で、話す前に必ず書類の角を揃える。
「基幹記録庫の閲覧について、先週からあらためています」
オーレンが表示盤に書かせた。
一、記録庫ひとまとまりの閲覧は、今後出さない。台帳ごとに出す
二、申請には、目的、期間、写しの置き場、再び使うかどうかを書く
三、上役と、記録の管理者、二つの許し印を取る
四、刻限は三十日。延ばすときは、書き直して出し直す
「これが、要るだけの印というものでしょう」
室内が静かになった。
誰も反対しにくい。四つとも、正しく見える。
セシルが手を挙げた。基盤魔術班の技術まとめ役だ。
「細かく許すなら、そのぶん安全ではないのですか」
私はもう一度、資料をめくった。
「向きは、正しいです」
オーレンがこちらを見る。
「向きは正しいです。作り方が危ういです」
「どこが」
「まだ言えません」
正直に言った。
「三月動かせば、出ます」
オーレンは怒らなかった。
書類の角を、もう一度揃えただけだ。
「ユウ殿。私はこの二年で三度、市民の前に説明に立ちました」
声を張らない人だった。
「三度とも、広すぎる印が原因でした。人別台帳に外から術式が入りかけたとき。契約者の記録が外へ出たとき。共通札が汚されたとき。三度とも、私は同じことを言われました。なぜ止められなかったのか、と」
「はい」
「細かくして、何が悪いのですか」
答えられなかった。
マリエが長机の向こうで、何も言わずに書き取っていた。
この人が黙っているときは、たいてい、言うことを溜めている。
———
三月経った。
住民行政の分析室は、紙で溺れていた。
机の上にも、下にも、窓辺にも綴りが積んである。以前ここへ来たときは、こんなに紙は無かった。
政策分析係のミゼルが、そのうちの一束を持ち上げてみせた。三十前後の、手の速そうな人だった。
「疫病のあとの調べです。学びの場を欠けた日と、扶助の受け取りの関わりを見ています」
「要る台帳は」
「八つです」
ミゼルが指を折った。
人別台帳の年齢と世帯の欄
医の施設を使った記録
地区ごとの人の出入り
扶助の申請記録
学びの場の欠けた日の記録
仕事の分けの記録
地区ごとの人の数
住民資格の記録
「以前は、疫病あと分析用、で一枚でした」
「いまは八枚」
「いま出しているのは、十二件です」
私は顔を上げた。
「八つで足りるのでは」
「足ります」
ミゼルはあっさり肯いた。
「四つは、来月要るかもしれないぶんです」
私は綴りを見せてもらった。
最初のひと月ぶんは、丁寧に書いてあった。目的の欄が三行ある。何のために、どの範囲を、どこまで見るか。
二月目は、写しだった。
三月目は、日付だけが書き換わっていた。
「なぜ、多めに取るんですか」
訊いてから、意地の悪い質問だと思った。
ミゼルは少しも動じなかった。
「足りなくて止まると、わたしが遅いことになります」
机の綴りを平手で軽く叩く。
「多く取って余っても、誰にも怒られません」
これは、怠けではない。
どちらに転んでも損をしない方を選んだだけである。人間は、そういう風にできている。制度がそれを見なかったのが悪い。
最悪だ。
———
術務室に戻って、三月ぶんを数えた。
AIエージェント:「観測:この三月に出た申請は四千百件。許し印は四千七十件。差し戻しは三十件です」
「黙れ」
黙れと言ったが、数字は消えなかった。
三十件。
四千件のうち、三十件しか止まっていない。
止めるための仕組みを三月動かして、止まったのが三十件である。
表示盤に書いた。
申請 四千百件
許し印 四千七十件
差し戻し 三十件
同じ文面の申請 六割
刻限を延ばした申請 八割
一度も使われなかった印
最後の行は、空けたままにした。
「そこは」
セシルが訊いた。
「数えていません」
私は筆を置いた。
「許し印が増えただけで、判断は増えていません」
セシルが表示盤を見上げたまま黙った。
迂回は三つ、見つかっていた。
一つ。上役はまとめて押している。同じ文面の申請が六割あるのだから、一枚ずつ読めというのは、押す側に日を二倍寄こせと言うのに等しい。
二つ。急ぎの仕事は、印の広い先任に代わりに見てもらっている。頼む方も頼まれる方も善意である。ただ、印借り控えに残るのは、先任の名前だけになる。
三つ。共有の術盤に広い閲覧の限定印を持たせて、みんなでそこから見よう、という案が出ていた。
「誰の名も付かない印を一枚置いて、皆でそれを使うそうです」
セシルが言いにくそうに言った。
「名前のない印は、名前のない事故になります」
最悪だ。
どこかで見た形だと思った。
何年か前、王都で合言葉が次々に破られた年がある。上は、もっと長い合言葉にしろ、変える刻をもっと短くしろと言った。あのとき私は言った。合言葉をもっと重くするだけでは、人が先に折れます、と。
人は覚えきれず、別の窓口と同じ形を使い回した。
同じである。
名前だけが違う。
———
その日の夕方、エイダが綴りを一つ持ってきた。術務室の若い術務担当だ。
「これ、載ってます」
術務室の新人教材だった。
新人が最初に読まされる薄い綴りは、何冊かある。これはそのうちの一冊で、印の話だけを集めたものだ。
開かれた頁に、覚えのある板書があった。
姫印借りの原則
一、大権印を常時持たせるな
二、必要なときだけ借りる
三、借りられる手は限定する(許し術目録)
四、本人確認を入れる(印詞・合言葉確認)
五、控えを残す(印借り控え)
六、刻限をつける(時切れ印)
七、借りた印で余計なことをするな
昔、この七つを講堂の表示盤に書いた。木箱を五つ並べた日だ。
その脇の余白に、別の筆で一行あった。
よって、印は細かいほどよい
私は、その一行をしばらく見ていた。
前にも、これを見た。
二百年動いた税務の術式から跳躍詠唱が一掃されて、還付が二日止まった年。事の起こりは、別の一冊の、同じ余白の一行だった。読めない術は、次の時代で人を泣かせる。その脇に、誰かが良かれと思って書き足していた。よって、古い書き方は見つけ次第なくすこと。
消すと、誰かが同じことを書き足す。
最悪だ。
AIエージェント:「補足:あなたは共通札の件で、保守者の権限を棚卸しし、限定印で最小に絞る、と述べています。人別台帳の件では、読み取りと変更の印も分ける、と。どちらも会議記録に残っています」
「黙れ」
その足で学校へ行った。
講堂は夕方の色になっていた。ルドーが教卓で、次の講義の札を並べている。
学校側の写しにも、同じ一行があった。
「言いました」
私は綴りを閉じた。
「間違っていません。あれは、あの日の正しい答えです」
ルドーは何も言わない。
「ただ、細かくしたあとに、誰がそれを配るのか。いつ取り上げるのか。それを言いませんでした」
「言わなかっただけだろう」
「言わなかったことは、伝わりません」
私は綴りを机に置いた。
「伝わらなかったことは、書かれていないのと同じです」
ルドーが茶を置いた。
「足せ」
「はい」
「はいは一回だ」
———
二日後、住民行政から呼ばれた。
ミゼルの分析の下書きが、地区の役所と学びの場へ会議用に配られていた。十二部。
その中の一枚に、地区ごと・年ごとの、欠けた日と扶助の重なりを並べた表がある。
名前は一字も書いていない。
伏せてある。
ただ、北の丘地区は世帯が少ない。
十代、扶助あり、欠けた日が二十日以上。
この三つが重なるのは、三人しかいない。
地区の役所の職員が、これはあの子のことでは、と気づいて上へ上げた。
写しは同じ日のうちに全部戻った。外へは出ていない。誰も傷ついていない。
まだ。
魔安対からカナメが来て、印借り控えを検めた。前置きをしない人である。
「事故ではありません」
カナメは綴りを閉じた。
「危うかっただけです、と言いたいところですが」
「言えませんね」
「はい」
カナメが顔を上げた。
「外へは出ていません。回収も済みました。ですが、誰が、何のために、あの台帳を開いたのかが、出てきません」
順に見ていくと、三重になっていた。
一つ。八つで足りるところを十二取っていたので、担当していない台帳まで開けた。地区をもっと小さく割れる区分が、その四つの中にあった。取ったのは、足りなくて止まると自分が遅いことになるからだ。
二つ。目的の欄が「分析のため」だったので、誰も止められなかった。三月で四千件を捌く上役に、それ以上を求めるのは無理である。
昔、王城の門の台帳でも同じものを見た。上印許し帳に、夜間通行の調整、とだけ書いてあった。それで別の門まで開いた。
三つ。締切前にもう一枚要ることが分かったが、その台帳の印は刻限が切れていた。書き直して出し直すと三日かかる。締切は明日だった。だから、印の広い先任に頼んで、代わりに見てもらった。
控えには、その一枚ぶんだけ、先任の名前が残っている。
その先任の申請の目的欄には、こう書いてある。分析のため。
誰が要ったのかは、どこにも残っていない。
配られた十二部のうち一部は、学舎にも届いていた。
ルドーが、それを持って来ていた。壁際で腕を組んでいる。
「昔、私は何と言った」
「後から追えない操作は、存在しないも同然だ」
「そうだ」
三月かけて、四千件の申請を書かせた。
追えるようになったものは、ひとつもなかった。
帰り際、カナメが小声で言った。
「北方の件は、まだ追えていません」
「跡は跡のまま、置いておきましょう」
———
監査院の会議室に、また同じ顔が並んだ。
オーレンは、その日も書類の角を揃えてから話した。
「台帳ごとでは、足りなかったということです」
紙をめくる。
「次は、台帳の欄ごとに許し印を取るべきではないか。名を伏せていない欄と、そうでない欄を、同じ扱いにはできない」
室内の何人かが頷いた。
頷き方が、疲れていた。
「逆です」
声が、思ったより低く出た。
「仕組みが、そういう行動を誘発しています」
オーレンが顔を上げた。
「まとめて取る方が得になる形を、私たちが作りました。真面目な人ほど来月ぶんまで申請します。真面目な上役ほど、止めないために早く押します。真面目な若手ほど、間に合わないので隣の人に頼みます」
「それは、現場の甘えでは」
「甘えではありません。全員が、正しく計算した結果です」
オーレンが、初めて少し声を張った。
「ユウ殿。あなたは、最小裁可の原則を否定なさるのですか」
窓の外で、鐘が鳴っていた。
私は、教材の余白の一行を思い出していた。
「いいえ」
首を振った。
「むしろ、本気で守るために、いまのやり方を疑っています」




