第179話 馬車の街を飛び越えて
翔石工房の作業場は、静かだった。
浮遊車が九台、壁際に並んでいる。
全部、新品だった。
全部、売れていなかった。
留め具で床に固定されているので浮いてはいない。
浮いていない浮遊車というのは、思ったより所在がない。
「注文が、先月で三十七件、取り消しになりました」
クレイが言った。
「工員は」
「半分に減らしました。……減らす日の朝が、いちばんきつかったです」
彼は袖の粉を払った。
払っても、もう出てこなかった。
「先生。私は、間違っていましたか」
私は少し考えた。
こういうとき、優しい答えは、たいてい役に立たない。
「速すぎました」
「はい」
「ただ、遅すぎても人は死にます」
クレイが顔を上げた。
「東門の荷が半日遅れて、南区の急病人が間に合わなかった話を、私は二件知っています。あれは新聞に出ません。出ないものは、数えられません」
「……では、どうすればよかったんですか」
「分かりません」
私は正直に言った。
「ただ、あなたが急いだのは、遅れて困る人を見ていたからです。そこは間違っていません。間違っていたのは、急ぐ相手を乗り物だと思ったことです」
「乗り物では、ない?」
「街です」
———
王都交通局の会議室は、あいかわらず天井が高くて寒かった。
トーレが、大きな紙を広げた。
王都の地図に、赤い線がいくつも引いてある。
「これは、渋滞の記録です。過去二年」
朝と夕、市場通りが動かない。
王城前で馬車が団子になる。
雨の日は、それが二倍になる。
南区の診療所へ向かう路が、その団子の真ん中を通っている。
「浮遊車の許可を出したのは、これを解きたかったからです」
トーレは言った。
「そして、失敗しました」
「失敗ではありません」
マリエが言った。
「失敗ですが、失敗しかしていないわけではない、と言い直します」
「慰めですか」
「事実の整理です」
マリエは書類をめくった。
「一人ずつが自分の浮遊車に乗る形は、失敗しました。理由は、この二か月で十一項目にまとまっています。──ですが、失敗したのは『個人が一台ずつ乗る形』であって、『浮遊石で人と荷を運ぶこと』ではありません」
トーレは、しばらく地図を見ていた。
それから、妙なことを言った。
「……逆に、王都が動かせばいいのでは」
部屋が静かになった。
「一人ずつ乗るから、一人ずつ判断が要る。判断が要るから、判断を間違える者が出る。だったら、王都が決めた路を、王都が決めた速さで、王都が数えた台数だけ走らせれば」
「トーレさん」
私は言った。
「それは、乗合馬車です」
「そうです。乗合馬車です」
トーレは私を見た。
「ただし、馬がいない」
———
私は表示盤の前に立った。
「もう一度、いちばん最初のところから話させてください」
私は、二本の線を書いた。
乗り物を賢くする 街を賢くする
「これまでの二か月、我々は左しかやっていません。術式を賢くする。雨に強くする。標識を読み間違えないようにする。全部、乗り物の中の話です」
「悪いことですか」
「悪くありません。ただ、際限がありません」
私は左の線を指でなぞった。
「乗り物を賢くする道は、どこまで行っても終わりません。世の中には、必ず、術式が見たことのない路があるからです。見たことのない路をなくす方が、たぶん早い」
「なくせるんですか」
「なくせます。路の方を、決めればいいので」
私は右に書いた。
一、通ってよい路を決める
二、その路に、他のものを入れない
三、その路の標識と路面を、同じ規格で揃える
四、停まる場所を決める
五、速さを決める
六、走る台数と間隔を、一か所で見る
「六つとも、術式の話ではありません。街の話です」
クレイが、書き取りながら顔を上げた。
「これ、術式が楽になりますね」
「楽になります」
私は言った。
「東分岐の事故は、術式が『本線か分岐か』を読み違えたところから始まりました。分岐のない路を走らせれば、その読み違いは起きません。賢さで解く代わりに、問題の方を減らす」
「ずるくないですか」
部屋の隅から、リゼが言った。
末席で綴りを取っていたはずの人である。
「ずるいな」
私は言った。
「でも、ずるい解き方をした人が、たいてい生き残る」
———
その日決まったのは、名前だけだった。
浮遊幹線車。
大型の浮遊車を、決まった路線に、決まった間隔で走らせる。
路は溝にする。石畳を一段下げ、両側を車の底より高く立ち上げた溝路にして、そこから出られないようにする。
停まる場所には塔を建てる。停留術塔と呼ぶ。
全部の車がどこにいるかを、一か所の室で見る。運行管制室と呼ぶ。
「溝から出られないなら、術式は何をするんですか」
若い書記が聞いた。
「速さと、間隔です」
私は言った。
「向きは溝が決めます。術式は、前の車との間を空けることと、停留術塔で正しく停まることに集中できる。やることを減らすと、間違いも減ります」
AIエージェント:「観測:この設計では、自動操縦術式の判断項目が七から二へ減ります」
AIエージェント:「補足:減らした五つは、消えたのではなく、街の側が引き受けました」
「そのとおりだ」
「黙れと言わないんですね」
リゼが小声で言った。
「正しいことしか言っていないからな」
「いつも正しいことしか言ってないと思うけど」
それはそうだった。
問題は、正しいことを言う時刻の方である。
———
一号路線は、五つの点を結ぶことになった。
東門。
市場通り。
王城前。
南区診療所。
魔法学校。
最後の一つを入れると言い出したのはルドーである。
会議には出ていなかったのに、廊下で決まった話を聞きつけて、一言だけ言った。
「学生は貧乏だ」
それで通った。
この人の決め方は、たいてい雑で、たいてい正しい。
———
制度の方は、マリエが引き受けた。
二週間後、彼女が机に広げた紙は、私が今まで見たどの板書より長かった。
浮遊幹線車を走らせるために必要なこと
一、浮遊車の型式検め
二、自動操縦術式の検め
三、運行する事業者の許認可
四、操縦記録札の保存の義務
五、事故を届け出る義務
六、被害を受けた者への基金
七、保険への加入の義務
八、運行管制員の資格の制度
九、安全監視員の配置の基準
十、速さの上限
十一、溝路と停留術塔の整備の基準
十二、御者の学び直しの制度
十三、馬車事業者の移り替えの支援
「十三もあるんですか」
クレイが呻いた。
「十三で済んでいる、と思ってちょうだい」
マリエは言った。
「この十三のうち、一から七までは、あの事故のあとに作った十一項目の焼き直しよ。新しいのは八から十三だけ。──つまり、あの事故で払った授業料を、今回は払わずに済んでいる」
「安いとは、思えませんが」
「安くないわ」
マリエは即答した。
「安くないから、二度払わないようにしている」
私は、その言い方を覚えておくことにした。
この人は、いつも金の話をしているようで、金の話をしていない。
———
いちばん時間がかかったのは、十二番と十三番だった。
御者組合の詰所へ、私とマリエで通った。
三度目までは、話にならなかった。
四度目に、ゲルドが紙を持ってこいと言った。
私は紙を持っていった。
御者組合 四百二十人
安全監視員 八十
運行管制員 二十四
停留術塔と車両の保守 六十
溝路の見回りと標識 四十
地域路線・観光路線 九十
「二百九十四だな」
ゲルドは、すぐに引き算をした。
馬方は数が速い。
「はい」
「あとの百二十六は」
「行き先がありません」
私は言った。
言い換えなかった。
詰所が、静かになった。
馬の匂いの中で、しばらく誰も喋らなかった。
「あんたは」
ゲルドが言った。
「その百二十六人の顔を、知らないだろう」
「知りません」
「一人も知らんのに、よく百二十六と書いたな」
「数えないと、いないことになるからです」
ゲルドは、紙をつまんで持ち上げた。
目の高さで、しばらく見ていた。
「去年は、この数字がなかった」
「はい」
「なかったから、誰も減らそうとしなかった。……いまは、百二十六だな」
「百二十六です」
「減らせるか」
「分かりません。減らす方法は、まだ十三番にしか書いていません」
マリエが口を開いた。
「十三番は、これから書きます。移り替えの支援金と、期間と、条件を。数字が入るまで、あと二月かかります」
「二月」
「二月です。それより早く言う人がいたら、その人は嘘をついています」
ゲルドは、初めて少しだけ笑った。
笑ったというより、口の端が動いた程度だった。
「馬を操る手綱が、術式を見る目に変わるだけだと?」
「そんな簡単な話ではありません」
私は言った。
「手綱は十五年かけて覚えたものです。二月の講習で置き換わるとは思っていません。ただ、あなた方が持っているもので、術式が持っていないものが一つあります」
「なんだ」
「分からないときに、遅くする」
ゲルドは、私を見た。
「安全監視員は、そのために置きます。溝路の先で何かが起きたとき、術式より先に不安になる人を、一人ずつ乗せておきたい」
長い沈黙があった。
「……だが、何も残らないよりはいい」
ゲルドはそう言って、紙を机に伏せた。
「納得はしとらんぞ」
「していただかなくて結構です」
マリエが言った。
「納得は、五年くらいかけて、ご自分でしてください。こちらは、それまでの制度を作ります」
———
試験運行の日は、よく晴れた。
東門の停留術塔に、朝から人が集まっていた。
塔と言っても、石造りの柱に屋根をつけただけのものである。
柱の上に、光る板が一枚だけ嵌まっていた。
板には、次の車が今どこにいるかが出ている。
これを作ったのは、乗合馬車広場の見せ板を直した工房だった。
正本の台帳が一つあって、板はそれを写しているだけである。
同じ作りをもう一度使えたのは、あのとき、ちゃんと分けておいたからだった。
あのときの面倒が、今日の楽になっている。
そういうことが、たまにある。
「来た!」
子どもの声がした。
浮遊幹線車が、溝路の向こうから滑ってきた。
大きい。
馬車三台ぶんはある。
そして、静かだった。
蹄の音がないというのは、思っていたより不気味で、思っていたよりありがたかった。
塔に近づいたところで、押し環の唸りが止んだ。
止んだあとに、別の音が鳴り始めた。
環が鳴っているのは分かるのに、高さが違う。
水を汲み上げるときのような、粘りのある音だった。
その音が細くなったところで、車の後ろから何かが降りた。
最後に残ったのは、砥石を石畳に当てたような、擦れる音だった。
停留術塔の前で、それは止まった。
止まる位置が、白い線の上にぴたりと合っていた。
乗り降りする段差が出ないように、そこだけ塔の床を上げてある。
「段がないの、いいね」
リゼが言った。
「乗る人が上げなくていい脚は、上げない方がいい」
「それ、誰かの言葉?」
「浮く寝台を売ってた人の言葉だ」
———
クレイが、車の横で膝をついていた。
「先生。見てもらいたいものがあります」
私は屈んで、車の後ろを覗いた。
車体の下に、腕が二本、斜めに畳まれている。
その先に、鉄の板が留めてあった。
いまは畳まれていて、板の面が地面から拳二つぶん上で止まっている。
板の表には細かい溝が切ってあり、溝の上に硬い砂が焼き付けてあった。
指の腹で撫でると、引っかかって、指紋が鳴った。
「蹄板と呼んでいます」
クレイは言った。
「打ったのは、ハルさんの工房です。蹄鉄の親戚みたいなものだと言うので、そう呼ぶことにしました」
「動くのは、いつです」
「停まる手前です。腕を降ろすと、板が地面に当たります」
クレイは、腕の付け根を指で押した。
「押し下げると、箱の方が持ち上がろうとします。そこを浮遊石が押し返します。押し返した力が、そのまま板を地面へ押しつけます」
「浮いている力で、止まっているわけですね」
「そうです。魔力は、一滴も使いません」
クレイは言った。
「浮いていることが困りものだと、ずっと思っていました」
———
「先に鳴っていた音は、何です」
私が聞くと、クレイは底の板の方を指した。
押し環の並びのいちばん後ろに、色の違う環が二つ嵌まっている。
同じ形なのに、縁の造りが細かい。
「抜き環です」
クレイは言った。
「押し環の逆をやる環です」
「逆向きに注ぐのとは、違うんですね」
「違います。注がずに、抜きます」
クレイは環の縁をなぞった。
「走っている車から魔力を抜くと、そのぶん遅くなります。抜いた魔力は、溜め筒へ戻ります」
私は、少しの間、それを飲み込んでいた。
注げば速くなる。
抜けば遅くなって、抜いたぶんが戻ってくる。
言われてみれば、当たり前の裏表である。
当たり前の裏表を、私は一度も考えていなかった。
「これ、いつからあるんです」
「昔からあったよ」
声は、車の後ろからした。
ハルが、板の減りを見に来ていた。
試験運行の日に工房主が呼ばれるのは分かるが、蹄鉄屋まで来ているとは思わなかった。
「石場じゃ、坂で岩を下ろすときに使う。環を逆に回して、溜めへ戻すんだ。年寄りの技だよ」
「では、なぜ浮遊車に載っていなかったんです」
「高いんです」
クレイが答えた。
「抜き環は、押し環より作りが難しくて、値が三倍します。それに、抜ける速さには上限があって、押すより低い。急には止まれません。──一日に何度も止まらない乗り物に積んでも、元が取れません」
「この車は、何度も止まる」
「五つの塔で、朝から晩まで止まります」
クレイは言った。
「元が取れます。停まるたびに、いくらか戻ってきますので」
「全部戻るんですか」
「戻りません。半分も戻りません」
クレイは隠さなかった。
「それでも、捨てるより安いです」
———
「では、蹄板は要らなくなりましたか」
私が聞くと、クレイは首を振った。
「要ります。二つ、抜けないときがあります」
クレイは指を二本立てた。
「一つ。遅くなるほど、抜ける量が減ります。最後の数歩は、抜いても止まりません。そこは板で止めます」
「毎回ですか」
「毎回です。だから、板が減ります」
私は納得した。
月に一度の打ち替えは、そういう理屈だった。
「二つ目は」
「溜め筒が満ちていると、抜けません」
クレイは言った。
「戻す先がないので。朝、車庫を出たばかりの一本目は、満ちています。あとは、王城前へ下る坂が続いたときです。下りながら抜いていると、坂の途中で満ちます」
「満ちたら、どうなります」
「抜き環が効かなくなります。効かないのに術式が抜こうとするので、いちばん危ないところです」
「それで」
「運行管制室が決めました。朝の一本目と、王城前の下りは、板で止めると」
私は、その決め方が気に入った。
術式で解いていない。
運用で埋めている。
この数か月で王都がいちばんうまくなったのは、たぶんそこだった。
———
私は、しばらく腕を見ていた。
抜き環は、遅くなれば効かない。
溜め筒が満ちていても、使えない。
速さと器の具合に、いちいち左右される。
蹄板は、左右されない。
空でも満ちていても、降ろせば擦れる。
あの検分会で、私は表示盤に八つ書いて、八つに入らないものを別の紙に書いた。
魔力を使わずに止まる手を、作る。
あの一行が、鉄の腕二本になって、ここに畳まれている。
「ただ、まだ粗いです」
クレイは正直だった。
「まっすぐ走っているときしか降ろせません。曲がりながら降ろすと、噛んだ側へ回ります。それに、速いと腕が跳ねて、板が焼けます。──高速浮遊路に載るのは、何年も先です」
「それでも、一号線には足りている」
「足りています」
クレイは、初めて少しだけ笑った。
「溝が向きを決めているので、この車はいつでもまっすぐです。だから、降ろせます。どこで停まるかも決まっているので、いつ降ろすかを術式が考えなくていい。──この粗い作りで足りているのは、路のおかげです」
私は少し笑った。
賢さで解く代わりに問題の方を減らす、というのは、こういう形でも起きるらしい。
「板は」
「減ります。ハルさんが、月に一度、打ち替えに来ます」
クレイは溝路の方を見た。
「路も減ります。擦る場所が決まっているので、そこだけ石畳が窪みます。見回りの人が、そこを見ることになりました」
「決まったところが減るのは、悪いことではありません」
私は言った。
「どこを見ればいいかが、分かっているので」
「工員は」
「三人、戻しました。板の方に」
クレイは言った。
「……これで百二十六人が減るわけではありません。それは、分かっています」
「分かっているなら、いいです」
私は立ち上がって、もう一度、静かな車体を見た。
蹄の音がしない乗り物だと思っていた。
音は、要るときだけ鳴るようになっていた。
———
扉の横に、青い上着の男が立っていた。
三十代の半ばくらいで、腕が太かった。
ヨナと名乗った。東門の荷馬車を十五年やっていた人である。
「安全監視員です」
ヨナは、そう言って乗り込む人の頭を数えていた。
数えながら、溝路の前後を見ている。
目の動きが、御者のそれだった。
「慣れますか」
私が聞くと、ヨナは少し困った顔をした。
「手綱がないのが、まだ落ち着かないです。手が余る」
「余った手で、何をしていますか」
「見てます」
いい答えだった。
———
走り出すと、揺れなかった。
私とリゼとマリエとルドー、それにトーレと、市民が三十人ほど。
クレイは乗らずに、停留術塔から見送っていた。
「もっと速いのかと思った」
リゼが言った。
「毎刻三十歩里だ。馬車より少し速いくらいだな」
「速くないんだ」
「速くない」
私は窓の外を指した。
溝路の右側に、市場通りが見えている。
朝の荷馬車が、いつもどおり詰まっていた。
動いていない。
こちらは、止まらずに横を通り過ぎていく。
「速いんじゃなくて、詰まらないのね」
「そう」
私は言った。
「速さを買ったんじゃない。詰まらないことを買った。人はだいたい、速さの方に金を払いたがるけどな」
———
老人が一人、扉の脇の手すりを両手で握っていた。
「馬がおらんのに、動くのか」
「動きます」
「なんで動くんだ」
「石が浮くからです」
「なんで浮くんだ」
私は答えられなかった。
浮遊石がなぜ浮くのかは、まだ誰も説明できていない。
東の鉱山で安く採る方法は見つかったが、なぜそうなるのかは分かっていない。
王都はいま、理由の分からないものの上に、路線を一本敷いたところである。
「分かりません」
私は言った。
「分からんものに乗せるのか」
「はい」
老人は、しばらく私を睨んで、それから、笑った。
「正直でよろしい」
「ありがとうございます」
「馬もな、なんで走るのか、わしは知らん」
最悪だ。
この街の年寄りは、たまに、こちらの十倍うまいことを言う。
———
子どもが窓に張りついていた。
窓の外を、街が流れていく。
詰まっている市場通り。
学校へ向かう子どもたち。
見上げて指をさす人。
不安そうに立っている御者。
青い上着を着た、元御者。
まだ乗らないと決めている老人たち。
リゼが、ずっと外を見ていた。
「ねえ」
「うん」
「あれ、全部いっぺんには変わらないのね」
「変わらない」
「うちの隣のおばさん、たぶん一生乗らないと思う」
「乗らないだろうな」
「それでいいの?」
私は少し考えた。
「いい」
私は言った。
「全員が乗る必要はない。乗りたい人が乗れて、乗らない人の路が細くならなければ、それでいい。──細くしがちだから、そこは気をつけないといけないけど」
市場通りの停留術塔を過ぎたあたりで、リゼが小さく言った。
「さっき、塔のところにいた人」
「誰」
「荷運びの、若い女の人。乗らないで、見てた」
私も見ていた。
声はかけなかった。
かけるべきではないと思ったし、かけない理由をうまく言葉にすることもできなかった。
「乗ってなかったね」
「乗ってなかった」
「でも、来てた」
「来てた」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
———
王城前で、車は一度止まった。
運行管制室から、間隔を空けるようにと言ってきたのである。
前の車が、市場通りの塔で乗り降りに手間取ったらしい。
「二十拍、待ちます」
ヨナが車内に告げた。
誰も文句を言わなかった。
馬車で二十拍待つのは日常だからである。
「これ、遅れですよね」
トーレが、少し不安そうに言った。
「遅れです」
「初日から遅れて、大丈夫でしょうか」
「大丈夫です」
私は言った。
「遅れが見えているのは、いいことです。今どこにいるかが分かっているから、遅れだと言える。馬車は遅れませんでした。──いつ来るか、誰も知らなかったので」
トーレは、変な顔をして、それから笑った。
「それ、慰めになっていませんよ」
「なっていませんか」
「少しなっています」
———
魔法学校が近づいたころ、ルドーが窓の外を見ていた。
溝路の先が、木立の間へ一直線に伸びている。
「馬車の時代を、飛び越えるわけか」
「飛び越えました」
私は言った。
「王都は、車輪の乗り物の時代を、ほとんど経ずにここへ来ました。速いです。ただ──」
「ただ?」
「途中で覚えるはずだった痛みも、一緒に飛び越えました」
私は窓の外を指した。
「速さの上限も、標識の規格も、責任の分け方も、事故を調べる会も、全部、車輪の時代に百年かけて作るはずだったものです。それを我々は、二か月と、一人の命で作りました」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「飛び越えた先にも、泥道はありますけどね」
私は付け足した。
「その泥道に規則を書くのが、わたしたちの仕事よ」
マリエが言った。
書類の束を抱え直しながら、まったく平然としていた。
「あと三年は書くことになるわね。溝路は二号線と三号線が要るし、地方都市が『うちにも』と言い出すのが来年で、そのときには十三項目が二十を超えているはずよ」
「増えるんですか」
「増えるわ。減ったら、それは誰かが数えるのをやめただけ」
リゼが、三人を順に見た。
「あのさ」
「うん」
「三人とも、せっかく浮いてるのに話が重い」
ルドーが、鼻から息を吐いた。
この人の笑い方である。
「それはそう」
私はそう言うしかなかった。
———
魔法学校の前で、私たちは降りた。
停留術塔の下は日陰で、風が抜けて涼しかった。
柱に、貼り紙が一枚あった。
事故検分会は常設です。何かあったら書いてください。
字が下手だった。
たぶん、書いたのはトーレである。
浮遊幹線車は、少しだけ待って、次の塔へ向かって静かに滑っていった。
———
帰り道は、歩いた。
溝路の脇の歩道を、リゼと二人で東門の方へ戻る。
横を、浮遊幹線車が二度、追い越していった。
二度とも、静かだった。
「ねえ」
「なんだ」
「これ、成功したの?」
私は少し考えた。
「していない」
「してないの」
「一号線が一本できただけだ。二号線はまだ紙の上だし、百二十六人の行き先はまだない。溝路の外の通りは、去年と同じように詰まってる」
「じゃあ、何が変わったの」
私は歩きながら、指を折った。
「速さに上限がついた。標識の規格が揃い始めた。路を変えた部署が、路図を配る部署に文を出すようになった。事故があったら、誰が調べるかが決まっている。記録札が残る。手を離していいかどうかが、数字で書いてある」
「地味」
「地味だ」
私は言った。
「でも、次に何かあったとき、たぶん、二度は壁に当たらない」
リゼは、それを聞いて、しばらく黙って歩いた。
「それ、けっこう大きくない?」
「大きい」
「言い方が小さいんだよ、あなたは」
最悪だ。
この人は、たまに、私が指を六本折って言ったことを、一言で言う。
浮遊幹線車が、また一台、横を通り過ぎていった。
石は、なぜ浮くのか分からないままである。
街は、それを乗せて、少しだけ壊れにくくなった。
それで、今日のところは十分だった。




