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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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181/257

第181話 翻訳した少年

 魔法横丁は、王都の北側にある。


 通りというより、隙間である。

 二本の大通りの間に残った細い道が、いつの間にか市になった場所だ。

 だから幅が揃っていない。

 二人並べる所と、荷を持つと肩が擦る所が、交互にくる。


 空はほとんど見えない。

 両側の建物が、上へ行くほどせり出しているからである。

 建てるときに誰も止めなかったのだと思う。


「暗いね」


 リゼが言った。


「昼だぞ」


「昼なのに暗いから言ってるの」


 義父は、先を歩いていた。

 この人は、この道を知っている歩き方をする。

 迷いがない。

 三十年経っても、体が覚えているのだろう。


———

 記憶石屋は、通りの奥の、階段を三段下りたところにあった。


 軒が低い。

 入り口の脇に、木の看板が立てかけてある。

 字は削れていて、もう読めない。


 中は、思ったより広かった。

 棚が壁一面にあり、紙箱と記憶石が詰まっている。

 種類ごとに分けられているようには見えない。

 だが、店の人間には分かるのだと思う。

 こういう店は、たいていそうだ。


 奥の帳場に、五十代後半くらいの男が座っていた。


「いらっしゃい」


 声は低いが、愛想は悪くない。


 義父が言った。


「三十年前に、ここで九千八百式を買った」


 男は少し目を細めた。


「うちですか」


「うちだ」


「では、親父の代ですね」


 男は帳場から出てきて、義父の顔をしばらく見た。


「サイです。二代目になります」


「ヴァルンだ」


「覚えていませんが、たぶんお会いしています」


 サイはそう言って、笑った。


「あの頃、九千八百式を買っていく人は、そう多くありませんでしたから」


———

 私たちは、店の隅の卓を借りた。


 サイは奥から、綴じ紐で束ねた分厚い帳面を三冊持ってきた。

 紙が波打っている。

 湿気を吸って、また乾いた紙の形だった。


「親父の帳簿です。仕入れと売りが、日付順に」


「よく残っていますね」


「捨てられないんですよ。捨てると、あとで必ず要ります」


 商売人の言うことである。

 役所でも同じ言葉を聞いたことがある。


 サイは指を舐めて頁をめくった。

 三十年前あたりで手を止め、しばらく行を追う。


「ありました」


 彼は帳面をこちらへ向けた。


 細かい字で、一行。


九千八百式個人用術盤 一式 極東島国渡り 付属品共


 その下に、値。

 義父が言ったとおり、機械一台の値としては安かった。


 そして、備考の欄。


遺品 西区モリス通り 母君より


———

「買い取りの記録です」


 サイが言った。


「西区の家から、まとめて引き取っています。親父の字で、遺品と」


 義父は、その一行を長く見ていた。


「店の親父は、亡くなった子どもの遺品だと言っていた」


「そう聞いてらしたなら、そうなんでしょう」


 サイは、少しだけ声を落とした。


「親父は、値の理由は必ず言う人でした。安いものには安い理由があると。……その代わり、言わなくていいことまで言う人でもありました」


 この人は、父親のことをよく分かっている。

 そして、たぶん、少し困っている。


 サイは、別の頁を開いた。


「同じ日に、他にも引き取っています。書き物机が一つ、術具の道具箱が一つ、それから、書きかけの帳面が数冊」


「帳面も」


「値がつかないので、付属品として付けたようです」


 私は、義父の倉から出てきた冊子のことを思った。


 値がつかなかったから、ついてきた。

 値がついていたら、どこかで別に売られて、散っていた。


 残るものの理由は、たいてい、こういう程度のものである。


———

「その、亡くなった子の名前は」


 私は聞いた。


 サイは、帳簿の欄をもう一度見た。


「家名しかありません。母君、としか」


 彼は少し考えた。


「ですが、親父の覚え書きの方に、名前があったかもしれません」


 サイは奥へ戻り、もっと小さい帳面を持って戻ってきた。

 こちらは帳簿ではない。

 仕入れの下見や、客の好みを書き留めた覚え書きらしかった。


 彼は頁をめくり、指を止めた。


ニコ坊の品 まとめて 値つけ難し


「ニコ、と」


「ニコです」


 サイは言った。


「親父の書き方だと、たぶん、顔を知っている子です。うちに通っていたんでしょう」


———

 私は、そこで一度、話を変えた。


 聞いておかないといけないことがあった。

 順番としては、こちらが先だったかもしれない。


「サイさん。この型番は、極東島国のどのあたりの品ですか」


 サイは、少し嬉しそうな顔をした。

 自分の商売の話になったからだと思う。


「東の品は、うちがいちばん詳しいはずです。目録がありますので」


 彼はまた奥へ入り、今度は別の綴じ本を持ってきた。

 こちらは印刷物だった。

 厚い。

 紙の端が黒くなっている。


「輸入目録です。輸入されるものは、すべてこれに載ります。載っていないものは、正規には入りません」


 彼は頁を開いた。


 個人用術盤の項が、二十頁ほど続いていた。


 型番が、ずらりと並んでいる。


九千式

九千百式

九千二百式

九千五百式

九千六百式

九千六百式改

一万一千式

一万二千式


 規格の系譜が見える。

 番号が飛んでいるところは、たぶん出なかった型か、名前を変えた型だろう。


 私は、上から下まで二度読んだ。


 九千八百式が、無い。


———

「載っていませんね」


 私は言った。


 サイは、自分でももう一度指で追った。

 それから、少し眉を寄せた。


「……載っていません」


「別の巻に」


「無いはずです。個人用術盤は、この巻に全部載ります」


 彼は正直だった。

 誤魔化さない人だ。


「似た型なら、いくらでもあります。九千六百式は今でも東から来ます。ですが、この型番は、うちの目録にありません」


「先代の帳簿には」


「極東島国渡り、としか」


 サイは帳簿の行をもう一度見て、言った。


「売った人間が、そう言ったんでしょう。親父も、そう書くしかなかった」


 つまり、先代も出どころを知らなかった。


 目録は、あるものを並べる。

 無いものは、並ばない。


 だから空白は、探さないと見つからない。

 誰も探さなければ、三十年、そこに空いたままである。


———

 義父が、目録をのぞき込んでいた。


「九千六百式なら、私も見た」


「今でも入りますよ」


「記憶石は、同じ形か」


「同じです」


 義父は、少しだけ黙った。


「私の九千八百式には、東の遊戯を入れていた。だいたい動く」


「だいたい、ですか」


「動かんのが混じっとる」


 義父は、当たり前のことを言う顔で言った。


「昔からだ。二十枚あれば、二枚か三枚は動かん。そういう型だと思っとった」


 サイが頷いた。


「東の品は、型が違うと動かないことがありますからね」


「そうだろう」


 義父は納得していた。

 三十年、納得していたのだと思う。


 私は、何も言わなかった。


 言えなかった、という方が正しい。


 この人が三十年「この型の癖だ」と思ってきたものは、癖ではない。

 別の物だったからである。


 夜通し起動巻物を書き換えて、数十文字分の空きを作って、音を鳴らすか表示を安定させるかで悩んで、面倒だから覚えている、と言ったあの三十年は、本人が知らないまま、別の世界から来た機械と格闘していた時間だった。


 それを、今ここで言う理由が思いつかなかった。


 言ったところで、この人の三十年は変わらない。

 変わるのは、たぶん、この人の中の何かの手触りだけである。


 私は黙って、目録の頁を閉じた。


———

 ここから先は、記録に残っていない。


 帳簿と、覚え書きと、義父の倉から出てきた冊子と、店主の話。

 その四つから、私が勝手に組み立てたものである。


 だから、以下は想像である。

 外れているかもしれない。


 それでも、書いておきたい。


———

 少年は、机に向かっていた。


 紙が散らばっている。

 どれも、同じことが書いてあった。


 えらぶ言葉

 道が分かれる

 覚えておく

 前に戻る

 顔が変わる

 言葉を送る

 音が鳴る

 章を分ける

 終わりが複数


 少年は、物語の絵巻を作りたかった。


 ただ読むだけの絵巻ではない。

 読む者が選べる絵巻である。

 選んだところで道が分かれて、終わりが変わる。

 登場する人物が、こちらの選んだ言葉に返事をする。


 王都にそんなものは無かった。

 だから、自分で考えるしかなかった。


 少年は、その仕組みを紙に何度も描き直していた。

 絵は下手だった。

 線は震えていた。

 だが、分岐の枝の数だけは、正確に数えられていた。


 その夜のことである。


 部屋の空気が、少しだけ薄くなった。


 耳の奥が詰まる感じがして、少年は顔を上げた。

 窓は閉まっている。

 風は無い。


 机の上の紙が、一枚だけ、めくれた。


 そして、次にまばたきをしたとき、机の上に、無いものが載っていた。


———

 角張った灰色の箱。

 厚みのある鏡。

 黄ばんだ鍵盤。

 紙箱がいくつか。

 薄い石が何枚か。

 厚い綴じ本が一冊。

 そして、細い線が一本。


 少年は、しばらく動かなかった。


 叫ばなかったらしい。

 叫んでいたら、家族が起きて、この話は別の形で残っていたはずである。


 少年は、たぶん、そっと手を伸ばした。

 箱は冷たかったと思う。

 埃はついていなかったと思う。


 そして、たぶん、こう思った。


 これは、何だ。


———

 少年は、それを動かそうとした。


 最初は、まったく動かなかった。


 線を繋ぐところは分かった。

 術具の端子と同じ形をしていたからである。

 だが、繋いでも何も起きなかった。


 二度目に、少年は魔力を強く流した。

 箱の中で小さな音がして、焦げた匂いがした。


 少年は青くなった。

 壊したと思ったのだろう。


 三度目、少年は魔力をうんと弱めた。


 厚い鏡が、じわりと明るくなった。


 そして、音が鳴った。


 小さな起動音である。


 少年は、たぶん、その場に座り込んだ。


———

 鏡に文字が並んだ。


 少年には、読めなかった。


 東の島国の字に似ていた。

 似ているだけで、読めなかった。


 少年は東の字を知らなかった。

 王都の子どもは、ふつう知らない。


 ここで諦めても、誰も責めなかったと思う。


 だが、少年はこう考えたらしい。


 読めない。

 でも、動いた。

 なら、読めるようになればいい。


 順序が逆である。

 ふつうは、読める物を動かす。


 だが、この順序は、技術者の順序だった。


———

 少年は、東の言葉の辞書を買った。


 王都で東の辞書を買うのは、当時はそれなりの出費だったはずである。

 十五かそこらの子どもが、小遣いを何か月か積んで買う類のものだと思う。


 辞書と鏡を並べて、一字ずつ引いた。


 半分は引けた。

 半分は引けなかった。


 引けなかった字が、私の世界の字である。


 少年は、それを東の言葉の崩れた形だと思ったはずだ。

 義父が三十年そう思ったのと、同じ理由で。


 だから少年は、引けない字を、意味から当てにいった。


 前後の並びを見て、絵を見て、押した時に何が起きるかを見て、当てる。

 当たっているかどうかは、確かめようがない。


 それでも、少年はほとんど当てていた。


 私は、あの冊子の対応表をもう一度思い出した。


 保存を、記憶にしまう。

 読込を、前の記憶をひらく。


 直訳である。

 硬い。

 だが、間違っていない。


 間違っていないことが、少し恐ろしい。


———

 読めるようになると、少年は、書き換えはじめた。


 遊戯の中の言葉を、王国語に置き換える。


 誰にも頼まれていない。

 権利も何も無い。

 そもそも、頼む相手がいない。


 少年は苦労したはずである。


 王国語は長い。

 東の言葉は短い。

 同じ意味を入れると、枠からはみ出す。


 名を入れる欄が二文字ぶんしか無くて、王国語の名前が入らない。

 行の折り返しがおかしくなって、文が途中で切れる。

 意味の通る訳は長すぎて、短い訳は意味が変わる。


 少年は、二字減らした。

 意味が二つある語は、ひとまず後の意味で置いた。

 どうしても入らない台詞は、思い切って別の言い方にした。


 その結果、たぶん、変な訳がいくつも生まれた。


 友人たちは、それを見て笑ったと思う。


 笑いながら、遊んだと思う。


 王都には、東の遊戯を王国語に雑に直したものが、当時いくらでもあった。

 義父もそう言っていた。

 だから、少年の翻訳は、特別ではない。


 特別だったのは、そこではない。


 みんなは、店で買った機械で、店で買った遊戯を、雑に直していた。


 この子だけが、誰も持っていない機械を、誰にも教わらずに動かした。


 しかも、その機械は、店から買ったものではない。


 ある夜、部屋に現れたものである。


———

 少年は、十七で死んだ。


 病である。


 帳簿には、当然そんなことは書かれていない。

 サイが先代から聞いた話では、術の効かない病だったという。

 長くはないと、早いうちに言われていたらしい。


 この世界の治癒魔法は、たいていのものを治す。

 たいてい、であって、全部ではない。

 効かない病は、昔から一定数ある。


 病の名も、経過も、分からない。

 分からないままでいいと思う。


 ただ、一つだけ、はっきりしていることがある。


 その手の病は、ある日突然に人を連れていかない。

 先に、告げる。


 あの子は、あと何年かだと知らされていた。

 知らされたうえで、あの部屋にいた。


———

 知らされてから、あの子は何をしていたか。


 辞書を引いていた。

 字数を数えていた。

 入らない台詞を、三通り書いて、二つに線を引いていた。


 それだけである。


 立派な話にするつもりはない。

 十七の子どもが、残りの時間で古い遊戯を訳していた、というだけの話である。


 だが、私はそれを笑えない。


 人が、自分の時間の終わりを知らされたときに何をするかは、たぶん、その人がそれまで何をしてきたかで決まる。


 あの子は、読めないものを読もうとしてきた。


 だから、最後まで、そうした。


———

 両親は、しばらく部屋をそのままにしていた。


 それから何年かして、家を売ることになり、部屋を片づけ、魔法横丁へ売った。


 値のつかない帳面は、付属品として付いてきた。


 それを、二十歳そこそこの義父が買った。


———

「──というのが、私の想像です」


 私は、そう言って話を終えた。


 サイは、腕を組んで聞いていた。


「よく、そこまで組み立てますね」


「帳面が残っていたからです」


「帳面は、うちにもありましたが、私は組み立てませんでした」


「それは、組み立てる理由が無かったからです」


 私にはあった。

 それだけの違いである。


 サイは、少し考えてから言った。


「一つだけ、親父から聞いた話があります」


「はい」


「引き取りに行ったとき、母君が言ったそうです」


 彼は、覚え書きの角を指でなぞった。


「あの子は、どこか遠い国の物語を読んでいるつもりだったのでしょうね、と」


 私は、答えられなかった。


 その「遠い国」が、たぶん国ではないからである。


———

 店を出ると、外は明るかった。


 暗い店にいたせいで、細い空が妙に白く見える。


 義父は、目録の話をまだ引きずっていた。


「九千六百式を一台、探してもらうことにした」


「増えますよ」


「増える」


 義父はそう言って、先に帰っていった。


 義母に何と言うつもりなのかは、たぶん考えていない。

 最悪だ。


 だが、あの人は、あの人のままでいい。


———

 私とリゼは、そのまま歩いて帰ることにした。


 魔法横丁を抜けて、大通りに出る。

 荷車の音が戻ってきた。

 空が広くなると、それだけで少し息がしやすい。


「ねえ」


 リゼが言った。


「うん」


「極東島国って、行けるの」


 私は、少し考えた。


「行けるには行ける」


「行けるんだ」


「翼竜を、何度も乗り継いで。片道で四十日くらい」


 リゼが足を止めた。


「四十日」


「乗合翼竜は、毎刻六十歩里ほど出る。早馬より半分だけ速い。だが、生き物だから、一日に飛べるのは五刻か六刻だ。それから乗り継ぎ待ちと、天気」


「天気で止まるの」


「止まる。海の上で止まられると困る」


「困るね」


 リゼは、また歩き出した。


「往復と、向こうにいる日を足すと、半年近く空ける」


「半年」


「俺は術務室の仕事があるし、リゼは学校と勤めがある」


「無理ね」


「無理だな」


 二人とも、少し黙った。


 どちらも、無理だと分かっていて聞いた。

 分かっていても、一度は口に出したかったのだと思う。


「あの浮く石で、いつか海を渡れるようになればな」


 私は言った。


「なるの」


「知らん。俺が作るわけじゃない」


「作らないんだ」


「作らない。作る人がいる」


 リゼは、少し笑った。


 それから、前を向いたまま言った。


「いつか行こうね」


「うん」


 行けるとは言わなかった。

 行こう、とだけ言った。


 その言い方が、たぶん正しい。


———

 家に戻って、私は冊子をもう一度開いた。


 灯りを近づける。

 紙の端が、光を吸って柔らかく見えた。


 対応表。

 脇の書き込み。

 字数が入らぬ。

 二字減らす。


 途中から、書き込みが減っていく。

 慣れたのだと思う。

 慣れると、人は書かなくなる。


 だが、終わりの方は、そうではなかった。


 字が、少し急いでいる。

 行の頭のそろい方が、前より甘い。


 几帳面な子が几帳面でいられなくなる理由を、私は一つしか思いつかなかった。


 そして、最後の数頁。


 訳の下書きが、びっしり並んでいた。

 消した跡が多い。

 同じ台詞が三通り書かれて、二つに線が引かれている。


 急いでいて、それでも、雑にはしていない。


 その、いちばん最後の頁。


 下の方に、一行だけ書かれていた。


いつか、この物語を、誰かが最後まで読めますように


 拙い字だった。


 ただ、この一行だけは、行の頭がまっすぐそろっていた。


 急いでいた手が、ここだけ止まっている。


———

 リゼが、後ろから覗き込んだ。


「読める?」


「読める。これは王国語だ」


「そっか」


 リゼは、しばらくその一行を見ていた。


 それから、静かに聞いた。


「これ、書いた子は……ユウと同じものが見えてたのかな」


 私は、首を振った。


「いや。この子には、読めていない」


「読めてないの」


「読めていない」


 私は、冊子の左の列を指した。


「ここに、俺の世界の字がある。この子は、これを東の言葉だと思って写している。形だけ、一字ずつ」


「じゃあ」


「意味は、当てただけだ。当たっていたけど、当てただけだ」


 リゼは、それを聞いて、少し息を吸った。


「じゃあ、ユウが読めるって知ったら」


「たぶん、喜んだと思う」


 私は言った。


「でも、会えない」


 それだけだった。


 この子は、読めないまま、四十年前に写した。

 私は、読めるのに、四十年遅れて来た。


 同じ紙の上で、擦れ違っている。


———

 私は、その一行をもう一度読んだ。


 いつか、この物語を、誰かが最後まで読めますように。


 誰かが、と書いてある。

 自分が、ではない。


 この子は、自分が最後まで読めないことを、知っていた。

 推し量ったのではない。

 告げられて、知っていた。


 知っていて、字数を数えていた。

 訳が決まらず、動かない記憶石が混じっていて、それでも一頁ずつ進めていた。


 だから、最後の頁に書いた願いは、自分のためのものではなかった。


 自分のためでない願いを、最後の頁に書ける子だった。


 私は、灯りを少し遠ざけた。


 願いは、四十年かけて、部屋を出て、店の棚を通って、他人の倉に二十年積まれて、今日ここに届いた。


 届いた先が私である、というのが、いちばん妙な話だった。


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