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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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第190話 橋の向こうの言葉

 王都術務室の朝が、久しぶりに静かだった。


 誰も走っていない。

 卓の上で、湯気の立つ器がちゃんと湯気を立てている。

 羊皮紙をめくる音と、筆の音だけがしている。


 この数か月、研究院と王城と保管庫の間を往復して、床で寝るか、床で寝ないかの話ばかりしていた。

 静かな朝というのは、こういう音がするものだったらしい。

 忘れていた。


 作業板の未着手の列も、今日は短い。

 私は器を両手で持って、しばらく何もしなかった。


 何もしない時間というのは、たいてい、長く続かない。


———

「ユウさん」


 声のほうを見ると、若い術務担当が立っていた。

 フィンという。

 資料の写しと魔文の整理をしている男で、休みの日の話をするときだけ早口になる。


 その早口が、いま始まろうとしている顔をしていた。


「これ、貸します」


 卓に置かれたのは、薄い記憶石だった。

 遊戯の入っているやつである。


 表の紙札に、絵が刷ってある。

 橋。

 その向こうに、こちらを見ている娘。


「ただの美少女遊戯じゃないんですよ」


 私は器を置いた。


「その言い訳をしている人を、私は前の世界で何人も見ました」


「今回は本当です」


 みんなそう言う。


「架橋語ポンテラが、学べるんです」


 聞いたことのない言葉だった。


「ポンテラ」


「人工の共通語です。どこの国の言葉でもない。旅人や学者のために作られたやつで、術師や学生の間で、なぜか今これが流行ってて」


 フィンは、記憶石を指で少し押した。


「教材として、かなりよく出来てるらしいです。らしい、じゃないです。よく出来てます」


「遊びましたね」


「遊びました」


 正直な男である。

 そして、私はこの手の話に弱い。

 最悪だ。


———

 学校へ持っていった。


 ルドーは、教卓の上に置かれた記憶石の紙札を、しばらく見ていた。

 橋と、娘の絵を。


「これが、言葉の教材か」


「そうらしいです」


 ルドーは、絵から目を離さずに言った。


「理念で広まらなかった人工語を、恋愛遊戯で広めようというのか」


「はい」


「人間の欲望は、時に教育行政より強いな」


 ルドーはその日の授業の題目を、その場で差し替えた。

 この人は、こういうことをする。


———

 講堂の石段に、いつもどおり人が座っている。

 高い窓から、光の帯が斜めに落ちている。

 学生たちの中に、リゼの顔もあった。

 妻は素知らぬ顔で筆を構えている。


「架橋語ポンテラを知っている者」


 ルドーが問うと、三つか四つ、手が挙がった。


「名前だけです」


「聞いたことはあります」


「使ったことは、ないです」


 ルドーは頷いた。


「それが、今日の話だ。ユウ」


「はい」


「はいは一回だ」


 一回しか言っていない。


———

 私は表示盤の前に立った。


「架橋語ポンテラは、二百年ほど前に作られた言葉です。作った人たちの考えは、こうでした」


 表示盤に書く。


 どこかの大国の言葉を共通語にすると、その国が得をしすぎる


「言葉には力がついてきます。国と国が話すとき、片方の母語で話せば、その片方が有利になる。だから、どの国のものでもない言葉を、間に一枚、置こうとした」


「文法は規則的です。例外が少ない。字も読み方どおりに読めます。学ぶ負担は、他のどの言葉より軽い」


 学生の一人が言った。


「よく出来ているのに、なぜ誰も使っていないんですか」


「いい問いです」


 私は表示盤に、もう一行書いた。


 学びやすいことと、学ばれることは、別


 講堂が、少し静かになった。


「ポンテラは、旅人と学者のために作られました。ところが王都で暮らしていると、旅人にも学者にもならない日が、一年のうち三百六十日あります。使う機会がない言葉は、いくら軽くても覚えられません」


「もう一つあります。すでに強い言葉があるからです」


 表示盤に、二つ並べて書いた。


 架橋語ポンテラ  考えて作られた  誰の母語でもない  ほとんど使われない

 南方交易語    誰も作っていない 港で勝手に育った  広く通じる


「南方交易語を設計した人はいません。港で荷を降ろす人たちが、通じる言い方だけを残していったら、いつの間にか通じる言葉になっていた。文法はそろっていないし、細かい言い回しは痩せます」


 いつだったか、星巡りの紋章の文言を各国の言葉へ移す仕事に付き合ったことがある。

 あのとき、南方交易語版では、剣士の決め台詞が商会の約款のようになった。

 短く、正しく、味がない。

 それでも、いちばん多くの港で読まれたのは、その版だった。


「それでも、南方交易語のほうが通じます。理由は一つです。使っている人がいるからです」


 ルドーが、教卓の端から言った。


「便利で正しい道具が、必ず広まるわけではない」


「はい」


「耳が痛い話だな」


 講堂に、乾いた笑いが起きた。

 働いたことのある学生だけが笑う笑いである。


———

「では、この遊戯は何をしているのか」


 私は紙札の橋の絵を掲げた。


「ポンテラを教えていません。ポンテラを使いたくなる場面を作っています」


「言葉の通じない娘が目の前にいて、話しかけたい。それだけです。単語を並べた綴りを渡されても人は開きませんが、話したい相手がいると、人は勝手に単語を覚えます」


「人は、必要に迫られるか、楽しいと思うか、誰かとつながりたいと思わないと、なかなか覚えません。この遊戯は、三つ目を使っています」


 ルドーが腕を組んだ。


「遊び仕立ての稽古か」


「そうです。稽古の中身ではなく、稽古を始める理由のほうを作っている」


「では、中身は雑でもよいのか」


「よくありません。理由だけ作って中身が雑な教材は、三日で見捨てられます」


 そこで私は言葉を止めた。


「中身は、これから確かめます」


 ルドーが、面白そうにこちらを見た。


「教師が宿題を持ち帰るのか」


「持ち帰ります」


———

 その夜、私は食卓の端で記憶石を差し込んだ。


 橋が出てくる。

 娘が出てくる。

 リリアという名前らしい。


 リリアが、こちらを見て、短く何か言った。

 聞き取れない。

 下に、意味が出る。


 こんにちは。


 次の場面で、リリアがまた同じ言葉を言う。

 今度は、意味が出ない。

 選ぶ札が三枚出てくる。


 私は当てずっぽうで一枚を選んだ。

 外れた。


 リリアは困った顔をしなかった。

 もう一度、ゆっくり、同じ言葉を言った。

 それから、正しい札のほうを、指で示した。


 私は少し姿勢を直した。


 外れたときに、責めない。

 言い直す。

 それだけのことなのだが、それだけのことを、たいていの教材はやらない。


 二十分ほど進んだ。

 わたし。あなた。ありがとう。どこ。ここ。行く。食べる。好き。困る。


 しばらく出てこなかった単語が、忘れかけた頃に、また出てきた。

 偶然かと思った。

 次のも、そうだった。


 私は真顔になっていた。


「これ、忘れかけた頃に前の単語を出してくるな……」


 手応えの輪が、こちらの覚え具合を見て回っている。

 間隔が、明らかに測られている。


「何だこれ、ちゃんと作ってあるぞ……」


 最悪だ。

 真面目に遊んでしまっている。


———

「ユウ」


 後ろから声がした。


 リゼが、椀を持ったまま、私の手元をのぞき込んでいた。


「今日はその子とずいぶん楽しそうね」


「教材だから」


「教材の女の子、ずいぶん頬を赤らめてるけど」


「あれは、覚えたぶんの手応えを返しているだけです」


 敬語で逃げた。


「便利な言葉ね」


 リゼは椀を置いて、私の隣に腰を下ろした。

 画面のリリアが、また短く何か言う。


「ねえ」


「なんだ」


「それ、訳しの生成変換器で訳せばよくない?」


 私は手を止めた。


 いい問いである。

 今日はいい問いばかり出る日らしい。


「たいていの場面では、それでいいと思う」


「じゃあ、覚えなくてもいいんじゃない」


「たいていの場面では、な」


 私は指を折った。


「変換器が使えない場所がある。相手の言葉の記録が少なければ、訳しの精度が落ちる。相手が焦っていると、まともに言葉を入れられない。訳された文が正しいかどうか、こちらには判断できない」


「あと」


 私は最後の一本を折った。


「敬意とか、冗談とか、距離の取り方は、訳しの外に落ちる」


 リゼは、しばらく黙っていた。


「じゃあ、覚える意味は」


「相手が泣きそうな顔で目の前にいる時、最初の一言だけは、自分の口から出せたほうが早いことがある」


「早い?」


「うん。正しい文より、たどたどしい一言のほうが、相手の肩から力が抜ける。そういう場面が、たまにある」


「たまに」


「たまにだ」


 リゼは頷いて、それから真顔で言った。


「でも、ユウがその子と仲良くなる必要はないと思う」


「それはそう」


 妻は満足して、椀を持って立ち上がった。


AIエージェント:「観測:本日の稽古は、王都の並の学び手の三日ぶんに相当します」


「黙れ」


———

 翌日の昼、王都中央乗合馬車広場は、人と荷でいっぱいだった。


 濡れた藁と馬の匂い。

 係員の笛。

 石畳を打つ蹄の音。


 私は術務室の使いで、御者組合の卓へ書付を届けに来ていた。

 届けて帰るだけの用である。


 三番乗り場の脇に、人だかりができていた。


 中心に、旅装の男が一人いた。

 早口で何か言っている。

 係員が首を振っている。


「王国語は?」


「通じません」


「南方交易語は」


「それも駄目です」


 男は懐から携帯術盤を出した。

 古い型である。訳しの生成変換器へつなぐ札が、そもそも入っていない年式だった。


 男の声が、だんだん高くなる。

 周りの人の顔が、困惑と諦めになっていく。

 この顔は、知っている。


 男が、諦めたように息を吐いて、ぽつりと何か言った。


 短い言葉だった。

 語尾が、規則的に整っていた。


 私は、昨日の夜、その語尾を三十回くらい聞いていた。


「……それ、ポンテラか?」


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