第184話 信頼の鎖が腐るとき
魔安対の部屋は、戦場だった。
といっても、剣も火も飛んでいない。
飛んでいるのは紙である。
壁一面に、記録札の写し。
通信記録の束。
どの札がどの札に依存しているかの図。
認証札の一覧。
共通札の変更履歴。
人はそれらの前を行き来し、短い言葉を交わし、また戻る。
叫ぶ者はいない。
叫んでも、記録札は速く読めるようにならないからである。
困惑と諦め。
それから、二年前にはなかったものが、この部屋にはあった。
手順である。
———
朝いちばんの割り振りは、カナメが仕切った。
「班を四つに分けます。感染版の導入先の洗い出し。保管庫の凍結と検め。民間工房への連絡。外部指令結界の遮断」
各班の頭が頷く。
「推定と確認済みは分けて書くこと。以上」
短い。
二年前、彼女が初めてこの部屋の空気を変えた時と、同じ短さだった。
違うのは、もう誰も戸惑わないことである。
私は、部屋の隅の白板の前に立った。
呼ばれたのは昨日の夜だが、私の仕事は昨日から変わっていない。
全体の絵を描いて、掲げておくことだ。
白板に書く。
一、広がりを止める
二、盗まれたものを数える
三、罠を外す
四、鍵を替える
五、元栓を探す
「順番に意味があります。特に、三と四」
そこへ、若い担当者が駆け込んできた。
感染先の一覧を作っていた術師である。
「秘鍵の流出が続いています! 感染術盤の認証札を、全部、今すぐ止めましょう!」
部屋の何人かが、手を止めてこちらを見た。
気持ちは分かる。
鍵が盗まれ続けているのに、鍵を止めるなという方が不自然に聞こえる。
「だめです」
私は言った。
「順番を間違えると、犯人の仕込んだ罠を、自分で踏みます」
白板の三と四を指す。
「この悪性版は、認証札の失効を検知すると、術盤の作業領域を焼きます。昨日、一件、実際に焼けました。先に罠を外す。鍵を替えるのはその後です」
「でも、そのあいだも秘鍵は」
「はい。流れ続けます。だから外部指令結界の遮断が先に走っています。届け先を塞げば、盗みは続いても、盗品は届かない」
若い担当者は、白板を見て、少し落ち着いた。
「……焼かれた工房の手順を、そのまま繰り返すところでした」
「繰り返させないために、昨日の一件を全員が知っているんです。事故は、隠さなければ教材になります」
彼は自分の班へ戻っていった。
走らないぎりぎりの速さで。
私は白板の前に残る。
私がやっているのは、魔法を撃つことではない。
混乱した部屋の中で、何を先に見て、何を後に回すか。
その線を引いて、見えるところに掲げておくことである。
地味だ。
だが、二年前より確実に、この部屋は速い。
優先順位の案は各班から出てくる。
私の仕事は「そこは逆です」「その順番なら安全です」と言うことくらいになった。
よい変化である。
自分の出番が減ることを喜べるようになったら、年を取った証拠だとも言うが。
———
昼前に、罠外しの手順が確立した。
感染術盤をまず外文路から切り離す。
悪性版の札を、鍵に触れないまま除去する。
破壊術式が残っていないことを検めてから、認証札を無効化し、新しい鍵を発行する。
この手順書は魔安対が書き、術務室が検め、民間工房へ配られた。
鍵の再発行は、午後から一斉に始まった。
並行して、元栓探しが進んでいた。
結論から言えば、攻撃者は、外から成果札を差し替えたのではなかった。
セシルが、変更履歴を並べて説明した。
「侵害の流れは、こうです」
一、小径案内札の保守にかかわる誰かの秘鍵、または自動配布儀式の権限が、先に盗まれていた。
二、その権限で、正規の保管庫に悪性の変更が入った。
三、変更は試験水路を通過した。
四、正規の配布儀式が成果札をまとめ、真正印を押した。
五、正規の経路で配布された。
六、依存していた工房と術盤が、いつも通りの更新として取り込んだ。
「つまり、二の時点から先は、全部の仕組みが正しく動いています。正しく動いて、毒を配りました」
部屋の後ろで、腕を組んで聞いていた者がいた。
ルドーである。
学校の帰りに寄った、という顔で、たぶん朝からいた。
「正規の儀式で、邪神を召喚したようなものか」
「言い方は最悪ですが、だいたい合っています」
「儀式は悪くない」
「悪くないんです。儀式の座に、座ってはいけないものが座った」
ルドーは短く頷いて、また黙った。
この人の一言は、だいたい報告書の題名より正確である。
———
午後の検討会で、若い担当者が、当然の問いを出した。
「試験は、なぜ通したんでしょうか。試験水路には、試験札が山ほど流れているのに」
オルソが、保管庫側の記録で答えた。
「通常の機能は、全部正しく動くのです。押し札を押せば、次の画面へ行く。試験札が見ているのは、そこですから」
「悪性の処理は、試験では動かなかったと」
「動かない条件が、丁寧に仕込まれていました」
オルソは記録札をめくった。
「悪性の処理が動くのは、開発用の秘鍵が見つかった時だけ。外へ喋る先は、正規の中継のような名で偽装されている。術式列そのものも読みにくく崩してあり、一見すると、依存札を一つ足しただけに見える」
「試験は、この札が期待通りに動くか、を見るものです」
私は白板に書きながら言った。
「期待通りに動いた上で、裏で財布を盗んでいないか。それを見るには、別の仕組みが要ります」
「別の仕組み、とは」
「あとで整理します。先に、もう一つ片付けたい混乱があります」
私は白板の余白に、二つの欄を作った。
この二日、部屋のあちこちで同じ議論が繰り返されているのを見ていた。
署名は裏切ったのか、裏切っていないのか、という議論である。
左の欄に書く。
署名が保証するもの
・公式の工程を通ったこと
・配布のあとで差し替えられていないこと
・来歴を追えること
・どの工程で作られたかが分かること
右の欄に書く。
署名が保証しないもの
・中身が安全であること
・保守する者が侵害されていないこと
・配布儀式そのものが安全であること
・依存先が悪意を持たないこと
・検めが十分だったこと
「今回、左の欄は全部働きました。だから私たちは一日で感染経路を絞れた。右の欄は、最初から署名の仕事ではありません」
「封蝋は悪くない、ということですか」
「封蝋は、手紙が途中で開けられていないことを示します。でも、手紙を書いた本人が脅されていたら、封蝋は何の慰めにもなりません」
部屋が静かになった。
「慰めにならないだけです。無意味ではない。封蝋のおかげで、どの手紙を疑えばいいかは分かる。それが今の私たちです」
———
夕方、止血と並行して、再発防止の案が集まり始めた。
魔安対、術務室、保管庫、民間工房。
それぞれの持ち場から出てきた案を、白板に並べていく。
「出たばかりの共通札を、すぐに取り込まない。しばらく寝かせる」
オルソの案だった。
「今回の悪性版は、配布から半日で王国中に広がりました。三日寝かせるだけでも、誰かが気づく猶予ができます」
「名前を付けましょう。新札冷却期間」
白板に書く。
名前を付けると、規則にできる。
「新しい札をすぐ使うのは、焼きたてのパンを素手で掴むようなものです。美味しそうでも、まず熱い」
「広く使われる共通札には、複数人の検めを義務にします」
これはセシルの案である。
「小径案内札ほど依存されている札の変更を、一人の緑灯で通してはいけません」
「署名の検めだけでなく、変更の中身の検めも要ります」
魔安対の若い担当者が続けた。
今朝、鍵を全部止めましょうと言った彼である。
立ち直りが早い。
「急に依存札が増えた。成果札が急に膨らんだ。読みにくく崩された術式列が入った。外へ喋る先が増えた。そういう変化に、印を付けて知らせる仕組みです」
「よい欄です。それは署名の外側の検めになります」
さらに並ぶ。
開発用の術盤に、強い秘鍵を置かない。
秘鍵と作業場を分ける。
権限は限定印で細かく絞り、最小にする。
共通札の保守者には、専用の隔離術盤を使ってもらう。
認証札の失効手順に、破壊術式の検めを組み込む。
王国の重要な術盤では、使ってよい共通札を先に定めた許可札一覧の方式を検討する。
白板が埋まっていく。
どれも地味である。
地味なものほど、床下に敷き詰める価値がある。
———
通達文の検めには、マリエが来た。
民間工房へ向けた文面を、彼女は三箇所直した。
どれも、技術の説明ではないところだった。
「この書き方だと、感染を届け出た工房が、悪いことをしたように読めます」
マリエは筆を置いて言った。
「事故を隠した工房を罰する規則は必要です。でも、事故を報告した工房まで叩き潰したら、次から誰も報告しません」
「届け出は手柄扱いにする、と書き足しますか」
「手柄は言い過ぎです。ですが、早く届け出た工房には、検めと復旧の支援を先に回す。それは書けます。制度は、正直者が損をしない向きに倒しておくものです」
昨日から今日で、感染の届け出は四十を超えている。
そのうち十七は、工房側からの自発的な届け出だった。
この数字が多いか少ないかは、次の事件の時に分かる。
届け出やすい制度なら、増える。
届け出たら潰される制度なら、ゼロになる。
ゼロは安全の印ではない。
沈黙の印である。
———
夜、外部指令結界の調べから、報告が上がってきた。
カナメが、三枚の記録札を並べた。
「過去の事件と、突き合わせました」
一枚目。
数年前の、合言葉の大量漏洩。
問い札と応答印の仕組みが入る前の、あの事件である。
二枚目。
二年前の、転職の面接を装った仕込み術式。
エイダの事件だ。
三枚目。
今回の、共通札の汚染。
「共通点が、五つあります」
外へ喋る先の、名の付け方の癖。
狙うものが、金ではなく、秘鍵と認証札であること。
利用者ではなく、作り手の環境を狙うこと。
一度の被害を大きくするより、将来の入り口を残すことを優先すること。
行政、民間工房、基盤の術。どれか一つではなく、横断して触っていること。
若い担当者が、記録札から顔を上げた。
「これ、単なる金目当てではありません」
「はい」
カナメは頷いた。
「金目当てなら、盗んだ秘鍵をすぐ使うか、売ります。この攻撃者は、使わずに溜めています。溜める者には、目的があります」
部屋の温度が、少し下がった気がした。
二年前、私たちは「誰でも国家規模の被害を出せる」と言った。
嘘ではない。
だが、三枚の記録札は、別のことを言っていた。
誰でも出せる被害を、同じ癖の誰かが、何年もかけて、順番に出している。
カナメが、私を見た。
「軍へ、正式に報せます」
「軍にですか」
「軍にです。これが盗みなら、魔安対の仕事です。でも、これが盗みでないなら」
彼女は最後まで言わなかった。
言わない部分を、全員が読めた。
———
ラドゥルは、夜のうちに来た。
鎧ではなく、平服だった。
平服のこの人を見るのは、数えるほどしかない。
急いで来た、ということである。
三枚の記録札を、ラドゥルは黙って読んだ。
読み終えて、しばらく黙っていた。
「二年前、ユウ殿は言ったな。もう始まっているのか、と」
「言いました」
「あの時は、疑いだった」
ラドゥルは記録札を卓に置いた。
「魔王軍は、攻めてこなくなったのではない。すでに別の道から入っていた、ということか」
誰も、違うとは言わなかった。
窓の外で、王都の灯りが揺れている。
今夜も家々では魔法仮想文書がめくられ、押し札が押され、画面が次の画面へ移っている。
その床下を、私たちは今日一日かけて、ようやく一枚めくったところだった。
めくった床の下に、何年も前から敷かれていた仕掛けが見えた。
最悪だ。
そして、最悪だと分かったことが、今日の唯一の収穫だった。




