第187話 再均しの夜
王都術務室の大部屋は、灯りが全部点いていた。
夕刻を過ぎた役所でこの明るさは、良い報せではない。
廊下を歩くだけで分かる。
急ぎ足の音。
重ねて呼び合う声。
どの顔にも、困惑と諦め。
ここは戦場ではないが、順番を失った職場は、戦場と同じ顔になるらしい。
作業板は、大部屋の正面の壁にある。
王都でいちばん大きな見せ板である。
列が五つ。未着手、調査中、対応中、確認待ち、完了。
届いた案件札が左から右へ列を渡っていき、完了の列で静かに役目を終える。
いつもなら。
今夜の作業板は、五つの列すべての先頭に、札がぎっしりと重なっていた。
担当者が、私を見つけて叫んだ。
「ユウさん! 全部の案件が、先頭です!」
「それは、先頭という概念を殺していますね」
「それだけじゃありません。全部、最優先になっています!」
「それは優先順位ではなく、願望です」
軽口を叩きながら、部屋を見回す。
軽口は、半分は自分のためである。
声の硬い指揮者に、現場はもっと硬くなる。
———
症状を聞き取る。
札を動かしても、少し経つと元の位置へ戻る。
完了したはずの案件が、未着手の先頭に出てくる。
北の分室では板がほぼ正常に見えるのに、東の分室では壊れて見える。
最優先の印が付いた案件が、数えたら数千件あった。
そして、昨夜から始まった再均し儀式が、まだ走り続けている。
作業板が、いつの間にか術務室の背骨になっていたことを、壊れてから思い知る。
障害対応の割り振り。
住民からの問い合わせ。
王城からの依頼。
分室との連携。
仕事そのものは、一件も消えていない。
だが、何から手をつけるべきかが、分からない。
順番を道具に預けた組織は、道具が倒れると、順番の付け方ごと忘れている。
「便利すぎる道具は、壊れたときに、人の判断力まで連れていくんですよね」
独り言のつもりだったが、近くの担当者が深く頷いた。
基盤魔術班のセシルが、記録札の束を抱えてきた。
「お呼び立てしてすみません。基盤魔術班だけの手には余ると判断しました」
「正しい判断です。いま一番危ないのは、手に余ると言えない現場なので」
———
「では、最初にやることを決めましょう。直すことでは、ありません」
表示盤に書く。
一、作業板を、読むだけにする
二、再均し儀式を止める
三、札の移動を、いったんすべて禁じる
四、いま壊れている状態を、そのまま時写しに残す
五、壊れる前の時写しを探す
六、記録札を保全する
七、各分室で、板がどう見えているかを書き取る
「まず、これ以上賢く直そうとするのを止めましょう。今この板に必要なのは、賢さではなく沈黙です」
若い術師が、おずおずと言った。
「あの、再均し儀式をもう一度流せば、間名が振り直されて、直るのでは……」
「今、火事場に油を撒く提案をしました?」
「……しました」
「素直でよろしい。気持ちは分かります。壊した種類の道具でもう一度叩くと、直る気がするんですよね。だいたい、二度壊れます」
指示は私が出す。
手は、術務室の面々が動かす。
板を読むだけにしたのも、儀式を止めたのも、時写しを残したのも、彼らの手である。
止血の速さは、その現場を知っている人間の速さだ。
板が沈黙すると、大部屋も少し静かになった。
動かせないと決まった札は、もう人を急かさない。
———
記録札を並べた。
AIエージェント:「観測:昨夜からの記録札、およそ十四万行。再均し儀式に関する行を抽出します」
浮かび上がった流れは、こうだった。
作業板は、この春から、二枚の術盤で支えられている。
利用者が増え、分室が増え、一枚では夕方の混みに耐えられなくなったからである。
増やしたこと自体は、正しい。
昨夜。
先頭付近の間名札が詰まっているのを検知して、第一の術盤が、再均し儀式を始めた。
数十万枚の間名を、端から順に振り直していく、時間のかかる仕事である。
そこへ、少し遅れて、第二の術盤が同じ詰まりを検知した。
第二の術盤は、第一が儀式の最中であることを知らなかった。
知る仕組みが、なかった。
「二人目の掃除人が、同じ部屋を掃き始めたわけですか」
私の言葉に、セシルが記録札から顔を上げた。
「はい。二つの儀式が、同じ範囲の札を、別々の手順で書き換え始めています。ここまでなら、まだ、遅いだけで済んだかもしれません」
「済まなかったんですね」
「夜半に、第一の儀式が途中で落ちています。術座切れです。それを見た第二が――」
「落ちる前の、古い状態を元に、続きを書いた」
「はい。振り直した後の札と、振り直す前の札が、混ざりました」
結果、多数の案件札が、同じ間名を持った。
同じ名前の札は、どちらが先か比べられない。
比べられない札を見つけた自動修復の術式が、親切にも、新しい間名を配り直した。
配り直しの元にした帳面が、すでに壊れていた。
壊れた状態を元に配られた間名は、壊れ方を、丁寧に板全体へ広げた。
朝、札を動かした担当者たちの操作は、走り続ける儀式に片端から上書きされた。
動かしても戻る、はこれである。
分室ごとに見え方が違ったのは、写しの追いつきに差があったからだ。
「壊れたのは、札を一枚動かす仕組みではありません。掃除の方です」
「掃除が、壊れた……」
「はい。箒が、部屋ごと掃き出した感じです」
———
私は表示盤の前で、昼の授業と同じ図を書いた。
聴いている顔ぶれが、学生から術師に変わっている。
「一枚動かすたびに、全部を並べ直さない。その代わり、ときどき全部を整える。これは借金です。返済日を選べるだけで、返済が消えるわけではありません」
「今夜は、その返済日が最悪の形で来ただけです。取り立てが二人同時に来て、同じ帳面を取り合った」
記録札は、もう一つのことも教えてくれた。
先頭付近の間名だけが、異様に長かったのである。
十字を超える名前が、先頭の一帯にびっしり並んでいた。
誰もが、自分の案件を、いちばん上の少し下へ差し込みたがったからだ。
「みんな、緊急案件なので、上の方に置いてほしいと言われて……」
担当者が、目を伏せた。
「全部緊急なら、緊急という言葉の意味がなくなります」
差し込みが先頭に集中する。
先頭の間名が詰まる。
詰まりを検知して、再均しが頻繁に走る。
頻繁に走れば、いつかは、二つ同時に走る。
「今夜の障害のいちばん深いところにあるのは、術式ではありません。全部を最優先にしたがる、私たち人間です」
誰も、反論しなかった。
全員に、心当たりのある顔だった。
———
復旧の方針を、表示盤に書く。
一、書き込みは止めたまま
二、壊れた儀式も止めたまま
三、壊れる前の時写しを土台にする
四、記録札から、障害後に人が行った正しい札の移動だけを拾う
五、時写しの上に、その移動だけを乗せ直す
六、新しい間名札を、広い余白付きで配り直す
七、狭い範囲で検める
八、一つの分室で試しに映す
九、全体に映す
十、再発防止を入れる
「いきなり全部は直しません。まず戻れる足場を確かめて、それから一段ずつです」
作業は、術務室の面々がやった。
壊れる前の時写しを掘り出したのは、帳場の年配の担当者だった。
記録札の山から、人の手による正しい移動と、壊れた儀式の書き込みを選り分けたのは、若い術師たちだった。
火事場に油を撒きかけた彼も、そこにいた。
選り分けの目は、確かだった。
提案は危なかったが、腕は危なくないのである。
夜半過ぎ、狭い範囲の検めが通った。
東の分室で試しに映し、明け方、全体に映した。
作業板の上で、重なっていた札が、ほどけていった。
未着手の列に、未着手の札が並ぶ。
完了の列に、完了の札が並ぶ。
ただそれだけのことに、大部屋のあちこちから、小さな拍手が出た。
———
朝の光の中で、再発防止の覚え書きを作った。
一つ目。儀式占有札。
再均し儀式は、同時に一つしか走れないようにする。
儀式を始める術盤は、まず占有札を取る。
どの術盤が儀式の最中かが、誰からも見える。
途中で落ちたとき、残った占有札をどう外すかまで、手順に書く。
取ったまま死んだ儀式を、生きているとみなし続けないこと。
二つ目。範囲再均し。
全部を一度に均さない。
詰まっている範囲だけを均す。
範囲の境目の札は動かさず、境目の順が壊れないことを検めてから閉じる。
三つ目。見張り。
間名札の長さ。
先頭付近への差し込みの集中。
儀式の所要と、失敗の回数。
同じ間名の発生。
分室ごとの見え方の差。
どれも、昨日までは誰も見ていなかった数字である。
今夜の障害は、見ていれば七日前に兆しが出ていた。
そして四つ目。
この一枚だけは、術式ではどうにもならない。
優先を決める者を、決める。
最優先の数を、絞る。
気分で札を先頭へ動かさない。
本当に急ぐ案件は、並びで争わせず、急ぎ専用の列を別に作る。
セシルが、覚え書きを眺めて言った。
「先頭の取り合いをやめさせるのが、いちばん難しそうですね」
「はい。だからこれは、術務室の仕事ではなく、各部署の長の仕事です。覚え書きの宛先は、そちらに」
———
昼前、板は元に戻り、止めていた書き込みを開けた。
札が、ぽつり、ぽつりと動き始める。
王都の仕事の順番が、戻ってくる。
報告を求められて、私は言った。
「壊れなくなったわけではありません。壊れ方が分かり、壊れたときの戻し方ができただけです」
それで十分だ、という顔と、それだけか、という顔が、半々だった。
十分なのである。
壊れない仕組みは作れないが、戻れる組織は作れる。
昨夜からの一晩で、ここは戻れる組織になった。
———
家に帰りついたのは、その日の夕方である。
リゼは、夕食の支度をしながら待っていた。
徹夜明けの顔を一目で測って、何も言わずに椅子を引いてくれる。
この目の精度は、上がり続けている。
「で、結局、何を直してたの?」
「順番」
「順番?」
「王都中の仕事の順番」
リゼは鍋をかき混ぜる手を止めて、少し考えた。
それから、眉を寄せた。
「それ、壊れると怖いわね」
「怖いよ。みんな、自分の仕事が一番上にないと怒るから」
「それは魔術じゃなくて人間の問題では?」
「だいたいの障害は、最後そこに戻ってくる」
リゼはスープの皿を俺の前へ置き、パンの籠を真ん中へ置いた。
それから昨日の朝と同じように、皿と籠の間へ、塩の壺をすっと差し込んだ。
「はい。間に差し込むだけなら、一瞬でしょ」
「昨日の授業、ちゃんと聴いてたな」
「わたし、質問もしたもの」
妻は少し得意げだった。
あの質問が今夜の障害の芯を先に射抜いていたことは、話すと長くなるので、明日にする。
スープは温かかった。
どの皿から手をつけても、この食卓は壊れない。
順番を気にしなくていい場所が家なのだと、徹夜明けの頭で思った。




