第180話 読めてしまう文字
休みの日というのは、何も起きないから休みなのだと思っている。
何か起きたら、それはもう平日である。
その朝、私は起きなかった。
正確には、起きられたが起きなかった。
台所からパンを焼く匂いがして、それでも起きなかった。
休日には、そういう権利がある。
「起きて」
「起きている」
「目が閉じてる」
「閉じたまま起きているだけだ」
「それは寝てるって言うの」
リゼは容赦がない。
結婚してから、遠慮という機能が外されたらしい。
———
遠話鏡が鳴ったのは、昼前だった。
卓の上で小さな鏡が震え、光が丸く広がる。
映ったのは、灰色まじりの髪と、細い目だった。
「ユウ君か」
「お義父さん」
リゼの父、ヴァルンである。
結婚してからも、この人の話し出しは変わらない。
挨拶がない。
用件から始まる。
「倉を片づけていたらな、昔の九千八百式の付属品がまた出てきたんだ」
私は少しだけ背筋を伸ばした。
横からリゼが顔を出す。
「お父さん、まだあれ持ってたの?」
「青春だからな」
「青春を倉に積まないで」
鏡の向こうで、義父は表情を変えなかった。
「積んでおくものだ」
「置き場所を取るものだって言ってるの」
鏡の端に、義母のミレアが横切った。
布巾で手を拭きながら、こちらを見ずに言う。
「リゼ、来なさい。どうせお父さんは、来るまで倉から出てこないから」
電話に近い術具のはずなのだが、実家の音がそのまま入ってくる。
このあたりの雑さが、私は嫌いではない。
———
午後、私たちはリゼの実家へ向かった。
石畳の道はよく掃かれていて、窓辺の鉢植えは前より一つ増えていた。
軒先の布は乾いている。
初めて来たときの緊張は、もうない。
その代わり、別のものがある。
道を歩きながら、リゼが言った。
「顔が固い」
「固くない」
「固いよ」
「……少しだけ固い」
「なんで」
私は少し考えた。
「たぶん、前に見たものを、もう一度見るからだ」
リゼは、それ以上聞かなかった。
聞かないところが、この人はうまい。
———
居間の卓の上に、古い品が並んでいた。
紙箱がいくつか。
厚い綴じ本が一冊。
薄い記憶石が、色褪せた紙袋に入って何枚か。
布の覆い。
差し込み口の蓋。
折り込まれた紙が数枚。
そして、細い綴じ紐で留めた手帳のような冊子が一冊。
埃は落としてある。
だが、紙の端はどれも茶色い。
義父が言った。
「倉の奥の木箱に、まとめて入っていた。二十年ぶりだ」
「二十年」
「たぶん、そのくらいだ」
義母が茶を運んできて、盆を置きながら言った。
「あなた、また記憶晶の話をするんでしょう」
「それはこの前した」
「した。長かった」
弟のノルが、椅子の背にもたれたまま言った。
「二刻半」
「数えてたの」
「途中から数えるしかなくなった」
義母が笑った。
義父は否定しなかった。
否定しないところが、この家族の面白いところである。
私は少し安心した。
今日は、そちらの話ではない。
———
義父が九千八百式を出してきた。
角張った灰色の箱。
黄ばんだ鍵盤。
厚みのある表示鏡。
側面に、薄い記憶石を差し込む口が一つ。
義父は魔力導線を繋ぎ、記憶石を差し込んだ。
小さな起動音が鳴る。
表示鏡が、じわりと明るくなった。
黒地に、白い文字が並んでいく。
線は粗い。
だが、文字の並びは妙に整っている。
私は、その並びを見ていた。
私は、この形の機械を、実物では知らない。
私の世界でも、これは私が生まれるより前の道具だった。
古式再現の環境で触ったことがあるだけで、資料を少し読んだだけである。
だから、懐かしくはない。
懐かしくないのに、知っている。
この感じの居心地の悪さを、うまく言葉にできない。
再現でしか知らないもののほうが、実物より先に頭の中にある。
その実物が、義父の家の卓に置かれている。
最悪だ。
———
「動くんですね」
「動く」
義父は満足そうに言った。
「二十年、木箱の中だ。それでも記憶石が生きていた」
「よく生きていましたね」
「乾いた場所に置いておけば、たいてい生きている。湿ると死ぬ」
それは、私の世界でもだいたい同じだった。
私は表示鏡の文字を追った。
極東島国語らしき文字が並んでいる。
読めない。
当たり前だ。
私はこの世界の東の言葉を習っていない。
だが。
文字の並びの、いちばん下。
枠から少しはみ出した行がある。
そこだけ、文字が違った。
CONFIG
六つの文字が、横に並んでいた。
私は、しばらくそれを見ていた。
———
義父は気づいていない。
表示鏡の下の行など、二十年見て何とも思わなかったのだろう。
私は、卓の上の品に手を伸ばした。
まず、厚い綴じ本。
表紙は極東島国語。
中も極東島国語。
だが、いちばん後ろのほう、折り返しの内側に、小さく刷られた行がある。
無断複製を禁ず
読めた。
次に、記憶石の紙袋。
表に手書きの王国語。
裏の隅に、細い横書き。
README
読めた。
次に、折り込みの紙。
遊戯の広告らしい。
絵は粗く、色は褪せている。
その隅。
第三話 配布中
読めた。
その下。
体験版
読めた。
———
三文字なら、偶然だと思うことにしていた。
あの夜、私はそう決めた。
石橋の上で、リゼに「分からない」と答えて、そのまま持って帰った。
文字が一つ流れ着くことくらいはあるだろう、と。
十を超えたあたりで、その言い訳は使えなくなった。
起動。
終了。
音量。
説明書。
おまけ。
第三話。
無断複製を禁ず。
体験版。
README。
CONFIG。
AUTOEXEC。
一つなら偶然である。
十なら現象である。
私は数えていた。
数えている自分に気づいて、やめた。
———
「ユウ、顔が怖い」
リゼが言った。
私は顔を上げた。
義父も義母もノルも、こちらを見ている。
誰も驚いていない。
当たり前だ。
この家の全員が、もう知っている。
私の世界の文字が、古い遊戯の箱に印刷されていることを。
あの夜、私が自分で言った。
だから、リゼの問いは、そこではなかった。
「……前に読めたのは、一つだけだった」
「今は」
「数えるのをやめた」
リゼは、少しだけ息を吸った。
「やめたって、いくつで」
「十一」
「やめてない」
「やめようとした」
AIエージェント:「観測:現時点で判読可能な現世語は十六です」
「黙れ」
AIエージェント:「補足:数えるのをやめたのは、あなただけです」
最悪だ。
この端末は、こういう時に必ず正しい。
ノルが身を乗り出した。
「今の、何?」
「俺の世界の道具です。数を数えるのが趣味なんです」
「趣味なんだ」
「趣味です」
実際には趣味ではない。
趣味であってほしいだけである。
———
リゼが、折り込みの紙をのぞき込んだ。
「わたしには、これ、ぐちゃぐちゃの模様に見える」
「模様に見えるならまだいい。俺には文章に見える」
「読めるんだ」
「読める」
「気持ち悪くない?」
私は少し笑った。
「かなり気持ち悪い」
義父が、紙を手に取って表と裏を返した。
「私には、極東の字が崩れたものに見える。昔からそう思っていた」
「崩れて、いますか」
「崩れているというより、下手だと思っていた」
義父は紙を光にかざした。
「刷りは悪くない。字だけが、東の字の形をしていない。それで、東の田舎の刷り物だろうと思っていた」
筋は通っている。
通っているぶん、誰も引っかからずに二十年が過ぎたわけだ。
———
義父は、卓の上の品を一つずつ並べ直しはじめた。
紙箱を左。
紙を右。
記憶石を真ん中。
綴じ本を端。
それから、手を止めた。
「この字は、店の親父のじゃない」
「え」
義父は、記憶石の紙袋を指した。
表に王国語で、細かく何か書いてある。
「店の親父の字は、もっと太い。値を書くときに筆を押しつける癖があった」
「覚えているんですか」
「値札を三十年見ていれば覚える」
義父は袋を裏返した。
「この字は細い。それに、几帳面すぎる。行の頭が全部そろっている」
そう言われて見ると、たしかにそろっていた。
文字の大きさも、間隔も、ほとんど揺れていない。
書き慣れた大人の字ではない。
丁寧に書こうとしている人間の字である。
「もう一つある」
義父は紙箱の一つを取り、蓋を外して内側を見せた。
「箱の折り目と、中の紙の折り目が合っていない。この紙は後から挟んだものだ」
「元からの付属品ではない、と」
「そうだ」
義父の目が、変わっていた。
初めてこの家に来た日に見た、古い箱を開ける前の職人の目とも違う。
あれは、道具を見る目だった。
今のは、他人の仕事を見る目である。
リゼが小声で言った。
「お父さん、目が若返ってる」
「青春だからな」
「そこは変わらないんだ」
———
義父が並べ終えたとき、卓の上は二つの山に分かれていた。
元から箱に入っていたもの。
誰かが後から入れたもの。
後から入れたものの山は、思ったより高かった。
紙袋の書き込み。
挟み込まれた紙。
折り目のついた覚え書き。
そして、細い綴じ紐の冊子。
私は、その冊子を開いた。
———
手書きだった。
左に極東島国語らしき文字。
右に王国語。
行が対になって並んでいる。
対応表である。
選択肢 えらぶ言葉
保存 記憶にしまう
読込 前の記憶をひらく
終了 終わり
体験版 ためしの版?
最後の行だけ、疑問符がついていた。
私は、その疑問符をしばらく見ていた。
書いた人間は、この語だけ自信がなかったのだ。
当然である。
左側の三文字は、極東島国語ではない。
私の世界の文字である。
だから、この人はそれを東の言葉として読もうとして、読めなくて、意味だけを当てにいった。
そして、当たっていた。
ためしの版。
悪くない訳である。
———
冊子には、対応表の続きがあった。
ところどころに、脇の書き込みがある。
字数が入らぬ。
二字減らす。
名を入れる欄がはみ出る。
王国語は長い。
この語、意味が二つある。ひとまず後の意味で置く。
私はそれを読んで、しばらく動けなかった。
「どうしたの」
リゼが聞いた。
「……これを書いた人は、遊戯の中の言葉を、王国語に置き換えようとしている」
「勝手に?」
「勝手にだと思う」
「怒られない?」
「怒る相手がいない」
言ってから、その意味に自分で気づいた。
この冊子を書いた人間には、問い合わせる先がなかった。
作り手がいない。
工房がない。
注文もできない。
ただ、目の前に読めない遊戯が一つあっただけである。
———
「その帳面はな」
義父が言った。
「買ったときから入っていた」
「店の人は、何か言っていましたか」
「言っていた」
義父は茶を一口飲んだ。
「王都の魔法横丁の、奥のほうに記憶石屋があった。今もあるのかは知らん。私が若い頃だ」
「そこで」
「そこで買った。九千八百式が一台。記憶石が二十枚ほど。付属の品が全部で、妙に安かった」
「妙に、というのは」
「あの機械一台ぶんの値がついていなかった。付属品は、ただでつけると言われた」
義父は、卓の上を見た。
「安すぎるので、理由を聞いた」
少し間があった。
「亡くなった子どもの遺品らしい、と言われた」
部屋が、静かになった。
義母が、湯呑みを置いた。
音が、いつもより大きく聞こえた。
———
「買ったの」
リゼが言った。
責める調子ではなかった。
ただ、確かめる声だった。
「買った」
義父は、まっすぐに言った。
「その場では、たいして考えなかった。二十歳そこそこだった。動くかどうかも分からん機械が、目の前に安く置いてあった」
「賭け事じゃない」
「古い術盤趣味は、だいたい賭け事だ」
義父は、少しだけ肩を落とした。
「当時はな、そういう怪しい輸入品が魔法横丁には時々あったんだ。動くかどうかも分からん。だが、動いた時が楽しい」
「動いたの」
「三日かかった」
義父は、九千八百式のほうを見た。
「三日目の夜に、音が鳴った。あのときは、家の者を全員起こした」
「迷惑」
「そうだな」
義父は否定しなかった。
この人が否定しないときは、たいてい本当にそうだったときである。
———
私は、卓の上の冊子に手を置いていた。
亡くなった子どもの遺品。
その言葉が、頭の中で二回りした。
この字を書いた人間は、もういない。
いないのに、字は残っている。
残っているだけではない。
この字は、私の世界の言葉を、読めないまま写している。
左の列の何行かは、明らかに私の世界の文字だった。
形は少し崩れている。
だが、崩れているのは書き写した人間の手が原因であって、字そのものは私の世界のものだ。
書き写した人には、読めていない。
読めていないものを、それでも一字ずつ写している。
几帳面すぎる字の理由が、そこで分かった。
意味の分からないものを写すとき、人は丁寧になる。
———
日が傾いてきた。
義母が夕飯の支度を始め、ノルが皿を出しに立ち、リゼが台所へ呼ばれていった。
居間には、私と義父が残った。
義父は九千八百式の魔力導線を外し、表示鏡を布で拭いていた。
「ユウ君」
「はい」
「この機械は、東の島国から来たものだ」
「そう聞いています」
「店の親父もそう言っていた。帳面にもそう書いてあったと思う」
義父は布を置いた。
「だが、君は今日、そうではない顔をしている」
私は、答えられなかった。
この人は寡黙だが、見ていないわけではない。
むしろ、喋らないぶん見ている。
「まだ、分かりません」
私はそう言った。
「本当に分かりません。分かってから言います」
「そうか」
義父は、それだけ言った。
追わないところが、この人の優しさなのだと思う。
———
帰り際、私は玄関の脇に置かれた薄い箱を見た。
あの箱である。
紙は色褪せ、印刷はかすれ、何の遊戯かも分からない。
表に、見慣れない絵と、短い文字がある。
体験版
あの夜、この三文字は、たった一つの読めない偶然だった。
今日、この三文字は、読める語の山のいちばん最初の一つになっていた。
同じ文字なのに、置かれている場所が変わっている。
変わったのは文字ではない。
周りに何が積まれたかである。
———
外は、もう暗かった。
石橋の上を通る。
橋の下を、細い水路が流れている。
夜の水面に、家々の灯りが細く揺れていた。
あの夜と同じ場所だった。
「ここ」
リゼが言った。
「覚えてる」
「覚えている」
「あのとき、わたし、聞いたよね」
「聞かれた」
この世界とユウの世界は、どこかでつながってるの。
私は、分からない、と答えた。
あれから、たいして時間は経っていない。
結婚して、住む場所が変わって、仕事が少し増えただけである。
答えは、まだ持っていない。
ただ、あのときより、言葉の形は少しはっきりしていた。
「リゼ」
「うん」
「まだ答えじゃない。言い直しだ」
「いいよ」
私は、水路の方を見た。
「この世界は、俺の世界と……どこかで混ざっている」
リゼは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「混ざってるって、どっちが」
私は、答えられなかった。
そこまでは、まだ数えていない。




