第177話 浮かぶ石、滑る街
王都の朝市が、いつもより少しだけ浮いていた。
比喩ではない。
通りの端の乾物屋で、買い物かごが三つ、腰の高さに浮いている。
飛んでいかないよう、細い紐で台の脚に結んであった。
風が抜けると、三つとも同じ向きに、揃って傾いた。
「かわいい」
リゼが言った。
休みの日である。
術務室の見習いは、この日だけは書き付けを持たない。
「便利そうだ」
「そっちなの」
「両方だ」
実際、便利だった。
乾物屋の主人は、客の品を入れたかごを、片手で押して奥へ運んでいる。
持ち上げていない。
押しているだけである。
「腰をやってから、これがないと商売にならん」
主人はかごを軽く叩いた。
叩かれたかごは二度ほど上下に揺れて、止まった。
———
浮遊石が王都に出回り始めたのは、去年の終わりごろだと聞いた。
何もしなくても、重力に逆らって浮く石である。
術式を編む必要はない。
術勢も食わない。
置いておくと、浮いている。
食わないのは、支えているだけだからだと思う。
卓が本を支えていても、卓は何も減らない。
減るのは、速さを変えるときである。
最初は珍しがられただけだった。
値も高かった。
それが今年に入って、東の鉱山で安く採る方法が見つかり、値が二十分の一になった。
面白そうな素材が、そこまで安くなれば、いろいろなものに使われるようになる。
これは、どの世界でも同じらしい。
通りを歩くだけで、いくつも見つかった。
机の上でゆっくり回る人形の置物。
子どもが紐で引いて歩く、浮く鴨。
石工の作業場に置かれた、荷を載せると腰の高さで止まる台車。
病人を寝かせたまま動かせる、浮く寝台。
最後のものを見たとき、少しだけ胸が詰まった。
あれは、確実に誰かの背中と誰かの尊厳を救っている。
AIエージェント:「観測:浮遊石の浮力は、石の量に比例します。石を増やせば、いくらでも重い物が浮きます」
AIエージェント:「補足:ただし、浮力に上限がないことは、止まる力にも上限がないということを意味しません」
「……それは、あとで効いてくるやつだな」
「なにが?」
リゼが振り向いた。
「なんでもない」
———
効いてきたのは、その二十歩あとだった。
通りの向こうから、妙な音が近づいてきた。
馬の蹄ではない。
車輪でもない。
風が石畳の上を薄く撫でるような、低くて平らな音だった。
その下に、蜂の巣のような細い唸りが混じっていた。
人混みが割れた。
荷を積んだ箱が、膝の高さで浮いて、こちらへ滑ってくる。
前に人が二人乗っている。
馬はいない。
速い。
そして、曲がらない。
それは、乾物屋の前で曲がろうとして、曲がりきれずに横へ滑った。
屋台の脚を掠め、干し杏の籠を撒き散らし、五歩ほど先で、ようやく止まった。
誰も轢かれなかった。
運が良かっただけだ、と分かる止まり方だった。
「すまん! すまん!」
乗っていた男が、慌てて飛び降りて頭を下げている。
もう一人は、箱の前に据えられた小さな盤に手を突っ込んで、何かを止めようとしていた。
私は干し杏を拾いながら、その箱を見ていた。
底に、浮遊石を並べた板が張ってある。
板の四隅に、環が四つ。
前の方に、腹の高い筒が一本、横倒しに縛りつけてあった。
環は、押し環である。
筒は溜め筒で、押し環へ注ぐ魔力が入っている。
押す力と、向きを変える力はある。
止めるのは、逆向きに注いでいるだけらしい。
押したのと同じ強さで、押し返しているだけである。
「これ、乗り物というより、制御対象ですね」
男たちが顔を上げた。
「せいぎょ……なんです?」
「押さえつけていないと、勝手にどこかへ行くもののことです」
———
私は環を指で叩いた。
新しいものではなかった。
「押し環は、石場のものですね」
「石場のです」
男の一人が、ばつが悪そうに言った。
「岩を寄せるのに使うやつを、そのまま小さくしました」
押し環は、昔からある。
魔力を注げば、注いだ向きへ物が押される。
注いだ魔力を、押す物の重さで割ったものが、速さの変わり方になる。
だから、重い物には莫大な魔力が要る。
人が自分の内に持っている魔力で岩を動かそうとしても、岩は微塵も動かない。
そこで昔から、大きな魔力を器に溜めておいて、器から物へ作用させてきた。
石場で岩を寄せるのも、港で荷を上げるのも、その仕掛けである。
では、なぜ今まで乗り物にならなかったのか。
地を這う荷車を押しても、輪と轍と地面に食われる。
食われたぶんは、全部、魔力の値段である。
それなら馬の方が安い。
浮遊石が、そこを消した。
支える手間と、地面に食われるぶんが、いっぺんに消えた。
残ったのは、昔からある環と、昔からある溜め筒である。
新しいのは、石だけだった。
新しくないものが、新しい石と繋がった日に、街は変わり始めていた。
———
その日の午後、王都交通局から呼び出しが来た。
「休みなんだけど」
リゼが、玄関で腕を組んだ。
「休みだった」
「杏、拾ってあげたのに」
「拾ったのは俺だ」
「わたしは籠を押さえてた」
それは事実だったので、私は黙って外套を取った。
リゼは少し笑って、それから、思い出したように付け足した。
「班長から、記録係で来いって言われてる。わたしも行くの」
「休みじゃないのか」
「休みだった」
最悪だ。
夫婦そろって同じ会議に呼ばれる休日というものが、この世にはあるらしい。
———
王都交通局の会議室は、天井が高くて寒かった。
長机の片側に、四つの立場が座っている。
交通局。
浮遊車を作っている工房。
保険組合。
御者組合。
その反対側に、術務室と魔法学校。
私はそちらに座らされた。
リゼは末席で綴りを開いている。
ルドーは、なぜか窓際に立ったまま座らなかった。
なぜ学校まで呼ばれているのかと聞いたら、交通局の担当者が正直に答えた。
自動操縦術式を読める人間が、交通局に一人もいないのだという。
編んでいるのは工房で、編み方を教えているのは学校で、役所は許可の判を押すだけである。
許すかどうかを決める側が、許す中身を読めない。
この形は、あとで必ず効いてくる。
「まず、名前を決めさせてください」
交通局の担当者が口を開いた。
トーレと名乗った。四十くらいの、疲れた顔の男である。
「あれを何と呼ぶかで、既に三回揉めています。浮き車、浮遊馬車、浮遊台車」
「馬車ではないでしょう。馬がいない」
「馬車組合はそう呼びたいんです。呼べば、今の規則がそのまま使えるので」
なるほど、と思った。
名前を争っているのではない。
どの規則の下に置くかを争っている。
それは、ずっと真面目な争いだ。
「浮遊車で」
窓際からルドーが言った。
「理由は」
「短い」
誰も反論しなかった。
この人の決め方は、たいてい雑で、たいてい通る。
———
「では、浮遊車の件です」
扉が開いて、女性が入ってきた。
書類の束を抱えて、席順を一瞥して、迷いなく空いている中央の椅子に座る。
ずいぶん久しぶりだった。
「マリエさん。今度は交通ですか」
「ええ」
マリエは束を机に置いて、一枚目をめくった。
「王都は便利になるたびに、なぜか会議が増えるの」
「記録庫のときも、そう言っていました」
「あのときは記録庫が増えた。今度は乗り物が増えた。増えるものが変わっても、増える会議は同じ形をしているのよ」
基幹記録庫の移し替えを取りまとめた人である。
あのとき私は、この人が日程と未解決事項と関係者を同時に持ち歩けることを知った。
そして少しあとに、契約術務士の資格を持っていることも知った。
「交通局から、制度の整理を頼まれたのですね」
「頼まれたというより、押しつけられたのだけど」
マリエは書類を三つの山に分けた。
「認可、責任、金。揉めるのはこの三つよ」
「今日で片づきますか」
「片づかないわ。三年は揉める」
マリエは一枚目に指を置いた。
「今日やるのは、どの話がどの山に入るかを決めるところまで。山を間違えたまま話し合うと、同じ話を三回することになるから」
揉めた。
———
最初に立ったのは、浮遊車工房の代表だった。
クレイという若い男で、袖に浮遊石の粉がついたままだった。
たぶん、今朝まで工房にいたのだろう。
「率直に言います。規則を待っていたら、遅すぎます」
クレイは机に地図を広げた。
「王都の物流は詰まっています。市場通りは朝夕に動かない。馬は疲れる、餌が要る、糞の始末が要る、雨の日は遅れる。浮遊車は疲れません。悪路でも揺れない。荷を倍積める。──魔力は食いますが、糞は出ません」
「そのぶん、止まりません」
私が言うと、クレイは一瞬だけ黙った。
「止まります。自動操縦術式を積めば」
「積まなければ止まらない、ということですね」
「……人の手だけでは、正直、無理です」
彼は正直だった。
私はそこを買った。
「浮遊車は、地面を掴んでいません。掴んでいないものは、押せば進むが、押すのをやめても進み続けます。曲がるときは外へ流れる。横風が吹けば、風の向きへ寄る」
「雨の日は、どうなります」
トーレが聞いた。
「雨では、変わりません」
私は言った。
「濡れて滑るということが、この乗り物には起きません。地面を掴んでいないからです──ただ、雨の日は路と標識が見えにくくなります。掴めないことより、そちらの方が後で怖くなると思います」
私は表示盤を借りて、線を引いた。
「馬車は、馬が勝手に止まってくれます。人が気づく前に、馬が怖がって足を止める。あれは、けっこうな安全装置です」
「馬は賢いですからね」
御者組合の側から、低い声がした。
「賢いです。少なくとも、壁を怖がる程度には」
———
自動操縦術式というものを、私はその日はじめてまともに見た。
やっていることは、拍子抜けするほど単純だった。
どの向きへ、どれだけ魔力を注ぐかを決める。
それだけで、速さも向きも決まる。
前方の路面と標識を読んで、どちらへ向かうかを決める。
これを、まばたきより短い間隔で、延々と繰り返す。
押さえ続けているのである。
術式が一拍でも手を止めれば、浮遊車はただ滑る箱に戻る。
「賢いことをしているわけではありません」
クレイは言った。
「速く直しているだけです。人間より速く、人間より飽きずに」
「それは、賢いということだと思いますよ」
私は言った。
「ただし、賢いのは直す速さだけです。何が起きているかを分かっているわけではない」
———
午後遅く、私たちは王都外周の試験路へ移った。
もとは外周を回る馬車道である。
石畳を平らに敷き直しただけで、幅も、両側の低い防護壁も、一定の間隔で立っている誘導標識も、馬車の時代のものがそのまま残っていた。
「新しく敷いたわけではないんですね」
「敷き直す予算しか下りませんでした」
トーレが言った。
「新しく一本引く話——高速浮遊路と呼ぶことになっていますが——は、三度出して三度落ちています。走っている台数が、まだ三十ほどなので」
「名前だけ、先にあるんですね」
「名前は、金が要りませんから」
三十台のために路は引けない。
路がないから台数は増えない。
どちらも正しくて、どちらからも始められない。
「乗りますか」
クレイが聞いた。
「乗ります」
「あなたは乗らないで」
マリエが即答した。
「なぜです」
「あなたが事故に遭うと、会議がもう二つ増えるから」
増えるだろうな、と思った。
思ったが、譲れなかった。
「止まるまでにどれだけかかるかは、外から数えられます」
私は言った。
「ですが、乗っている人間が何を安心してしまうかは、乗らないと分かりません。そこがいちばん危ないところだと思っています」
マリエは、少し黙った。
「一度だけね」
「一度だけにします」
結局、私とクレイが乗り、マリエとリゼとルドーは壁の外から見ることになった。
滑り出しは、驚くほど静かだった。
揺れない。
石畳の継ぎ目を、まったく拾わない。
乗合馬車で尻が痛くなった記憶が、急に古いもののように思えた。
「気持ちいいでしょう」
「気持ちいいです」
それが、いちばん怖いところだ、とも思った。
「手は、舵に添えておいてください」
クレイが言った。
「離していても走りますが、離していると、代われません」
「人の手では無理だと、会議で言っていませんでしたか」
「無理です」
クレイはあっさり認めた。
「傾きを直し続けるのは、人には無理です。まばたきより短い間隔で直していますから、そこを人がやったら、まず横へ流れます」
「では、私は何をするんです」
「やめるかどうかを決めてください」
クレイは言った。
「舵は、進み方を作る道具ではありません。速さを落とすか、止めるか、脇へ寄るか。それだけです。──曲がり方は術式が作ります。曲がるのをやめるかどうかは、人が決めます」
私は舵に手を置いた。
握るというより、触っているだけの持ち方だった。
押さえ続けているのは術式で、私は、やめる係である。
役の分け方としては、悪くないと思った。
思ったが、この分け方には一つ、誰も確かめていないところがあった。
やめる係が、やめるべき瞬間に気づけるかどうかである。
「速さを上げます」
押し環の唸りが高くなった。
景色が流れ、防護壁が線になった。
「止めてみてください」
クレイが盤に触れた。
唸りが、いったん止んだ。
それから、違う高さで鳴り直した。
押していた環が、逆向きに注ぎ始めたのである。
それでも、浮遊車は進み続けた。
少しずつ、ほんの少しずつ遅くなり、標識を三本通り過ぎて、ようやく止まった。
AIエージェント:「観測:停止までに使った距離は、同じ速さの荷馬車のおよそ四倍です」
AIエージェント:「補足:逆向きに注いで止めています。止める力は、進める力より大きくなりません。馬車は、進む力より止まる力の方が大きい乗り物です」
「黙れ」
「なんです?」
「こちらの話です」
私は前方を見た。
標識が三本。
あれが三本ぶん、この乗り物には「気づいてから何もできない時間」がある。
馬車なら、その距離で人が飛び出しても止まれる。
この箱は、止まれない。
———
「もっと強く止められないんですか」
私が聞くと、クレイは少し黙った。
「環が一度に通せる量に、上限があります。それを超えて注ぐと、環が焼けます」
「上限まで注げば、いまよりは止まりますね」
「止まります」
クレイは言った。
「……強く止めるほど、魔力を食います。速さを上げたぶんと、落とすぶんは、だいたい同じだけ食うので」
私は、それで話が読めた。
「では、いまの止まり方は誰が決めたんです」
「私です」
クレイは、目を逸らさなかった。
「帳面を見て、決めました。溜め筒の目盛りは、そのまま銅貨です」
止まる強さが、金で決まっている。
私は、それを責める気になれなかった。
責める気になれないことの方が、たいてい後で厄介になる。
———
降りたところで、ルドーが防護壁を指で叩いていた。
「先生」
「これは何のための壁だ」
クレイが答えた。
「馬車が外へ出ないための壁です。前からあります」
「浮遊車は」
「……浮遊車も、外へは出ません」
ルドーは、それ以上何も言わなかった。
私は壁に近づいて、高さと厚みを見た。
膝より少し高い。
馬車の車輪が乗り上げないための高さである。
浮遊車の底は、膝の高さで浮いている。
石畳の継ぎ目も坂も拾わないように、そこまで上げてあるのだという。
つまり、この壁が受け止められるのは、箱の底の縁だけである。
「当たったら、どうなりますか」
私が聞くと、クレイは少し考えた。
「跳ねます」
「跳ねる」
「浮遊石は、押されると押し返すので。……速ければ、ひっくり返ります」
私は壁を見て、それから浮遊車を見た。
馬車を止めるために作られたものは、馬車を止める。
馬車でないものを止めるとは、誰も言っていない。
最悪だ。
この街には、浮遊車を止められるものが、まだ一つも用意されていない。
———
夕方、御者組合の詰所へ寄った。
行かなくてもよかった。
だが、会議室で御者組合の席の男が三時間ずっと黙っていたのが、気になっていた。
詰所は馬の匂いがした。
藁と革と、鉄と、汗の匂いである。
悪くない匂いだった。
代表は、ゲルドと名乗った。
六十近い、手の甲が厚い男だった。
「壊しに来たのかと思ったよ」
「何をですか」
「うちの商売を」
ゲルドは湯を注いだ椀を、二つ机に置いた。
「あんた方が今日一日で決めたことは、俺の耳にはこう聞こえる。浮遊車は速い、荷が積める、馬が要らない、餌が要らない、糞が出ない。──御者が要らない」
餌は要る、と私は思った。
名前が魔力に変わっただけである。
ただ、魔力は厩舎で朝を待たない。そこは、たしかに違う。
「そこまでは」
「いや、そうなる」
ゲルドは椀を回した。
「決めるのはあんた方じゃない。荷を出す商人だ。安い方に出す。それだけで済む」
「うちの組合は、御者が四百人ちょっと。厩舎の世話係が二百。蹄鉄屋、馬具屋、飼葉屋を入れると、千を超える。この街で、千人ぶんの明日を、いま誰も数えていない」
数えていない、というのは正確な言い方だった。
今日の会議で、その千人は一度も数字として出てこなかった。
「若いのがな」
ゲルドは続けた。
「先週、格納庫の前で騒いだ。俺が止めた。今度やったら組合から外すと言った」
「止めてくださって、ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。俺だって、あれを見ると腹の底が冷たくなる」
彼は湯気の向こうから私を見た。
「俺たちは未来が憎いんじゃない。明日、家に持って帰る銅貨がなくなるのが怖いんだ」
私は、その言葉を書き留めなかった。
書き留めるようなことではなかった。
覚えていればいい種類の言葉である。
———
帰り道、リゼが横に並んだ。
「あの人たち、悪い人には見えなかった」
「悪くない」
「じゃあ、誰が悪いの」
「今のところ、誰も悪くない」
私はそう言って、少し考えた。
「工房は速く運びたい。交通局は渋滞を減らしたい。市場は荷を早く欲しい。御者は明日も働きたい。全部、まっとうな願いだ」
「まっとうな願いが四つあると、揉めるのね」
「揉める」
リゼは石畳を蹴った。
「わたし、今日の会議でいちばん怖かったの、あの壁の話」
「壁」
「あれ、馬車のために作った壁でしょう。誰も嘘ついてないのに、誰も守れてない」
私は足を止めた。
「それだ」
「え」
「今日ずっと、どう言えばいいか分からなかったことだ。全部それだ」
リゼは、少し得意そうな顔をして、それからすぐ真顔に戻した。
「褒めてる暇があったら、ごはん食べて寝て」
「そうする」
———
その晩、私は寝ていて、術務室からの呼び出しで起こされた。
王都南区、浮遊車格納庫。
火が出た、という。
———
着いたときには、火はほとんど消えていた。
水を掛けられた木材の匂い。
濡れた石畳に映る、消し残りの明かり。
人が多いのに、声が少ない。
試験用の浮遊車が四台、壊されていた。
燃えたのは一台だけである。
残りの三台は、燃やされてはいなかった。
底の浮遊石を留めていた固定具が外され、石を抜かれ、あるいはずらされていた。
石を抜かれた台は、地面に落ちていた。
石を片側だけずらされた台は、傾いたまま浮いて、壁に押しつけられていた。
壁には、何度もぶつかった跡がある。
誰かが、この箱を壁に走らせて遊んだのだ。
「札が残っていました」
交通局の者が、油紙を差し出した。
粗い紙に、馬の頭を模した紋章が描いてある。
御者組合の紋章に似ていた。
似ていたが、蹄の向きが逆だった。
「組合の紋です」
「違います」
私は言った。
「本物を一度でも見た人間なら、蹄の向きを間違えません」
交通局の者は、私を見て、それから札を見た。
「では、誰が」
「分かりません」
それが正直なところだった。
組合の若い誰かが、腹立ちまぎれに描いたのかもしれない。
組合と関係のない誰かが、組合のせいにするために描いたのかもしれない。
ただの憂さ晴らしかもしれない。
どれであっても、明日の新聞には「御者組合の紋章」と書かれる。
そして明日から、四百人の御者が街で肩身を狭くする。
最悪だ。
この札を描いた人間は、たぶん、そこまでは考えていない。
AIエージェント:「観測:残された四台のうち、三台は燃えていません。壊し方に統一がありません」
AIエージェント:「補足:怒りは、たいてい設計されていません」
私は、今度は黙れと言わなかった。
この術盤が正しいことを言うのは、珍しくない。
珍しいのは、それが本当に言われるべきときに言うことである。
———
人が引いたあとの格納庫に、一台だけ、傷のない浮遊車が残っていた。
誰も触らなかったのだろう。
荷も載っていない。
留め具も緩んでいない。
浮遊車は、何も言わずに床から少しだけ浮いていた。
その隣で、焼けた車輪のない台座が、抜き残された石の分だけ持ち上がって、ゆっくりと揺れていた。
燃えても、浮くものは浮く。
石は、何が起きたかを知らない。




