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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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176/258

第176話 『有害とみなされる』論考、有害とみなされる

 王城出納局の術盤室は、乾いた熱で満ちていた。


 古い術盤の低い唸り。

 紙束。

 冷めた茶。

 眠っていない人間の顔。


 半年前と、ほとんど同じである。

 違うのは、あのとき低く唸っていた出納補助術が、いまは新しい術盤群の上で退屈そうに動いていることだった。

 自分を書き換えるのをやめさせるのに、半月かかった術である。


 部屋へ着く前から、外の様子は分かっていた。

 窓口へ続く階段に、市民の列ができている。


「還付が来ないんですけど」


「うちは商いなんだ。金が返ってこないと、仕入れができない」


 窓口の職員が、同じ言葉を繰り返している。

 困惑と諦め。

 人が死ぬわけではない。

 ただ、今月の仕入れができない家が、王都に何百とある。

 地味に困ることが何百も並ぶと、本気で困る。


———

 術盤室の椅子に、若い術師が座っていた。


 二十歳そこそこだろうか。

 王都術務室の外套を着て、背筋だけはまっすぐに伸ばして、表示盤を見つめている。

 顔は、白いを通り越して灰色だった。


「イオといいます。術務室から、こちらへ出向しています」


 立ち上がろうとしたので、手で止めた。


「座っていてください。まず、何が止まっているかから聞かせてください」


「還付処理です。二日前から、一件も出ていません。通知札も同じです」


「窓口の受付は」


「受付は動いています。受け付けた札が、そこから先へ進みません」


 私は表示盤の前に立った。

 ルドーが後ろで腕を組み、リゼは入口のそばの椅子に、静かに座った。

 邪魔をしない位置を選ぶのが上手くなったな、と思った。


「改修をしたと聞きました。何をしましたか」


 イオは、しばらく黙ってから答えた。


「跳躍詠唱を、なくしました」


「全部ですか」


「全部です」


 イオは、机の上の写しを両手で押さえた。

 朝、講堂で配られたのと同じ札だった。


「学校で、跳躍詠唱は有害だと習いました。だから、全部なくした方がよいと思って……」


 声が、途中で細くなった。


「先月、出納局から術務室に、この術式を触れる者がいないという相談が来ていました。書いた人はもういません。読める人もいません。それで、僕が」


「志願したんですね」


「はい」


 私は頷いた。


「考え方は間違ってない」


 イオが顔を上げた。


「でも、古い術式には、古い術式なりの理由が残っていることがある」


AIエージェント:「観測:本件の改修は、術務室の改修記録に『効率化』とのみ記されています」


「黙れ」


 最悪のときに、最も正確なことを言う。

 この術盤の性能は、たぶんそこに全部使われている。


「その改修を、いいと言ったのは私です」


 部屋の奥から、しわがれた声がした。

 白髪の術師が、古い保守記録の束を抱えて立っている。

 顔に見覚えがあった。


「ナザルさん」


「お久しぶりです」


 半年前、この部屋で、出納補助術の黄ばんだ保守記録を出してくれた人である。

 自分を書き換える術と半月付き合った相手を、いちばんよく知っている術師だった。


「イオくんが、跳躍詠唱をなくすと言ってきたとき、私は良いことだと思いました」


 ナザルは記録の束を机の隅に置いた。


「半年前に、あなたがそう教えてくれたと思っていたので」


 嫌な予感が、はっきりした輪郭を持ち始めた。


———

「まず、いま何が積まれているかを見ます」


 私は術盤に、いまの状態を吐き出させた。


AIエージェント:「観測:この術式に割り当てられた術座は三百五十。うち三百四十一が、開いたまま塞がっています」


AIエージェント:「補足:塞がった術座のうち二百六には、書きかけの台帳記録が残っています」


 イオが、椅子から半分立ち上がった。


「書きかけ、ですか」


「台帳に、途中まで書いて、途中でやめた記録です。数字は入っているが、確定していない」


 私は、朝の講堂で配られた札を机に広げた。

 古税務補助術式 第四改。


「第十四節を見てください。台帳へ記す。記せざれば第十六節へ飛べ」


「はい」


「第十六節は何ですか」


「筆を戻し、術座を空ける、です」


「あなたは、この改修で第十四節をどう書き直しましたか」


 イオは、自分の書いた術式列を出した。

 現代の書き方だった。

 条件で分かれ、繰り返し、上から下へきれいに読める。

 読める。

 読めるのだが、失敗したときに何をするかが、どこにも書いていなかった。


「台帳へ記す。記せなければ、その札を飛ばして次の納付者へ進む……と、書きました」


「飛ばして進むと、書きかけの記録はどうなりますか」


 沈黙が、十数える分ほど続いた。


「……残ります」


「術座は」


「開いたまま、です」


「そうです」


 私は表示盤に、二本の線を引いた。


「あの術式には、道が二本あります。うまくいったときの道と、失敗したときの道。第十六節は、そのどちらからも必ず通る場所でした。跳躍詠唱は、失敗した札を、必ずそこへ運ぶための仕掛けだったんです」


「僕は、その跳躍を消しました」


「消しました。すると、失敗した札の行き先がなくなる」


 イオは、自分の術式列を見つめていた。


「読みにくいものを消したつもりでした」


「読みにくかったのは本当です。あなたが読みにくいと思ったのは、正しい」


 私は言った。


「読みにくさを消したとき、一緒に約束も消えた。それだけです」


———

 出納局の記録を遡ると、数の勘定は単純だった。


 字の潰れた札、番号の足りない札、破れた写し。

 王都の納付者は数万人いるので、読めない札が一日に百七十ほど混ざる。

 改修前は、そういう札が来るたび、術式は第十六節へ飛び、筆を戻し、術座を空けて、次へ進んでいた。


 改修後は、飛ばなくなった。

 一日に百七十。

 二日で三百四十。

 この術式に割り当てられた術座は、三百五十しかない。


 最悪だ。

 二日という数字は、誰にも狙われていない。

 ただ、割り算がそうなっていただけである。


「還付が止まったのは、還付の術式が壊れたからではありません」


 私は言った。


「机が埋まって、次の紙を置けなくなったからです」


「……直せますか」


「直せます。ただ、順番が大事です」


 私は表示盤に手順を書いた。


 いまやること


 一、止める。これ以上、書きかけを増やさない

 二、旧い術式に戻す。写しは残っています

 三、書きかけを数え、監査の立ち会いで取り消し、術座を空ける

 四、止まっていた還付を流す

 五、改修は、そのあとで、最初からやり直す


「戻すんですか」


 イオが聞いた。


「戻します。いまの目的は、あなたの改修を活かすことではなくて、市民の還付を出すことなので」


「戻せる状態を先に作ってから直す。それができていれば、二日ではなく二刻で済みました。次はそうしましょう」


「三番は、私が話を通します」


 入口の脇から、女性の声がした。

 出納局の担当官で、ミルカと名乗った。


「二百六件、勝手に消すわけにはいきません。監査を呼びます」


「お願いします。取り消したという記録も残してください。残っていないと、来年、同じ人がまた困ります」


 ミルカは頷いて、すぐに部屋を出ていった。

 こういう人がいる現場は、だいたい復旧する。


———

「ところで」


 私は写しの束をめくった。


「この術式、誰が書いたんですか」


 ナザルが保守記録の束をめくった。

 半年前に見たのと同じ、黄ばんだ紙である。


「記録では、三代前の税務術師長です。十年前に引退されました。今は山奥で養蜂をされています」


「養蜂」


「蜂を飼っておられるそうです」


 ルドーが、初めて口を開いた。


「良い引退だ」


 良い引退である。

 最悪だ。

 良い引退の代償を、いま王都の窓口の列が払っている。


「魔文は届きますか」


「山の中腹までなら」


「では一通、送ってください。第十二節と第十六節について、書いた本人に聞きたいことがある、と」


「返事、来るでしょうか」


「来ないかもしれません。でも、聞ける相手が生きているうちに聞くのは、術式の保守で一番安い方法です」


———

 差し戻しの作業を待つ間に、一つだけ確かめておきたいことがあった。


「イオさん。跳躍詠唱は有害だと、どこで習いましたか」


「学校の古典術式読解です」


 イオは少し考えて、付け足した。


「でも、術務室でも聞きました。新人が最初に読む教材があって、そこに出納局の事例が載っています」


「見せてください」


 イオが鞄から出したのは、薄い綴りだった。

 表紙に術務室の判。

 中身は、半年前のこの部屋の記録だった。


 自分を書き換える術式。

 術書に書いてある姿と、走る姿の食い違い。

 観測して、仕様にして、作り直した半月の記録。


 よくまとまっていた。

 私が説明したことが、私が説明したより整理されて書いてある。


 最後の頁に、締めの一行があった。


 読めない術は、次の時代で人を泣かせる。


 私が言った言葉である。

 あの日、この部屋で言った。


 そして、その脇に、別の筆で一行が書き足されていた。

 字が違う。墨の色も違う。あとから足したものだと、見れば分かる。


 よって、古い書き方は見つけ次第なくすこと。


 部屋が、静かになった。

 私が黙ったからである。


「……この一行は、私が言いました」


 私は上の行を指した。

 それから、下の行を指した。


「この一行は、私は言っていません」


 誰が足したのかは、書いていなかった。

 悪意で足したのでもないだろう。

 たぶん、親切で足したのだ。

 結論だけを書いておけば、新人が読みやすいと思って。


「先生」


 ルドーが言った。


「はい」


「読みやすいな」


「読みやすいです」


 読みやすい。

 そして、間違っている。

 最悪だ。


———

 私は表示盤を借りて、線を一本引いた。

 左と右に、それぞれ言葉を書く。


 読めない術      読みにくい術


「半年前にこの部屋で直した術は、左です」


 私は左を指した。


「術書に書いてある姿と、走っている姿が違いました。読み方の問題ではなく、そもそも読めない。だから観測して、実際に走っている姿を仕様にして、作り直すしかなかった」


「跳躍詠唱は、右です」


 私は右を指した。


「書いてある姿と、走る姿は同じです。第七節へ飛べと書いてあれば、第七節へ飛ぶ。嘘はついていない。追いかけるのが面倒なだけです」


 イオが、綴りと表示盤を見比べていた。


「読めないものは、読める形に作り直す。読みにくいものは、まず読む。──手順が、違います」


「あなたは、左の手順を、右に当てました」


 私は言った。


「だから、読まずに消した」


 イオは、しばらく何も言わなかった。


「……教材には、その違いは書いてありませんでした」


「書いてありません。私が言わなかったからです」


 言う必要があると思わなかった。

 当たり前だと思っていた。

 当たり前だと思っていることは、たいてい書かれない。

 そして書かれなかったものは、次の人には存在しない。


 ナザルが、低く言った。


「あのとき私は、名人の術を壊すことになりますか、と聞きました」


「覚えています」


「あなたは、名人が守ったものを次の時代でも守れる形に直すのだ、と言った。私はそれで納得しました」


「はい」


「それが、半年でこうなりました」


 責める口調ではなかった。

 それが、いっそう効いた。


———

 旧い術式への差し戻しが終わり、書きかけの取り消しが始まったところで、私は表示盤に戻った。


「では、本題です。跳躍詠唱をどうするか」


 イオが身構えた。

 たぶん、禁止令が出ると思ったのだろう。


「先に言っておくと、跳躍詠唱は禁止しません」


「え」


「分けます」


 表示盤に書く。


 跳躍詠唱の三つの型


 一、癖で跳んでいるもの

 二、後始末を一か所に集めるためのもの

 三、昔の術盤の狭さを回避するためのもの


「一番は、第七節と第八節です」


 私は札を指した。


「第九節へ飛ぶだけ。第六節へ戻るだけ。跳んでいる理由が、単に昔の癖です。これは現代の書き方に直した方がいい」


「二番は、第二節と第十四節。今回あなたが消したものです」


 私は言った。


「これは雑に消すと危ないです。失敗したときに、必ず片付けるための跳躍だから。消してよいのは、どの道を通っても最後に後始末節を通る、という仕掛けを先に作った場合だけです」


「三番は、第十二節」


 丸めの作法、旧王城式。

 午前中の講堂で、記憶晶が小さかったころの工夫だと説明したところである。


「昔の術盤の狭さを回避する跳躍です。今見ると読みにくい。でも当時は、こうしないと動かなかった」


 イオが、自分の術式列を確かめて、青くなった。


「僕、そこ……現代の丸め方に、書き換えました」


「知っています」


 私は言った。


「そこを聞きたくて、養蜂の人に魔文を出しました」


———

 差し戻した旧い術式と、イオの書いた新しい術式を、影の術盤に並べて置いた。


 同じ入力を、両方に流す。

 結果を並べて、差だけを見る。

 並走試験である。

 基幹記録庫の移し替えのときに、さんざんやったやり方だった。


 差は、すぐに出た。


AIエージェント:「観測:減免ありの案件で、還付額が一枚ずれています」


AIエージェント:「補足:ずれの向きは常に同じ。旧い術式の方が、市民に一枚多く返しています」


「銅貨一枚です。一件につき」


「……そんなの、誰も気づきません」


「気づきません。だから怖いんです」


 私はミルカの方を見た。


「出納局に、旧王城式の丸めについての決まりは残っていますか」


「あります」


 ミルカは即答した。


「税の端数は、市民に有利な側へ丸める。二百年前の勅令です。廃止された記録はありません」


 部屋が、静かになった。


「第十二節は、記憶晶を節約するための共通の節でした。それは本当です」


 私は言った。


「ですが、その節の中に、法が入っていました。狭さを回避するための跳躍が、いつのまにか、決まりを一か所に置いておく場所にもなっていた」


「読みにくい書き方をした理由と、その書き方が守っているものは、別です」


「……僕は、気づかないまま、王都じゅうの市民から一枚ずつ取るところでした」


 イオの声が震えた。


「取っていません。止まったので」


 私は言った。


「止まったおかげで、見つかりました。全部うまく動いていたら、誰も見ませんでした」


 慰めではない。

 派手に壊れる事故は、静かに間違い続ける処理より、ずっとましだ。


———

「あのね」


 入口の椅子から、リゼが言った。

 ずっと黙って聞いていた人の声だったので、部屋の全員が振り向いた。


「有害、って言い方が強すぎるのかもね」


 リゼは、朝の講堂で配られた札を膝に置いていた。


「初めて習う人には分かりやすいけど、覚えたあともずっとそれだけ信じてると、考えなくなる」


「そう」


 私は言った。


「強い言葉は、思考を始めるためにも使えるけど、思考を止めるためにも使える」


「たぶん、最初に『有害』と書いた人は、ちゃんと考えろと言いたかったんだと思う。でも百年経つと、考えなくていい合言葉になる」


 リゼは、少し不思議そうな顔をした。


「考えろ、という文章が、考えないために使われるのね」


「人間はすごいよ。どんな道具でも横着に使う」


 そこでリゼは、机の上の薄い綴りを見た。

 術務室の判が押された、新人用の教材である。


「ねえ。あれ、半年前でしょう」


「半年前だ」


「半年前の言葉が、もう合言葉になってるのね」


 私は、少し黙った。


「……百年かかると思ってた」


 二百年前の論考を笑っていたのは、今日の午前中である。

 題名を考えた人たちは暇だったのかとリゼが言い、真剣だったから怖いのだと私が答えた。

 その半日後に、自分の言葉が同じ形に固まっているのを見た。


 人類の速度を、私はまだ甘く見積もっている。


 リゼは笑わなかった。

 代わりに、イオの方を見た。


「あなた、悪くないと思う。習ったとおりにやったんだもの」


「でも、止めました」


「習ったとおりにやって止まるなら、習わせ方の方に穴があるんじゃない?」


 リゼがそう言ったとき、ルドーが小さく息を吐いた。


———

「私は」


 ルドーが、壁から背を離した。


「学生に、危険なものを危険だと教えたつもりだった」


 ルドーの声は、いつもどおり短く、いつもより少し遅かった。


「だが、危険の理由を教えなければ、ただの禁忌になるのだな」


「禁忌は便利です」


 私は言った。


「説明を省けるから。でも、運用には向きません」


 ルドーは、机の上の綴りに目をやった。


「あの授業も、私が組んだ」


 半年前の、自分を書き換える術式の授業である。

 あの日の講堂で、この人は古い術書を閉じて、力ある技は人の理解を置き去りにする、と言った。

 正しかった。

 正しい言葉ほど、持ち運ばれるうちに角が取れて、丸い石になる。


「授業を組み直す」


 ルドーは、それだけ言った。

 この人が謝るところを見たことはない。

 その代わり、次の授業の予定を変える。

 それが、この人の謝り方なのだと思う。


———

 夕方までに、還付は流れ始めた。


 止まっていた札が順に処理され、通知札が出て、階段の列が短くなっていく。

 窓口の職員が、初めて椅子に座った。


 残ったのは、これからどうするかである。


 私は表示盤に、最後の板を書いた。


 継承術式安全改修手順


 一、跳躍詠唱を見つけても、その場で消さない

 二、まず制御の流れを図に起こす

 三、正常の道、異常の道、後始末の道を分けて印をつける

 四、いまの入力と出力を記録し、変えてはならない振る舞いを決める

 五、いまの挙動を固定する試験札を、直す前に作る

 六、影の術盤で新旧を並走させ、差だけを見る

 七、型一から順に、少しずつ直す

 八、型三は、先に術盤を新しくしてから触る

 九、残す跳躍詠唱には、残す理由を書き添える

 十、禁止ではなく、改めの対象とする

 十一、改修後は、出納局、術務室、監査で確かめる


「一番から六番は、目新しいものではありません」


 私は言った。


「半年前に、この部屋でやったことです。観測して、仕様にして、作り直す。あのときは、三つの言葉で足りました」


 ナザルが、静かに頷いた。


「足りると、私も思っていました」


「足りませんでした」


 私は言った。


「三つの言葉は、覚えやすい。覚えやすいものは、持ち運ばれるうちに一つに減ります。今回は、作り直す、だけが残りました」


 だから十一まで増やす。

 増やせば、覚えにくくなる。

 覚えにくいものは、標語にならない。

 それは欠点ではなく、この手順の設計である。


「名前も、ずいぶん役所くさいですね」


 イオが言った。


「役所くさい名前は、役所で捨てられにくいです」


「十番が、一番大事です」


 私は表示盤の十番を丸で囲った。


「禁止規則は、初心者を守る柵としては役に立ちます。でも、柵の意味を知らないまま大人が振り回すと、人を殴る棒になる」


「跳躍詠唱を消すことが目的じゃありません。未来の誰かが、安心して直せる状態にすることが目的です」


———

 翌々日、山から魔文が届いた。


 差出人は、三代前の税務術師長、ドラン。

 本文は四行だった。


 第十二節は法である。

 第十六節は約束である。

 あとは好きにせよ。

 蜂が忙しい。


 術盤室の全員で、しばらくその四行を見ていた。


「……手順の半分が、四行で書いてありますね」


 イオが言った。


「二百年前から、分かっていたんです」


 私は言った。


「分かっていた人が、書かずに山へ行っただけで」


「じゃあ最初から、その四行を術式に書いておいてほしかったわね」


 リゼが、実に正しいことを言った。

 その場の全員が頷いた。

 二百年前の術師に届く手段はないが、届くなら全員で言いに行きたかった。


「九番です」


 私は言った。


「残す跳躍詠唱には、残す理由を書き添える。ドランさんは、それを頭の中に持っていました。頭の中は、引退と一緒に山へ行きます」


 イオが、写しの第十二節の脇に、小さく書き込んだ。


 この節は法である。旧王城式の丸めは勅令による。消すな。


「これでいいですか」


「いいです。あと二百年もちます」


 それから私は、術務室の教材を借りた。


 最後の頁の、書き足された一行。

 よって、古い書き方は見つけ次第なくすこと。


 消さなかった。

 消すと、誰かが同じことを書き足す。

 代わりに、その下へ二行足した。


 読みにくい術と、読めない術は、別のものである。

 どちらなのかを確かめる前に、消してはならない。


「上の行、残すんですか」


 イオが聞いた。


「残します。これを書いた人は、間違ってはいますが、真面目です」


 私は綴りを閉じた。


「真面目な人の書いたものを黙って消すと、その人は同じことをもう一度書きます。今度は、誰も見ていないところで」


———

「あの」


 帰り際、イオが追ってきた。


「じゃあ、跳躍詠唱は悪ではないんですね」


「悪ではない」


 私は言った。


「ただ、何も考えずに使うと、未来の誰かを殴る」


「で、何も考えずに禁止しても、やっぱり未来の誰かを殴る」


 リゼが横から言った。

 イオが、困った顔で笑った。


「つまり、有害なのは、考えないことか」


 ルドーが言った。


「だいたいの事故は、そこに帰ってきますね」


 私は言った。

 この結論は、身も蓋もないが、何度でも戻ってくる。

 技術が変わっても、事故の一番深いところは、いつも同じ場所にある。


「イオさん」


 私は振り返った。


「改修は、やめないでください。あの術式は、いつか誰かが直さないといけません。ただ、今度は手順に従って、時間をかけて」


「……はい」


「あと、あなたが今回見つけた銅貨一枚は、たぶん、二百年で一番大きな発見です」


 イオは、少し泣きそうな顔をして、それから、深く頭を下げた。


———

 五日後の講堂は、いつもの授業だった。


 古典術式読解。

 ルドーが表示盤の前に立ち、学生たちが綴りを開いている。

 リゼも、いつもの席にいる。


「先週の続きだ」


 ルドーは、表示盤に前回の題名を並べて書いた。


『跳躍詠唱、有害とみなされる』


『「跳躍詠唱、有害とみなされる」有害とみなされる』


「この科目には、今学期から一節加わる。跳躍詠唱がなぜ危険か、その理由を三つの型に分けて説明できること。理由を説明できない者には、消させん」


「もう一節。読めない術と、読みにくい術を、見分けられること」


 ルドーは、半年前の板書のあたりを、指で軽く叩いた。

 そこにはもう何も書かれていないが、この講堂にいた人間には分かる。


「同じ顔をして、直し方が違う。間違えると、王都の税が止まる」


 学生たちが、綴りに書き込む音がした。


「最後に、来学期の題材を書いておく」


 ルドーは、その下に新しい題名を書いた。


『強い言葉、有害とみなされる』


 講堂が、どっと笑った。


「先生、それ、また同じことになりませんか」


 前の方の学生が言った。


「なるだろうな」


 ルドーは平然としていた。


「どうせまた、誰かが返歌を書きます。強い言葉を禁じるなら、弱い言葉だけで書けばいい、とか言って」


 この前の授業で、招来詠唱の話に笑っていた学生である。


「そして、招来詠唱みたいに、もっとひどいのを作るんです」


「作るだろうな」


 ルドーは、少しも困っていなかった。


「その題名、また百年後に揉めますよ」


 私が言うと、ルドーは初めて、ほんの少しだけ笑った。


「揉めればいい。揉めているうちは、考えている」


 百年もつかどうかは、あまり自信がない。

 半年で固まるのを、今週見たばかりである。


———

 帰り道、西日が長かった。


 王都の通りから、屋台の骨組みはすっかり消えていた。

 終わったことに誰も気づかない仕事というのは、そういうものだ。


「ねえ」


 リゼが言った。


「あの術式、結局どうなるの」


「五年か、十年かけて、少しずつ直る」


「長いね」


「二百年動いてたものだからな。二日で直せる方がおかしい」


 リゼは頷いて、それから、ふと思い出したように言った。


「養蜂の人、蜂が忙しいって書いてたけど。あれ、本当に忙しかったのかな」


「たぶん、半分は面倒だったんだと思う」


 私がそう言うと、リゼは声を出して笑った。


「じゃあ、あなたも引退したらそう書くのね」


「そう書ける仕事の残し方をする」


 残す跳躍詠唱には、残す理由を書き添える。

 それは要するに、自分がいなくなったあとの誰かに、短い手紙を残しておくということである。


 四行でいい。

 できれば、蜂が忙しくなる前に。


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