第178話 誰が止めるべきだったのか
格納庫の火から、十一日が経っていた。
新聞は、蹄の向きが逆であることを書かなかった。
書いたのは一紙だけで、それも三面の下の方だった。
代わりに、御者組合の紋章はよく刷られた。
市場で御者が石を投げられ、逆に浮遊車の工房の窓が割られ、どちらも下手人は分からないままになった。
その間、浮遊車の試験運用は止まらなかった。
止められなかった、と言った方が正しい。
王都の市場通りは相変わらず朝夕に動かず、東門から城下までの荷が半日遅れ、南区の診療所へ運ばれた急病人が渋滞で間に合わなかった、という話が二件あった。
走っていたのは、まだ三十台ほどである。
街の荷の大半は、去年と同じように馬車が運んでいた。
それでも、浮遊車を割り当てられた商人たちは、口を揃えて手放したがらなかった。
速いからではない。
嫌がらないからである。
詰まった市場通りを避けるには、裏道を継いでいくしかない。
御者は、そこへ入りたがらない。
正確には、入りたがらないのは御者ではなく、馬である。
路地は狭い。
積み下ろしの樽が半分はみ出している。
子どもが走り、犬が寝ており、角では向かいから荷車が来る。
馬は、そういう場所で足を止める。
止まった馬は、なかなか動かない。
私は会議室で、馬が勝手に止まるのは安全装置だと言った。
その同じ性質が、荷を出す側からは、そのまま損に見えている。
浮遊車は、嫌がらない。
狭ければ狭いなりに、遅ければ遅いなりに、何度でも停まって、また進む。
角で待たされても、待たされたことを覚えていない。
東門から城下まで、馬車なら市場通りで半日かかる。
浮遊車は、裏道を継いで、昼前に着いた。
増えたのは速さではなく、通れる路の数である。
だが、街はそれを「浮遊車は速い」と覚えた。
覚え方を間違えたまま便利になると、人は、間違えた側を伸ばそうとする。
街が欲しがったのは細い路を根気よく抜ける乗り物ではなく、もっと速い箱だった。
人は、便利さを一度手に持つと、危ないと言われても持ち替えるだけである。
手放しはしない。
———
雨が降っていた。
その日の朝、私は術務室で継ぎ札庫の相談を受けていた。
どうでもいい相談だった。
どうでもいい相談をしている最中に、リゼが扉を開けた。
顔を見た瞬間に、どうでもよくない話だと分かった。
「外周の試験路で、事故。……人が、亡くなったって」
———
現場に着いたときには、すでに運び出されたあとだった。
王都外周、東分岐の手前。
雨は小降りになっていて、石畳が鈍く光っていた。
左の防護壁が、二十歩ぶんほど崩れている。
右の防護壁にも、深い傷が一つあった。
左に当たり、跳ね返って右に当たった。
二度当たっている。
それが、この現場のいちばん残酷な事実だった。
浮遊車の残骸は、路の端に寄せられていた。
底の板だけが無事で、浮遊石を並べた列は、まだ律儀に浮こうとしている。
濡れた木片が、その板の上で少しだけ持ち上がっていた。
私は目を逸らした。
逸らしてから、逸らしたことを覚えておくことにした。
「乗っていたのは一人です」
交通局のトーレが、雨具のまま言った。
声が平らだった。平らにしないと喋れない種類の平らさだった。
「東門の荷運びで、トビという名でした。二十六です。妹さんが一人」
「ご家族は」
「今、南区の詰所に。……先ほど、私が話しました」
トーレの手が、少しだけ震えていた。
この人はこの十一日、浮遊車の取り組みを進めるための書類ばかり書いていたはずである。
「トーレさん」
「はい」
「今日はもう、書類を書かないでください」
トーレは、それに答えなかった。
———
三日で、王都の意見は八つに割れた。
自動操縦を禁止しろ。
御者なら避けられた。
人間の御者でも無理だ。
工房が安全を軽く見た。
乗っていた者が信じすぎた。
王都の路の整備が遅れていた。
浮遊石そのものが危険だ。
便利さのために人が死んだ。
どれも、少しずつ当たっていた。
少しずつ当たっている意見が八つ並ぶと、街は、いちばん叫び声の大きいものだけを聞く。
街頭で演説が始まり、魔文が飛び交い、公式の魔法仮想文書に一晩で四千の書き込みがついた。
書き込みの半分は、事故が起きた場所を間違えていた。
王城は、三日目に事故検分会を置いた。
———
最初の検分会は、罰する会だった。
長机に、交通局、術務室、工房、保険組合、御者組合、被害者側の代理人、魔法学校。
私と、マリエ。
リゼは末席で綴りを開いている。
開始から半刻で、四回、机が叩かれた。
「工房は、雨の日に試していないのですか」
「試しています。ただ、この規模の雨は」
「では試していないのと同じでしょう」
「御者が乗っていれば止まったはずだ」
「御者は関係ない。あの速さで人が止められるものか」
「その速さで走らせた工房が悪い」
「速さを決めなかったのは交通局です」
「決めろと言われていない」
AIエージェント:「観測:ここまでの発言のうち、事故そのものに触れたものは、一つもありません」
「黙れ」
私は口の中で言った。
正しいから腹が立つ、という種類の正しさがある。
クレイは、ほとんど青い顔で座っていた。
十一日前に地図を広げて熱を持って喋った男と、同じ人物には見えなかった。
マリエが、書類の束を机の上で一度だけ揃えた。
角を揃える音が、思ったより通った。
「順番を決めます」
全員が黙った。
「今日は、誰が悪いかを決めません。何が起きたかを明らかにします。悪いかどうかは、起きたことが分かってから決めるものです。逆の順にすると、二回やることになるので」
「では、いつ決めるのですか」
被害者側の代理人が言った。
当然の問いだった。
「ご遺族には、日を示します」
マリエは即答した。
「決めない、とは言いません。決める日を決めます。決める日を決めないまま待たせるのが、いちばん不誠実なので」
代理人は、しばらくして頷いた。
———
記録は、残っていた。
浮遊車の底板の隅に、小さな箱が留めてある。
操縦記録札という。
自動操縦術式が、刻ごとに何を読み、何を選んだかを書き続ける札である。
これを積むことにしたのは工房の判断で、義務ではなかった。
義務でないものを自分から積んでいた工房が、いま罰されようとしている。
これも、覚えておくべきことの一つだった。
私は術盤に記録札を読ませ、出てきたものを、そのまま読み上げた。
三十拍前。速さ、毎刻百二十歩里。この路に上限はない。
二十二拍前。前方に誘導標識。読み取りは「本線」。
十八拍前。路図と照合。分岐の角、およそ十二度。速さ、そのまま。
九拍前。路面の照り返しが強くなる。読み取りに揺らぎ。警告、一度。
四拍前。実際の曲がりが、路図と合わない。修正を開始。
二拍前。修正、間に合わず。
魔力、溜め筒に目盛り四つ残り。
「魔力は足りていました」
私は言った。
「切れて止まれなかったのではありません。目盛り四つは、東門まで戻ってなお余る量です。足りていても、間に合っていません」
これを言えたのは、記録が残っていたからである。
残っていなければ、我々はたぶん「魔力が切れたのだろう」で終わっていた。
毎刻百二十歩里。
一歩里は、大人が千歩で進む距離である。
馬車がよく走って毎刻二十歩里、早馬で四十というところだから、この浮遊車は、早馬の三倍の速さで分岐へ入ったことになる。
私は、最後の一枚をめくった。
めくってから、読み上げるかどうかを、少し迷った。
「乗員の手が舵に触れた記録は、事故の前、八百拍のあいだ、ありません」
会議室が、静まった。
誰かが、小さく息を吸った。
「……手を、離していたのか」
「離していました」
私は言った。
「この乗り物の舵は、握っているあいだだけ、人の言うことを聞きます。離しているあいだ、舵は術式のものです」
「それは、この事故の八つの理由のうちの、一つです」
「八つ」
「八つです」
———
私は表示盤に、縦に八つ書いた。
この事故で足りなかったもの
一、東分岐の誘導標識が、十四年前の規格だった
二、自動操縦術式の持つ路図が、三年前のままだった
三、雨の反射に対する備えがなかった
四、乗員が舵から手を離していた
五、手を添える義務が「なるべく」と書かれていた
六、警告の音が、押し環の唸る音に埋もれる高さだった
七、防護壁が馬車を止めるためのものだった
八、この路の速さの上限を、誰も決めていなかった
「順に説明します」
私は一番を指した。
「新しい誘導標識には、分岐を示す切り欠きがあります。形で分かる。東分岐の標識にはそれがなく、塗り分けだけで示していました。塗りは、雨で濡れて光ると、術式には本線の塗りとよく似て見えます」
「なぜ替えていないのですか」
「六年前に、替える計画が立っています」
トーレが答えた。
「予算が三度、後回しになりました。……三度目は、私が判を押しました」
誰も、それを責めなかった。
責めるには、この場の全員が同じ判を押しすぎている。
「二番」
私は続けた。
「去年、東分岐の路を広げる工事がありました。そのとき、分岐の角が十二度から十九度へ鋭くなっています」
「そんな工事、聞いていません」
クレイが言った。
「聞いていないでしょう。工事をしたのは道普請の部署で、路図を配っているのは測地の部署です。二つの部署は、互いに文を出す決まりを持っていません」
「……誰も、悪意でやっていない」
「悪意でやっている人は、この件に一人もいません」
———
「三番と六番は、工房の責任です」
クレイは顔を上げた。
「認めます」
「雨の日に試していないのは、なぜですか」
「……試験路に、屋根がありません。雨が降ると、測りの札が濡れて読めなくなります。走らせても記録が残らないので、走らせませんでした」
部屋の何人かが、息を呑んだ。
「測れないから、測れない日に試していない」
私は言った。
「これは、笑い話にしていい話ではありません。ただ、私はこの形の失敗を、これまで数え切れないほど見ています。壊れない入力しか試していない。人は、自分の作ったものが壊れる条件を、無意識に避けます。──測りにくい条件と、壊れやすい条件は、たいてい同じものです」
「警告の音は」
「工房の作業場は静かです。作業場で聞こえる音を選んだのだと思います」
「……その通りです」
クレイは、机を見たまま言った。
「押し環の唸りを、私たちは聞き慣れすぎていました」
———
「四番と五番です」
ここは、いちばん言いにくいところだった。
「乗っていた方は、舵から手を離していました。事故の前、かなり長い間です」
被害者側の代理人が、腰を浮かせかけた。
「本人の責任だと言うのですか」
「言いません」
私は言った。
「手を添えていないと何が困るのか、先に申し上げます」
私は舵の絵を書いた。
「離しているあいだ、舵は術式のものです。人が代わるには、まず握らなければならない。握って、何が起きているかを見て、それから速さを落とす。──ここまでに、十拍はかかります」
「十拍」
「毎刻百二十歩里で走っていれば、十拍のあいだに三百歩ぶん進みます」
私は言った。
「東分岐の手前で三百歩といえば、分岐はもう終わっています。──添え手は、握っている時間を惜しむための決まりではありません。握るまでの十拍を、あらかじめ払っておくための決まりです」
代理人は、腰を下ろした。
「五番を見てください。手を添える義務が『なるべく』と書かれていました。工房の説明札にも、交通局の許可の条件にも、『なるべく手を添えてください』とあります」
私は表示盤を叩いた。
「『なるべく』は、義務ではありません。守らなくても叱られない指示を、人は必ず守らなくなります。これは怠けではなく、そういうものです」
「では、どう書けば」
「毎刻いくつを超えたら手を離してはならない、と書きます。数字で書きます。『なるべく』は、書いた側が責任を負いたくないときに出てくる言葉です」
部屋の空気が、少し変わった。
自分たちが書いた文書の話になったからである。
「それと、もう一つ」
私は続けた。
「自動操縦は、できることを増やします。同時に、人間が注意しなくなる理由も増やします」
「……甘えでしょう」
誰かが言った。
「違います」
私は言った。
「うまく動くものを、人は見なくなります。百回うまくいったものを百一回目も見続けられる人は、いません。それは意志の強さの問題ではなく、人の作りの問題です。だから、注意を人の意志に預けた設計は、必ず負けます」
———
御者組合の側から、ゲルドが立った。
「一つ聞かせてくれ」
「はい」
「御者なら、避けられたか」
部屋が静まった。
この問いは、この十日間、街じゅうで叫ばれ続けていた。
「試しました」
私は言った。
「昨日、同じ路の同じ場所で、同じ速さ、同じ雨の量で、腕のいい御者に走ってもらいました。三人にお願いして、三人とも曲がりきれませんでした。人の手では、あの速さのあの角は無理です」
ゲルドは、ゆっくり息を吐いた。
「そうか」
「ただし」
私は言った。
「三人とも、分岐に近づく前に速さを落としました。落とさないでくれと言っても、落としました。『雨で先が見えないから』と、三人とも同じことを言いました」
ゲルドが、私を見た。
「御者は、分からないときに遅くします」
私は言った。
「自動操縦術式は、分からないことに気づきません。読み取りが揺らいだ拍に、警告を一度出して、速さはそのままでした。揺らいでいるのに、揺らいでいると自分では思っていない」
「……それが、いちばん怖い違いだな」
「はい」
「なら、俺たちの腕は、無駄じゃなかったわけだ」
「無駄ではありません」
私は言った。
「ただ、その腕を、いま浮遊車のどこにも積めていません。積む場所を作るのが、これからの仕事です」
ゲルドは、それには答えず、座った。
座り方が、来たときより少しだけ深かった。
———
ゲルドが座ったあと、その後ろの席で、手が挙がった。
組合の席のいちばん端である。
背が低く、肩だけが異様に厚い男だった。
手の甲が黒い。焼けた黒さだった。
「蹄鉄を打ってる。ハルだ」
「はい」
「一つ聞きたい。馬が止まるとき、何が地面を掴んでると思う」
「……蹄です」
「蹄鉄だ」
ハルは、指の背で机を叩いた。
「俺が打ってるのは、地面を掴むための鉄だ。爪の裏に溝を切ってある。止まるときに噛むようにな。冬の滑る路には、深く切る。それだけで、止まる距離が変わる」
「……はい」
「あの箱を、格納庫で見た」
ハルは言った。
「掴む鉄が、一枚もない」
———
私は、しばらく何も言えなかった。
三日かけて八つ数えたのに、いちばん下にあるものを数え損なっていた。
浮遊車の押す力、曲がる力、止める力は、全部、押し環から出ている。
押し環に注ぐ魔力は、全部、一本の溜め筒から出ている。
進むのと止まるのが、同じ器から出ている。
これは、思っていたより悪い形をしていた。
器が空になったとき、進めなくなるだけでは済まない。
止まることまで、一緒に失う。
「魔力で止めればいいでしょう」
保険組合の側から声がした。
「止まります。上限まで注げば、いまよりは止まります」
私は言った。
「ですが、止まるために魔力が要るなら、魔力が切れたときに止まれません。止まる手を一つだけ、魔力の外に持っておきたいんです」
「外に」
「魔力を一滴も使わずに止まる手です」
私は言った。
「押したのと同じ強さで押し返すだけの止め方に、上限をもう一つ足したい。強く止まるには、外から借りるしかありません。借りられる先は、地面しかない」
借りる口が、あの箱には一つもなかった。
「面なら、俺が打てる」
ハルは言った。
「鉄でも石でもいい。地面を食う面は作れる。溝を切って、硬い砂を焼き付けりゃいいだけだ」
「はい」
「だが、どうやって地面に着けるんだ」
ハルは、そこで両手を開いた。
「あの箱は、浮いてるんだぞ」
部屋が黙った。
———
私は、格納庫を思い出していた。
石を片側だけずらされた台が、傾いたまま浮いて、壁に押しつけられていた。
壊した誰かが、腹立ちまぎれにやったことである。
だが、あの台は、確かに片側だけ下がっていた。
「箱を下げれば、底が地面に着きますね」
「下げられます」
クレイが顔を上げた。
「押し環を、下へ向けて注げばいい。箱が下がります」
部屋の何人かが頷いた。
私は頷かなかった。
「それは、魔力を食います」
「……食います」
「私がいま欲しいのは、魔力を食わない止め方です。下げるのに食っていたら、同じところへ戻ってきます」
クレイは黙った。
私も黙った。
黙ったところで、ハルが片手を上げた。
「そんな面倒なことは、要らん」
———
「箱ごと下げる話をしてるから、ややこしくなる」
ハルは言った。
「板だけ下げりゃいいんだ」
「板だけ」
「後ろから腕を一本出す。先に、俺が打った板を留める。降ろしたいときだけ降ろして、あとは上げとけ」
ハルは、それだけ言って座りかけ、思い出したように付け足した。
「馬は蹄で地面を掻いて止まる。あんたらの箱に蹄がないなら、後ろから一本、生やせばいい」
私は、その絵を頭の中で描いた。
腕を押し下げれば、箱の方が持ち上がろうとする。
持ち上がろうとすれば、浮遊石が押し返す。
押し返した力が、そのまま板を地面へ押しつける。
浮いていることが、初めて役に立っている。
魔力は、一滴も要らない。
腕を降ろすのに要るのは、腕を降ろすぶんの力だけである。
「……私は、遠回りをしていました」
クレイが言った。
「環でできることを、環でやろうとしていました」
「工房はだいたいそうなります」
私は言った。
「持っている道具でいちばん器用なものを、つい使います。今日は、蹄鉄屋がいて助かりました」
———
「ただ、悪いところが一つあります」
クレイは、指で机に線を引いた。
「まっすぐ走っているときしか、降ろせません。曲がりながら降ろすと、噛んだ側を軸にして、箱が回ります」
「腕を二本にしても」
「片方が先に噛みます。必ず、どちらかが先に噛みます」
私は、それを少し考えた。
「まっすぐな路でしか効かない止め方です」
私は言った。
「ですが、まっすぐな路なら、効きます」
「面は減るぞ」
ハルが言った。
「蹄鉄と同じだ。減る。減ったら打ち替える。それだけだ」
クレイは紙を裏返して、何かを描き始めた。
顔に、少しだけ血の色が戻っていた。
私は、描いている手を見ながら、言っておかなければならないことを言った。
「これがあの日あっても、たぶん、間に合っていません」
クレイの手が止まった。
「東分岐は、曲がりながら止まらなければならない場所です。まっすぐな路でしか効かないものは、あの場所では効きません」
「……はい」
「だから、これは弔いにはなりません。次の誰かのためのものです」
———
私は表示盤の前に戻って、八つの列を見た。
入れるべきかを考えて、入れなかった。
「これは、今日の八つには入れません」
「なぜだ」
ハルが言った。
「今日足りなかったものではないからです。初めから無いものです」
私は言った。
「足りなかったものは、足せば直ります。標識は替えられる。路図は配れる。『なるべく』は書き直せる。──初めから無いものは、数えても直りません。作らないと出てきません」
「作るのに、どれだけかかる」
「分かりません。ただ、新しく作らなければならないものは、たぶん一つもありません」
私は言った。
「石はあります。面はハルさんが打てます。腕は、荷車の跳ね上げと同じ作りで済みます。──あるものが、まだ繋がっていないだけです」
私は別の紙を一枚出して、一行だけ書いた。
魔力を使わずに止まる手を、作る
「これは答申には書けません。まだ、走って見せていないので」
マリエが手を出した。
「私が持ちます」
彼女はその紙を、書類の束のいちばん上に置いた。
「常設の会を置くなら、答えの出ていない欄が要るわ。今日から一行あるということね」
———
「七番と八番は、王都のものです」
私は表示盤の下の方を指した。
「防護壁は、馬車の車輪が乗り上げないための高さで作られています。浮遊車の底は、その壁の天端とほとんど同じ高さで浮いています。受け止められるのは箱の底の縁だけで、受け止めきれずに跳ねます。今回、左の壁で跳ね、右の壁に当たりました。二度目が致命でした」
私は、そこで一度言葉を切った。
「一度で済んでいれば、この方は生きていました」
誰も、何も言わなかった。
「八番。この路には、速さの上限がありません。馬車の路だったからです。馬は、疲れるので、勝手に上限を持っています。浮遊石は疲れません」
———
書き終えて、私は八つの列を眺めた。
どれか一つが天才的な悪意だったなら、まだ話は簡単だった。
罰して、直して、終わる。
「一つの悪い術式が人を殺した、という話なら、まだ分かりやすかったんです」
私は言った。
「でも違います。標識、路図、雨、添え手、説明、音、壁、速さ。全部が少しずつ足りませんでした」
「みんな少しずつ正しくて、みんな少しずつ足りなかったんです」
部屋は静かだった。
「一つ確かめてもいいですか」
被害者側の代理人が言った。
「はい」
「その八つのうち、どれか一つでも欠けていなければ、彼は死ななかったのですか」
私は、答えを選ばなかった。
選ぶと嘘になる問いだった。
「一つでは、たぶん足りません」
私は言った。
「二つ違っていれば、助かっていたかもしれない。三つなら、おそらく助かっていた。……これが、いま言える精一杯です」
「たぶん、ですか」
「たぶんです。この種の事故で言い切れることは、ほとんどありません。言い切る人が出てきたら、疑ってください」
代理人は、何も言わなかった。
「その『たぶん』が、いちばん怖いところです」
私は続けた。
「八つのうち二つを直すのは簡単です。難しいのは、次の事故の八つが、今回とは別の八つだということです」
———
その日の午後、マリエは机の上を全部片づけて、白い紙を一枚だけ置いた。
「では、私の番ね」
マリエは書いた。
誰が、何について、どこまで責任を負うか
一、浮遊車を作った者
二、自動操縦術式を編んだ者
三、浮遊車を走らせた事業者
四、乗っていた者
五、路と標識を管理する者
六、許可を出した者
「六つあります」
マリエは言った。
「今の王都の規則は、このうち三と四しか書いていません。馬車の規則だからです。馬車は、作った者が走らせ方まで決めることはないし、車輪が勝手に判断することもない」
「判断するものが増えると、責任の置き場が増えるということですか」
トーレが聞いた。
「増えます。そして、増えたところに何も書いていないと、事故のあとで全員が『自分の欄には書いていない』と言えてしまう」
マリエは紙をめくった。
「もう一つ。今回、記録札があったから八つが分かりました。なかったら、いま我々は『たぶん術式が悪い』と言って終わっていた。──記録札は、義務にします」
「工房の負担が」
「負担です。でも、記録のない事故は、必ず、いちばん弱い立場の人のせいになります」
マリエは顔を上げた。
「つまり、誰か一人を罰すれば終わる事故ではない、ということね」
「はい」
私は言った。
「最悪の種類の事故です」
「最悪の会議ね」
「だいたい重要な会議はそうです」
マリエは、初めて少しだけ笑って、すぐに真顔に戻した。
———
三日後、事故検分会は王城へ答申を出した。
全面の禁止ではなかった。
浮遊車についての当面の定め
一、人が一切手を触れない運行を、当面止める
二、毎刻六十歩里を超える運行では、手を添えることを義務とする
三、操縦記録札の搭載と保存を義務とする
四、事故のときは記録札を提出する義務を負う
五、外周路の誘導標識を、新しい規格へ順に替える
六、路を変えた部署は、路図を配る部署へ知らせる義務を負う
七、検めを通った自動操縦術式のみ、公道を走ってよい
八、浮遊車を止められる防護設備へ、順に替える
九、事故検分会を常設とする
十、運行する者は保険に入ることを義務とする
十一、被害を受けた者への基金を、次の会期までに設計する
この十一のうち、いちばん揉めたのは九番だった。
常設の会は金がかかる。
事故が起きなければ、何もしていないように見える。
何もしていないように見える部署は、真っ先に予算を削られる。
「削られるでしょうね」
マリエは言った。
「削られたら、また置けばいいわ。置き直すたびに、その理由が記録に残る。三度置き直せば、四度目には誰も削らなくなる」
根気の話をしている。
この人は、たぶん最初から根気の話しかしていない。
———
「禁止しないんですか」
会が終わったあと、若い書記の一人が私に聞いた。
悪気のない、まっすぐな聞き方だった。
「しません」
「人が死んだのに」
「はい」
私は少し考えて、言葉を選んだ。
「止めれば、この事故と同じ事故は起きません。それは本当です」
「なら」
「でも、馬車の事故は残ります。渋滞で間に合わない急病人も残ります。東門の荷が半日遅れるのも残ります。それらは、数えられていないだけで、消えたわけではありません」
書記は黙った。
「便利にするのが正しい、と言っているのではありません」
私は言った。
「数えているものと、数えていないものがある、と言っています。今日、我々が数えたのは一人です。数えていないものの方が、たぶんずっと多い。それを忘れて禁止しても、忘れて進めても、同じくらい間違えます」
「……難しいですね」
「難しいです」
最悪だ。
こういうとき、私はいつも、正しいことを言った気になれない。
———
その晩、家に帰ったのは遅い時間だった。
リゼは起きていた。
卓に、冷めかけた茶と、薄い焼き菓子が出ている。
「食べた?」
「食べてない」
「そうだと思った」
リゼは椀に湯を注ぎ足して、私の前に置いた。
それから、向かいに座った。
「今日ね、市場でおばさんに聞かれたの。あなたの旦那さん、浮く車の会議に出てるんでしょって」
「なんて答えた」
「出てるって答えた」
「そのあとは」
「あれは禁止した方がいいって、二十回くらい言われた」
私は笑った。
笑うところではなかったが、今日はもう笑うところが一つも来ていなかった。
「便利になるって」
リゼが言った。
「誰かが怖い思いをしなくなることだと思ってた」
「そうだったらよかったんだけどな」
私は茶を飲んだ。
少し間を置いた。
「でも、怖さの場所が変わるだけのこともある」
リゼは、しばらく黙っていた。
「馬車のころは、怖いのは馬だった」
「そうだな」
「今は、術式なのね」
「術式と、雨と、標識と、去年の工事と、なるべくって書いた誰かだ」
「多いね」
「多い」
リゼは焼き菓子を半分に割って、片方を私の皿に置いた。
「一人で八つも数えたの」
「数えた」
「数え終わったなら、今日はもう終わり」
それは命令だった。
この家では、こういう言い方をされたら終わりである。
「明日は」
「明日は、まだ来てない」
リゼはそう言って、灯りを落とした。
———
三日後、私はもう一度、東分岐へ行った。
用があったわけではない。
用がないのに現場へ行くのは、たいてい良くない癖だと自分でも思う。
崩れた防護壁は、まだ直っていなかった。
代わりに、直っていない壁の下に、花が置かれていた。
誰が置いたのかは分からない。
白い小さな花で、雨に濡れて、地面に貼りついていた。
その横を、浮遊車が一台、通っていった。
速い車ではなかった。
分岐の手前で、はっきりと速さを落とした。
落としたのが術式なのか、乗っている人が手を添えて落としたのかは、外から見ても分からなかった。
どちらでもよかった。
大事なのは、浮遊車がそこで速さを落としたことだった。
街は止まっていない。
だが、以前と同じでもない。




