第182話 境界の薄い世界
魔法横丁から帰った日の夜、リゼが言った。
「ねえ。あれに聞いてみたら」
「あれ」
「賢い箱。みんな使ってるやつ」
変換器のことである。
言われてみれば、そのとおりだった。
王都中が、去年からあれに何でも聞いている。
商人は売り文句を、役人は案内文を、学生は課題を。
目録に無い型番くらい、聞けば出てくるかもしれない。
やらなかった理由は、特にない。
物と帳簿を先に見ていたら、順番が来なかっただけである。
私は、この機械が何であるかは知っている。
知らないのは、この世界の側が、それをどう記録しているかである。
それは、たしかに、聞けば済む種類の問いだった。
———
私は札面に接続した。
公開人造賢性会の入力欄は、あいかわらず簡素である。
白い欄が一つ。
その奥に、底の見えない何かがいるような気配。
書いた。
九千八百式個人用術盤について教えてほしい
返答は、すぐに来た。
お尋ねの「九千八百式個人用術盤」につきましては、確認できる記録がございません。
名称の一部が類似する個人用術盤として、九千五百式および九千六百式が知られております。いずれも極東島国に由来する系譜の術盤であり、記憶石を用いる点が共通しております。
これらについて、詳しい解説をご希望ですか。
私は、しばらくその返答を見ていた。
「……希望しない」
声に出していた。
———
書き直した。
九八式、という呼び方でもよい。極東島国の術盤の型番を、古い順に全部並べてほしい
返答は、また整っていた。
九千式、九千百式、九千二百式、九千五百式、九千六百式、九千六百式改、一万一千式、一万二千式。
私が記憶石屋で二度読んだ並びと、ほとんど同じだった。
九千八百式は、無い。
もう一度書いた。
九千八百式は、どこの工房が作ったのか
今度は、少し間があった。
そして、返ってきた。
九千八百式個人用術盤は、極東島国の東岸に工房を構えた術具師の系統によって製作されたと伝えられております。同系統の術盤は、記憶晶の割付に独自の作法を持つことで知られております。
私は、それを二度読んだ。
もっともらしい。
文が整っている。
語尾まで丁寧である。
そして、たぶん、全部でたらめだった。
さっき、記録がございませんと言ったのは、この箱である。
無いと言ったものの作り手を、次の問いでは語れる。
賢そうな文は、真実ではない。
去年、私が役所の会議室で三十回は言ったことである。
三十回言った本人が、いちばん最初に忘れかけていた。
———
AIエージェント:「観測:一度目の返答と三度目の返答が矛盾しています」
「知ってる」
AIエージェント:「補足:一度目のほうが正確です。無いと言える箱のほうが、たいてい賢い」
「珍しく褒めたな」
AIエージェント:「訂正:褒めていません。比較しました」
最悪だ。
———
私は札面を閉じた。
リゼが、後ろから覗き込んでいた。
「賢い箱でも分からないんだ」
「分からない、とは言っていない」
「言ってたよ。記録がございませんって」
「一度だけな。そのあと、似たものを出してきた」
「同じじゃないの」
「全然違う」
私は、椅子の背にもたれた。
「無いものを無いと言うのと、無いものの隣を並べるのは、別の仕事だ」
リゼは、少し考えてから言った。
「隣を並べるほうが、親切じゃない?」
「親切だ。だから困る」
目録は、無いものを並べなかった。
変換器は、無いものの隣を並べた。
どちらも、同じことを言っている。
この世界の記録のどこにも、九千八百式という型番は無い。
無いのに、部屋の隅に一台ある。
———
それから何日か、私は自分の机の上を、ひどく散らかしていた。
術務室の私の席ではない。
家の、窓際の小さな机である。
左から順に並べた。
九千八百式の付属品の紙箱。
折り込みの広告。
厚い綴じ本。
記憶石の紙袋。
ニコの冊子。
記憶石屋の帳簿の写し。
東の輸入目録の、個人用術盤の頁の写し。
義父から聞いた話の覚え書き。
そして、体験版と書かれた薄い箱。
リゼが後ろを通るたびに、袖が紙に当たった。
「片づけて」
「片づけると分からなくなる」
「散らかってるから分からないんじゃないの」
「そういう散らかり方ではない」
言い訳としては弱い。
だが、本当にそうなのだから仕方がない。
物は、並べ替えるたびに違うことを言う。
———
私は、これまで、偶然説を採っていた。
産業の形が似れば、似た問題が出る。
大きな商会が生まれ、雲域が生まれ、生成変換器が現れ、携帯術盤が広まる。
順序まで似ることは、あり得ないことではない。
似た問いには、似た答えが出る。
それだけの話だと思っていた。
説明できるものは、たしかに多かった。
だが、机の上の物は、説明できないほうに寄りすぎていた。
似ているものがある、ではない。
似すぎている。
そして、似ていないところには、変換されたような痕跡がある。
———
私は紙を一枚出して、二列に書いた。
左に、私の世界のもの。
右に、この世界のもの。
電力 術勢と魔力供給
電気の回路 魔導回路
私の世界の言葉 極東島国語
薄い記録媒体 記憶石
表示装置 表示鏡
個人用計算機 九千八百式個人用術盤
書きながら、気づいたことがある。
これは対応表ではない。
置換表である。
対応表なら、両側は独立していていい。
似たものを、人が並べただけになる。
置換表は違う。
左を右に書き換えると、実際に動く。
九千八百式は、動いていた。
———
置換は、完全ではなかった。
説明書の折り返しの内側。
記憶石の紙袋の裏の隅。
表示鏡の下の、枠からはみ出した一行。
紙の表と、鏡の真ん中は、きれいに置き換わっている。
置き換わらずに残っているのは、いつも端のほうだ。
人が見るところは変換され、人が見ないところは残った。
私は、その分布に見覚えがあった。
何かを別の環境へ持っていくとき、いちばん先に直るのは目に見える部分である。
そして、いちばん最後まで残るのは、誰も読まないところの名前である。
翻訳ではない。
移植だ。
しかも、かなり雑な移植である。
———
「翻訳より、移植に近い」
夜、私はリゼにそう言った。
「移植」
「別の場所へ持っていって、そこで動くように書き換えることだ」
「持っていったのは誰」
私は、そこで詰まった。
「分からない。誰かがやったのかも分からない」
「勝手に移ったってこと?」
「その可能性の方が高いと思っている」
リゼは、湯呑みを両手で持ったまま考えた。
「世界が、勝手に移植してるってこと?」
「たぶん」
私は言った。
「しかも、試験が足りてない」
リゼは、少し笑った。
「今、笑うところだったの」
「笑うところだ」
「笑っていいのか迷った」
「俺も迷った」
———
次の日、私は魔法学校へ行った。
ルドーの部屋は、相変わらず物が少ない。
机、椅子、表示盤、あとは本が縦に積んである。
積み方が几帳面なので、散らかって見えない。
私は、机の上の物を持ってきた順に並べた。
説明を、十分ほどで済ませた。
ルドーは、途中で一度も口を挟まなかった。
終わってから、彼は表示盤の前に立った。
そして、一つだけ書いた。
互換性
「はい」
「術式ではなく、世界そのものの互換性の話になってきたな」
「そうなります」
ルドーは、しばらく黙っていた。
「呼び名は」
「まだ付けていません」
「付けろ」
「はい」
この人は、いつもこれである。
名前のないものは会議に出せない、と昔言われた。
あれから何年か経ったが、私はまだ同じことを言われている。
———
私は、表示盤に二つ書いた。
概念共鳴
境界転移
「概念共鳴は、別々の世界で、似た概念、似た制度、似た技術、似た物語、似た欲が生まれたとき、それが互いに響くことです」
「根拠は」
「ありません。名前だけです」
「よろしい」
ルドーは、そこを咎めなかった。
「境界転移は、その響きが強くなったときに、世界の境目が薄くなって、物や記録や人が向こう側へ落ちることです」
「落ちる方には、意志はあるのか」
「分かりません」
「呼ぶ側には」
「分かりません」
「二つとも分からんのか」
「分からないことを、分からないまま置ける形にしただけです」
ルドーは、私を見た。
「それでいい」
彼は表示盤に、さらに一語足した。
変換漏れ
「これは」
「落ちるとき、落ちた先の世界に合わせて書き換えられます。ただし完全ではありません。端が残ります」
「端」
「誰も読まないところです」
ルドーは、少しの間、黙っていた。
「読まないところは、直す理由がないからな」
彼はそう言った。
この人は、術式の話をしているつもりで、たいてい世界の話をしている。
———
「ニコという子の部屋に、なぜ落ちたのか」
ルドーが聞いた。
「その子は、選んだことで道が分かれる物語の絵巻を作ろうとしていました。分岐、記憶の保存、読み戻し、章立て、台詞送り。紙に、全部書いています」
「それが」
「私の世界に、これと同じようなものがありました。同じ時代に、同じくらい狭い機械の上で動いていました」
「真似たのか」
「真似ていません」
私は、はっきり言った。
「あの子は、私の世界を知りません。知りようがない。……向こうにも、こっちにも、似た形の欲望があったんだと思います」
「欲望」
「物語の中の誰かと話したい。選んだことで違う結末を見たい。そういう、わりと人間らしい欲望です」
ルドーは、鼻から息を吐いた。
「くだらんな」
「くだらないです」
「くだらんものは、強い」
彼はそう言って、表示盤の前から離れた。
———
「ユウ」
「はい」
「これは、学校の研究室だけで扱う話ではない」
私は、それを聞いて、少し息を吐いた。
言われるだろうと思っていた。
言われる前に自分で言えなかったのは、たぶん、言いたくなかったからである。
「はい」
「王国側に、この件で話が通じる者が一人いる」
「ラドゥルさんですか」
「そうだ」
ルドーは、椅子に座った。
「もう一つ」
「はい」
「お前は、この話をするとき、自分の話を最後に回す癖がある」
私は、答えられなかった。
「先に片づけろ。順番を間違えると、周りが判断できん」
「……はい」
この人には、ときどき、こういうところがある。
———
部屋を出て、私は中庭のベンチに座った。
学生が二人、走っていった。
午後の講義に遅れているらしい。
あの走り方は、たぶん間に合わない。
自分の話を最後に回す癖。
言われてみれば、そのとおりだった。
机の上に並べた物の中に、私は自分を置いていない。
置いてみる。
———
向こうの世界の、あの冬。
空気の乾いた会議室。
赤い点滅。
止めるべきだと分かっていた。
でも言えなかった。
通せなかった。
立場が足りなかった。
その後どうなったかは、もう分かっている。
うまくいかなかった。
私は、正しいと分かっていることを、通せる場所にいなかった。
そして、たぶん、もっと自分の使いどころのある場所があるはずだと思っていた。
思っていたことを口に出したかどうかは、覚えていない。
ただ、あの端末は、それを知っているような言い方をした。
提案:最短ルートで、あなたが輝ける場所へ向かいます。
———
こちら側を、同じように並べてみる。
王都の術は、複雑になりすぎていた。
術盤が増え、術式が増え、役所の手続きが増え、学校の科目が増えた。
増えたが、並べ直されていなかった。
どれも、それぞれの現場では正しかった。
正しいものが積み上がって、誰にも読めなくなっていた。
複雑さに名前をつけて、並べ直して、運用の形にできる人間が足りていなかった。
私の困りごとと、この世界の困りごと。
形が、同じだった。
「この世界が俺を呼んだ、というより……俺の困りごとと、この世界の困りごとが、同じ形をしていたのかもしれない」
誰もいない中庭で、そう言った。
AIエージェント:「観測:あなたは今、独り言を言っています」
「知ってる」
AIエージェント:「補足:この一年で四百十二回目です」
「数えるな」
最悪だ。
だが、口に出したことで、形は少しはっきりした。
———
立場が足りなくて通せなかった人間が、名前をつけて整理する役を任される世界に落ちている。
選ばれた、という話ではない。
似た形の穴に、はまっただけである。
勇者ではない。
同じ形の困りごとに、両側から引っ張られただけの人間である。
皮肉が効きすぎている。
あの日と、同じ感想になった。
———
術務室に戻って、私は別の綴じ本を出した。
人別台帳の関連法規である。
私とリゼの婚姻登録が止まったときの写しを、まだ持っていた。
あのとき、法務担当は巻物を確認して、はっきり言った。
異世界人との婚姻を禁じる法はありません。
あれは、禁止の規定が無いことの確認だった。
保護する法を探したわけではない。
当時は、それで十分だと思っていた。
禁止されていなければ通る、というのは、法の読み方としては正しい。
ただ、通らなかった。
法ではなく、札面が拒否したからである。
あのときの結論は、今でも正しいと思っている。
———
私は、旧い法規の目次を、後ろから読んだ。
前から読むと、使われている条から出てくる。
後ろから読むと、使われていない条から出てくる。
三冊目の、いちばん後ろの束にあった。
境界漂着者取扱令
題を見た瞬間に、指が止まった。
中身は短い。
二十条もない。
出身地の分からぬ者、異界より漂着せる者、言葉の通じぬ者について。
通常の戸札および人別台帳に登録し難き者を、暫定の欄に置くこと。
住むこと、働くこと、財を持つこと、婚を結ぶことを、条件を付して許すこと。
制定は、二百年ほど前だった。
その後の改正記録は、一度もない。
適用の記録は、末尾に何件か綴じられていた。
数えると、七件だった。
二百年で七件である。
———
私は、法務担当に会いに行った。
あのときの人である。
名前は覚えていないと言われそうな顔をされたが、向こうも私を覚えていた。
覚えられ方としては、たぶん、あまり嬉しくない方の覚え方である。
「これを、ご存じでしたか」
私は、綴じ本を開いて見せた。
法務担当は、しばらく黙って読んだ。
それから、正直に言った。
「知りませんでした」
「そうですか」
「言い訳になりますが」
「いえ」
「実務で出たことがありません。私の前の代でも聞いたことがない。……使われない条は、目次の後ろに沈みます」
この人は、誠実だった。
あのときも誠実だった。
誠実だから、無いものを無いと言い、あるものを見つけられなかった。
「法はあったんです」
私は言った。
「二百年、誰にも使われずに」
「……はい」
「ただ」
私は、続けた。
「あの日、あなたが悪かったわけではありません」
「慰めですか」
「事実の整理です」
その言い方は、マリエから借りたものである。
「この条が見つかっていたとしても、あの日の私は台帳に入れませんでした。台帳の側に、私を置く欄が無かったからです。欄を作ったのは、セシルさんたちが作った人物根です」
法務担当は、目を上げた。
「では、あの作業は」
「必要でした。法があろうと無かろうと、必要でした」
私はそう言って、綴じ本を閉じた。
「誰も使っていない法は、無いのと同じところに置かれます」
言ってから、自分で少し引っかかった。
「……記録と同じだ」
なぜそう言ったのかは、自分でもよく分からなかった。
———
三日後、私はラドゥルの執務室にいた。
軍の建物は、いつ来ても石の匂いがする。
窓が小さく、天井が高い。
声が、思ったより遠くまで届く。
私は、机の上に何も置かなかった。
置くと説明が長くなるからである。
「境界漂着者取扱令、というものを見つけました」
ラドゥルは、書類から目を上げた。
その動きが、いつもより少しだけ速かった。
「その言葉を、どこで聞いた」
「役所の旧い法規からです。人別台帳の関連法規の、後ろのほうに綴じられていました」
ラドゥルは、しばらく私を見ていた。
この人は、驚いたときに顔を動かさない。
その代わり、言葉が短くなる。
「読んだのか」
「読みました。適用の記録も、七件」
「七件」
「はい」
ラドゥルは、椅子の背にもたれた。
「軍にも、写しがある」
「やはり」
「私が知っているのは、その程度だ。写しがあり、区分がある。それだけだ」
———
「その人たちが、どこから来たのかは書いてありますか」
私は聞いた。
これが、聞きたかったことの全部である。
ラドゥルは、少しの間、答えなかった。
「書いてあれば、ユウ殿の欄も埋まっていた」
私は、息を吐いた。
自分でも、少し情けない音が出たと思う。
「記録にあるのは、異界より漂着せる者、という区分と、受理の年月だけだ」
ラドゥルは言った。
「出身は無い。名も、その後も無い。制度は、分類しか残さなかった」
「分類しか」
「入れる欄を作った時点で、当時の役所は仕事を終えている」
それは、よく分かる話だった。
欄を作るところまでが仕事で、埋めるところは誰の仕事でもない。
二百年前も同じだったらしい。
———
私は、机の端を見ながら考えていた。
異界から来た者がいた。
それは確かめられた。
だが、その者たちが、私と同じ世界から来たかどうかは分からない。
異界という語は、一つの場所を指していない。
ここではない、としか言っていない。
七件のうち、私と同じ世界から来た者が何人いたのか。
一人もいなかったのか。
全員そうだったのか。
どれも、今は言えない。
「勝手に、前例があると思ったな」
ラドゥルが言った。
見透かされていた。
「思いました」
「前例はある。だが、ユウ殿の前例ではない」
「はい」
「そこを取り違えるな。取り違えたまま調べると、欲しい答えの方に寄る」
この人は、戦の人だと思っていた。
実際には、たぶん、報告を読む人である。
———
私は、少し迷ってから聞いた。
自分の話を最後に回す癖がある、と、この前言われたところである。
「一つ、確かめたいことがあります」
「言え」
「私がこの世界に来て、最初に王城へ呼ばれた日。あなたは、身元などいま作ればいいと言いました」
ラドゥルの手が、書類の上で止まった。
覚えていたらしい。
「言った」
「あれは、何を根拠に言ったんですか」
「根拠は無い」
即答だった。
「無いんですか」
「無い」
ラドゥルは、こちらを見た。
「魔王軍が来ていた。使える者を、使える形にする必要があった。法があるかどうかは、確かめていない」
「では、それで通ったんですか」
「通るか」
ラドゥルは、書類を横へ寄せた。
「私に、異界の者を国に置く権限は無い。私が決められるのは、門の前までだ」
「では」
「私が書いたのは、一枚だ」
彼は、指を一本立てた。
「使える、と書いた。あとは、私の仕事ではない」
———
思い出したことがある。
南門の翌日だった。
この人は、言いかけて、やめた。
王国としては、お前の力を正式に借りたい。……と言いたいところだが。
そこで一度、言葉を切って、休め、と言った。
あのとき、私は疲れていて、続きを聞かなかった。
続きが無かったのではない。
この人が、まだ言えなかっただけだった。
———
その数日後、私は玉座の間に呼ばれた。
王がいた。
横に、宰相がいた。
私はずっと、あれを、礼を言われる場だと思っていた。
王は、本来なら金と地位を与えるところだと言った。
そして、それを取り下げた。
今この王国に足りぬのは褒賞ではない、と言った。
仕事だ、と言った。
宰相は、そのあと長く喋った。
術式が複雑になりすぎて、人手を足しても後始末に吸い込まれるだけだという話を、大図書館の棚を例にして。
そして、こう言った。
戦場でそれを見ました。今度は、国の中でそれをやってほしい。
最後に、王が言った言葉を、私はいまでも覚えている。
戦争に勝っても、紙に負けては意味がない。
あれは、礼ではなかった。
あれが、返事だったのだ。
———
「ラドゥルさん」
「なんだ」
「あなたは、南門の話をしたんですね」
「した」
「王は、図書館の話をしました」
ラドゥルは、少しの間、黙っていた。
「そうだ」
「……通ったのは、そちらですか」
「そちらだ」
私は、少し笑ってしまった。
この人は、あの日、私を資産と呼んだ。
私はその言葉が好きではなかった。
王は、資産とは言わなかった。
仕事だ、と言った。
どちらが冷たいのかは、いまでも分からない。
ただ、一つだけ、はっきりしたことがある。
王国は、決めていた。
誰かの思いつきで、私はここにいるわけではなかった。
———
そして、あの令は、そのときすでに二百年そこにあった。
出身地の分からぬ者を、暫定の欄に置くこと。
住むこと、働くこと、財を持つこと、婚を結ぶことを、条件を付して許すこと。
私がこの世界でしてきたことが、ほとんど全部、そこに書いてあった。
人の家に住んだ。
学校の席をもらった。
王城の仕事をした。
そして、結婚した。
そのどれもが、その場その場の特別扱いだった。
王城の特別扱い。
学校の特別扱い。
役所の特例控え。
特別扱いには、名前が無い。
名前が無いものは、次の人に引き継がれない。
王国は、私を、紙を通す者として置くことに決めた。
その紙に、私の欄は無かった。
法はあった。
二百年、誰も開かなかった。
———
「もう一つ、いいですか」
「言え」
「その令があれば、あの日、婚姻登録は通っていましたか」
ラドゥルは、少しも迷わなかった。
「通らん」
「通りませんか」
「令は、置いてよいと言っているだけだ。置く場所は作っていない」
そのとおりだった。
あの日、私を止めたのは法ではなかった。
記入欄が無いことだった。
取扱令があろうと無かろうと、セシルさんたちが人物根を作らなければ、私は台帳に入らなかった。
法があるだけでは、人は登録できない。
変わるのは、そこではない。
変わるのは、呼び名だけである。
———
「ずっと、例外として扱われてきました」
私は言った。
「今もだ」
「はい。ただ、例外という言い方は、たぶん正確ではありませんでした」
「では何だ」
「未分類です」
ラドゥルは、しばらく黙っていた。
「分類はある」
彼は言った。
「中身が、何も書かれていないだけだ」
———
「ラドゥルさん」
「なんだ」
「王国は、この現象をどこまで把握していますか」
ラドゥルは、少し笑った。
この人が笑うのは、珍しい。
「王国が全てを管理していると思うな」
彼は言った。
「管理できていれば、こんなに面倒なことにはなっていない」
私は、何も言えなかった。
国家というのは、外から見ると万能に見える。
中に入ると、だいたい人手が足りていない。
どの世界でも同じらしい。
———
その日の夕方、私は一人で術務室に残った。
窓の外が赤くなって、すぐ紫になった。
王都の灯りが、下から順に点いていく。
私は、紙に書いたものを、もう一度読んだ。
概念共鳴。
境界転移。
変換。
変換漏れ。
物が落ちてくる理屈は、これで一応ついた。
ニコの部屋に機械が現れた理由も、九千八百式の型番が東の目録に無い理由も、体験版の三文字が残っている理由も、これで説明はつく。
説明がつくということと、正しいということは違う。
だが、少なくとも、机の上の物とは矛盾しない。
ついていないものが、二つある。
———
一つは、私が死んでいることだ。
いや、そう思っている、ということだ。
確かめたわけではない。
義母に聞かれたときも、そう答えた。
感覚だけが、はっきり残っている。
だが、概念共鳴は、そこを説明しない。
ニコの部屋に現れた機械は、誰も死なずに現れている。
紙箱も、記憶石も、綴じ本も、ただ机の上に載っただけである。
物が落ちるのに、死は要らない。
では、なぜ人は死を経由するのか。
経由しない場合もあるのか。
そもそも、経由していたのか。
答えは出ない。
もう一つは、この端末である。
最初に、私にそれを教えたのは、この端末だった。
推測:あなたは死亡イベントを経由し、別環境に転移しました。
そう言った。
あの日、私はまだ何も分かっていなかった。
そして、輝ける場所へ向かうと言った。
中庭では、あれを皮肉として受け取った。
受け取り方としては、たぶん正しい。
ただ、皮肉には、言う側が要る。
もしこれが、誰の意図でもない自然の現象なら。
落ちる側に意志が無く、呼ぶ側にも意志が無いなら。
この端末は、なぜ、そう言ったのか。
———
私は、口に出した。
誰もいない部屋である。
だから、口に出せた。
「たぶん、俺も、同じ落ち方をしたんだと思う」
AIエージェント:「観測:」
そこで、止まった。
続きが来なかった。
私は、しばらく待った。
いつもなら、この間に三つは余計なことを言っている。
最悪のときに、最も正しいことを言う。
それがこの端末である。
「……観測、なんだ」
返事は無かった。
「聞こえているか」
AIエージェント:「観測:王都の灯りが、五百十二か所で点灯しました」
私は、それをしばらく見ていた。
答えていない。
答えていないが、黙ってもいない。
沈黙を、別の言葉で埋めている。
私は、それ以上聞かなかった。
聞いても無駄だという勘が働いた、というのが正直なところである。
私は紙を畳んで、鞄に入れた。
窓を閉めて、灯りを消した。
部屋を出るとき、一度だけ端末を見た。
いつもと、同じ顔をしていた。
———
家に帰ると、リゼが夕飯を温め直していた。
根菜の煮物と、固いパン。
義母のところで習った味である。
「遅い」
「遅くなった」
「ラドゥルさんに会ったって」
「会った」
私は、席に着いた。
そして、その日のことを、順に話した。
法規のこと。
二百年前の令のこと。
七件のこと。
出身が書かれていないこと。
リゼは、匙を持ったまま、黙って聞いていた。
途中で一度も口を挟まなかった。
挟まないときのこの人は、たいてい、いちばん先まで考えている。
———
話し終えたあと、しばらく音が無かった。
窓の外を、荷車が一台通った。
「ねえ」
「うん」
「ユウは、その、落ちてきた人たちと同じなんだよね」
「たぶん」
「同じ落ち方をしたなら」
リゼは、そこで一度止まった。
匙を置いた。
置く音が、いつもより静かだった。
「じゃあ、ユウは……いつか戻されるの?」
私は、すぐに答えられなかった。
答えを持っていなかったからである。
もし持っていたら、たぶん、もっと悪い答え方をしていた。
落ちるものがあるなら、戻るものもあるかもしれない。
境界が薄くなるなら、また薄くなるかもしれない。
私が来たのが自然の現象なら、帰るのも自然の現象でありうる。
そして、その先を、この人は知っている。
私が、あちらで自分は死んだのだろうと思っていることを、この人は食卓で本人から聞いている。
だから、戻されるという言葉の意味は、遠くへ行くことではない。
私は、その含みを口に出さなかった。
出したら、安くなる。
「分からない」
私は言った。
「でも、少なくとも今の俺は、ここにいる」
リゼは、じっとこちらを見ていた。
「それ、答えになってない」
「うん。ごめん」
私は、素直に言った。
絶対に戻らない、とは言えなかった。
言えば、この場は楽になる。
だが、それは私が確かめていないことである。
確かめていないことを、この人に言いたくなかった。
リゼは、しばらく黙っていた。
それから、匙を持ち直した。
「でも、今はそれでいい」
「いいのか」
「よくない」
リゼは言った。
「よくないけど、今はそれでいい」
その二つを同時に言えるのが、この人の強いところである。
「煮物、冷めてる」
「温め直す」
「自分でやる」
「やって」
私は、立って鍋の前へ行った。
背中の方で、リゼが小さく息を吐いたのが分かった。
私は、振り返らなかった。
振り返らないほうがいいときが、たまにある。
———
その夜、私はもう一度、冊子を開いた。
最後の頁。
いつか、この物語を、誰かが最後まで読めますように
几帳面な字である。
この子は、読めないものを写して、意味を当てて、字数に負けて、それでも最後まで進めようとしていた。
残りの時間を告げられたうえで、そうしていた。
最後まで読めなかった。
私は、読める。
読めるが、この子には会えない。
届いたのは願いだけで、届けた人は残っていない。
私は、冊子を閉じた。
———
九千八百式は、部屋の隅に置かれている。
義父が、しばらく預かれと言って持たせた。
あの人なりの、たぶん、何かである。
魔力導線は繋いでいない。
表示鏡は、黒いままだった。
私は、その前にしゃがんだ。
厚い鏡の表面に、部屋の灯りが映っている。
その灯りの手前に、輪郭が一つあった。
私は、九千八百式の黒い表示鏡に映った自分の顔を見た。
そこにいたのは、異世界から来た技術者ではなく、まだ誰にも分類されていない漂着物だった。




