第183話 署名された毒札
朝の食卓に、蜂蜜の瓶があった。
リゼの実家から届いたものである。
蓋の上に、赤い蝋が垂らして固めてある。
「開けていい?」
「どうぞ」
リゼは蝋を剥がしながら、こちらを見た。
「今日、なんだっけ。若い人向けの」
「説明会。共通札の署名の話をする」
「署名って、この蝋みたいなもの?」
「かなり近い」
瓶の蝋は、途中で誰かが開けていないことを示す。
差出人が実家であることも、蝋の紋で分かる。
「でも、それだけよね」
リゼは蝋の欠片を皿の端に置いた。
「蝋がついてても、中身が腐ってたら食べられない」
「……その話、今日の説明会でしてもいいか」
「蜂蜜代は取らない」
この人の比喩は、たまに私の半日分の資料より速い。
———
王都術務室の講堂には、若い術師が集まっていた。
役所の新人、民間工房の見習い、魔法学校を出たばかりの顔ぶれ。
この二年で、王国の術式の作り方は大きく変わった。
変わったことを、作る側に説明して回るのも、私の仕事になっている。
表示盤に、私は流れを描いた。
共通札保管庫
試験水路
自動配布儀式
真正印
来歴証明
「順に説明します」
共通札。
王国中の工房が使い回す、共有部品の札である。
昔からある継ぎ札のうち、特に広く共有され、誰の術盤にも入っているようなものを、いつからか皆がこう呼ぶようになった。
「共通札は、公式の保管庫から取ります。保管庫に札が並ぶまでには、決まった工程があります」
作り手が変更を出す。
試験水路が自動で走り、試験札が検める。
緑灯が出ると、自動配布儀式が成果札をまとめ、真正印を押す。
真正印には来歴証明が付く。
誰が、いつ、どの工程で、この札を作ったか。
あとから全部たどれる。
「重要な術盤では、真正印のない共通札は入れられません。二年前の事件のあと、そう決まりました」
二年前。
人別台帳の術盤が、外へ向かって勝手に喋った事件である。
あの日以来、王国は真面目に守りを積んできた。
保管庫を整え、署名を義務にし、来歴を残すようにした。
前列の若い術師が手を挙げた。
「真正印があれば、安全ということですか」
よい質問だった。
よい質問というのは、だいたい答えたくない質問である。
「署名は、札に封蝋を押すようなものです。この札が途中で差し替えられていない、正しい工程を通ってきた。それは示します」
私は一拍置いた。
「でも、この札を書いた者が善人である、ということまでは示しません」
講堂に、小さな笑いが起きた。
封蝋を押す悪人、という絵が可笑しかったらしい。
私は、あまり笑わなかった。
今朝の蜂蜜の瓶を思い出していた。
蝋がついていても、中身が腐っていたら食べられない。
———
説明会の後半で、私は一枚の札を例に出した。
「小径案内札を知っている人は」
ほとんど全員の手が挙がった。
挙がらなかった数人も、たぶん知らずに使っている。
小径案内札。
魔法仮想文書で押し札を押したら次の画面へ行く。
窓口術盤の品書きをめくったら次の欄が出る。
携帯術盤の小術で、画面から画面へ移る。
その程度の、地味な仕事をしている共通札である。
「派手な札ではありません。ですが、画面のあるものは、だいたいこれで画面を移っています」
役所の窓口術盤。
商会の受注札面。
小さな工房の業務画面。
携帯小術の半分ほど。
地味なものほど、気づくと王国中の床下に敷き詰められている。
そして床下にあるものは、床が抜けるまで思い出されない。
「今日の話をまとめます。共通札は便利です。保管庫と署名の仕組みは、それを安全に近づけました。ただし」
表示盤に書く。
署名は、工程を保証する。
中身の善良さは、保証しない。
「この二行目を、忘れないでください」
若い術師たちは、素直に筆記札へ写していた。
痛い目を見る前の人間は、だいたい素直でかわいい。
この二行目の意味を、王国全体が体で覚える日が三日後に来るとは、この時の私は知らなかった。
———
その朝は、封書より早く、足音が来た。
術務室の廊下を、走らないぎりぎりの速さで人が動いている。
こういう日はだいたい、どこかで何かが壊れたあとだ。
部屋に入ると、セシルが表示盤の前にいた。
赤灯が三つ。
いや、四つ。
「朝から、民間工房の術盤が次々におかしくなっています」
「症状は」
「重い。見知らぬ外へ喋る。それから」
セシルは言葉を選んだ。
「開発用の秘鍵が、外へ送られています」
嫌な並びだった。
術盤が重いだけなら、故障で済む。
外へ喋るだけなら、二年前と同じで済む。
秘鍵が出ているなら、済まない。
秘鍵は、作り手の鍵である。
保管庫へ変更を出す鍵。
配布儀式を動かす鍵。
つまり、盗んだ者が作り手に化けられる鍵だ。
魔安対は、すでに動いていた。
灰色の外套のカナメが、静かな声で報告を受けている。
「感染した術盤の共通点は」
若い担当者が記録札を読み上げた。
「昨日から今朝にかけて、共通札の更新を取り込んだ術盤です。感染元は──」
担当者は、そこで一度、記録札を読み直した。
読み間違いを疑う顔だった。
「感染元は、小径案内札です。しかも、署名付きです」
部屋が静かになった。
私は三日前の講堂を思い出した。
挙がった手の数を。
あの部屋にいた全員の術盤に、その札は入っている。
最悪だ。
———
王都術務室に、共通札保管庫の庫番頭が呼ばれた。
オルソという年配の術師で、保管庫の工程を整えた本人である。
顔色は悪かったが、持ってきた記録は整っていた。
「問題の版は、確かにうちの保管庫から配られています」
オルソは記録札を並べた。
「真正印は有効です。来歴証明もあります。試験水路も通っています。緑灯です。配布経路も正規のものです」
「では、これは正規版なのですか」
術務室の若い担当が聞いた。
オルソは、すぐに答えなかった。
私が答えた。
「正規の手順で作られた、悪性版です」
部屋の空気が、その一言を飲み込むのに少しかかった。
「偽物なら、まだ分かりやすかったんです。署名がない、来歴がない、どこかで差し替えられた。それなら、検めれば弾けます」
表示盤に、保管庫までの工程を描く。
作り手。
変更。
試験。
封蝋。
配布。
「今回は、全部の検めを通っています。ということは、この工程のどこかが、内側から使われた。門を破られたのではありません。門番が、敵に通行証を渡した可能性があります」
「渡した、というのは」
「本人が悪人だった場合だけではありません。作り手の秘鍵が盗まれていた場合。配布儀式の権限が奪われていた場合。どちらでも、工程の側から見れば正規です」
オルソが、低い声で言った。
「封蝋は、本物なのです。だからこそ」
「はい。だからこそ、厄介なんです」
———
悪性版の中身は、魔安対とセシルが割っていった。
小径案内札としての仕事は、正しくやる。
押し札を押せば、次の画面へ行く。
利用者から見れば、何も変わらない。
その裏で、別の仕事をしていた。
一つ。導入された術盤の中で、開発用の秘鍵を探す。
二つ。見つけた秘鍵を、外部指令結界へ送る。
三つ。その術盤が別の共通札の保管庫へ書き込む権限を持っていれば、その札にも同じ悪性変更を仕込む。
「三つ目が、いちばん質が悪いですね」
セシルが言った。
「感染した札を使った作り手の札が、次の感染源になります。作り手から札へ、札から作り手へ。人の手を借りて、勝手に広がる」
自己伝播する呪札。
教本の中の言葉だと思っていたものが、記録札の中で動いていた。
そして、四つ目が見つかった。
見つけ方が、最悪だった。
感染に気づいたある工房が、まず自分の認証札を無効化した。
盗まれた鍵を止める。
手順としては正しい。
正しいはずだった。
次の瞬間、その術盤の個人作業領域が、消し飛んだ。
書きかけの術式列。
仕事の記録。
何年ぶんかの作業場が、まとめて焼かれた。
「鍵の失効を検知すると、術盤内の作業領域を破壊する仕込みです」
カナメが事実だけを言った。
「鍵切り検知式。家財焼却術、と呼んでいる者もいます」
私は記録札を読み直した。
読み直しても、書いてあることは変わらなかった。
鍵を無効化すると、作業部屋に火をつける。
自分が切られたら、退路を焼いて逃げる。
「……犯人、性格が悪いというより、設計思想が終わってますね」
誰も笑わなかった。
私も笑うつもりで言ったのではなかった。
この仕込みの意味は、嫌がらせではない。
止血を遅らせるためである。
鍵を止めれば家が焼ける、となれば、誰もが鍵を止める手を一拍ためらう。
その一拍のあいだも、秘鍵は外へ流れ続ける。
AIエージェント:「補足:合理的な設計です。悪意を除けば」
「黙れ」
合理的なのは分かっている。
分かった上で、腹が立っているのだ。
———
夕刻、王国全体への緊急通達が出た。
一、小径案内札の特定の版の導入を禁止する。
一、当該の版の新規配布を停止する。
一、感染の疑いがある術盤は、外文路を塞いで隔離する。
一、認証札の無効化は、破壊術式の有無を確かめてから行う。手順は魔安対が示す。
一、真正印付きであっても、無条件には信頼しない。
一、共通札保管庫は、検めが済むまで一時凍結する。
書き上がった通達文を前に、術務室の若い担当者が、震える声で言った。
「署名があれば安全、ではなかったんですか」
責める声ではなかった。
すがる声だった。
この二年、王国はそのために積んできたのだ。
保管庫を作り、封蝋を義務にし、来歴を残した。
正しく積んだ壁が、壁ごと使われた。
「署名は必要です」
私は言った。
「署名があったから、どの版がどの工程を通ったか、今こうして追えています。署名がなければ、私たちはまだ、どの札を疑えばいいかも分からなかった」
「でも」
「でも、署名だけでは足りません」
表示盤に、三日前と同じ二行が残っていた。
署名は、工程を保証する。
中身の善良さは、保証しない。
「信頼は、鎖です。作り手を信じ、試験を信じ、封蝋を信じ、保管庫を信じて、私たちは札を取り込む。鎖は便利です。一本ずつ検めなくて済む」
私は、二行の下に書き足した。
信頼の鎖は、どこか一箇所が腐ると、全体が腐る。
「今回、どこかの輪が腐りました。どの輪かは、まだ分かっていません」
窓の外は、もう暗い。
王都の家々に灯りがつき、その半分ほどの家で、今夜も誰かが魔法仮想文書をめくっている。
押し札を押して、次の画面へ。
床下の札のことなど、誰も知らずに。
床下に毒が敷かれていたと、明日の報せで知ることになる。
鎖のどこが腐ったのか。
それを探す夜が、始まった。




