第176話 『有害とみなされる』論考、有害とみなされる
王城出納局の術盤室は、乾いた熱で満ちていた。
古い術盤の低い唸り。
紙束。
冷めた茶。
眠っていない人間の顔。
半年前と、ほとんど同じである。
違うのは、あのとき低く唸っていた出納補助術が、いまは新しい術盤群の上で退屈そうに動いていることだった。
自分を書き換えるのをやめさせるのに、半月かかった術である。
部屋へ着く前から、外の様子は分かっていた。
窓口へ続く階段に、市民の列ができている。
「還付が来ないんですけど」
「うちは商いなんだ。金が返ってこないと、仕入れができない」
窓口の職員が、同じ言葉を繰り返している。
困惑と諦め。
人が死ぬわけではない。
ただ、今月の仕入れができない家が、王都に何百とある。
地味に困ることが何百も並ぶと、本気で困る。
———
術盤室の椅子に、若い術師が座っていた。
二十歳そこそこだろうか。
王都術務室の外套を着て、背筋だけはまっすぐに伸ばして、表示盤を見つめている。
顔は、白いを通り越して灰色だった。
「イオといいます。術務室から、こちらへ出向しています」
立ち上がろうとしたので、手で止めた。
「座っていてください。まず、何が止まっているかから聞かせてください」
「還付処理です。二日前から、一件も出ていません。通知札も同じです」
「窓口の受付は」
「受付は動いています。受け付けた札が、そこから先へ進みません」
私は表示盤の前に立った。
ルドーが後ろで腕を組み、リゼは入口のそばの椅子に、静かに座った。
邪魔をしない位置を選ぶのが上手くなったな、と思った。
「改修をしたと聞きました。何をしましたか」
イオは、しばらく黙ってから答えた。
「跳躍詠唱を、なくしました」
「全部ですか」
「全部です」
イオは、机の上の写しを両手で押さえた。
朝、講堂で配られたのと同じ札だった。
「学校で、跳躍詠唱は有害だと習いました。だから、全部なくした方がよいと思って……」
声が、途中で細くなった。
「先月、出納局から術務室に、この術式を触れる者がいないという相談が来ていました。書いた人はもういません。読める人もいません。それで、僕が」
「志願したんですね」
「はい」
私は頷いた。
「考え方は間違ってない」
イオが顔を上げた。
「でも、古い術式には、古い術式なりの理由が残っていることがある」
AIエージェント:「観測:本件の改修は、術務室の改修記録に『効率化』とのみ記されています」
「黙れ」
最悪のときに、最も正確なことを言う。
この術盤の性能は、たぶんそこに全部使われている。
「その改修を、いいと言ったのは私です」
部屋の奥から、しわがれた声がした。
白髪の術師が、古い保守記録の束を抱えて立っている。
顔に見覚えがあった。
「ナザルさん」
「お久しぶりです」
半年前、この部屋で、出納補助術の黄ばんだ保守記録を出してくれた人である。
自分を書き換える術と半月付き合った相手を、いちばんよく知っている術師だった。
「イオくんが、跳躍詠唱をなくすと言ってきたとき、私は良いことだと思いました」
ナザルは記録の束を机の隅に置いた。
「半年前に、あなたがそう教えてくれたと思っていたので」
嫌な予感が、はっきりした輪郭を持ち始めた。
———
「まず、いま何が積まれているかを見ます」
私は術盤に、いまの状態を吐き出させた。
AIエージェント:「観測:この術式に割り当てられた術座は三百五十。うち三百四十一が、開いたまま塞がっています」
AIエージェント:「補足:塞がった術座のうち二百六には、書きかけの台帳記録が残っています」
イオが、椅子から半分立ち上がった。
「書きかけ、ですか」
「台帳に、途中まで書いて、途中でやめた記録です。数字は入っているが、確定していない」
私は、朝の講堂で配られた札を机に広げた。
古税務補助術式 第四改。
「第十四節を見てください。台帳へ記す。記せざれば第十六節へ飛べ」
「はい」
「第十六節は何ですか」
「筆を戻し、術座を空ける、です」
「あなたは、この改修で第十四節をどう書き直しましたか」
イオは、自分の書いた術式列を出した。
現代の書き方だった。
条件で分かれ、繰り返し、上から下へきれいに読める。
読める。
読めるのだが、失敗したときに何をするかが、どこにも書いていなかった。
「台帳へ記す。記せなければ、その札を飛ばして次の納付者へ進む……と、書きました」
「飛ばして進むと、書きかけの記録はどうなりますか」
沈黙が、十数える分ほど続いた。
「……残ります」
「術座は」
「開いたまま、です」
「そうです」
私は表示盤に、二本の線を引いた。
「あの術式には、道が二本あります。うまくいったときの道と、失敗したときの道。第十六節は、そのどちらからも必ず通る場所でした。跳躍詠唱は、失敗した札を、必ずそこへ運ぶための仕掛けだったんです」
「僕は、その跳躍を消しました」
「消しました。すると、失敗した札の行き先がなくなる」
イオは、自分の術式列を見つめていた。
「読みにくいものを消したつもりでした」
「読みにくかったのは本当です。あなたが読みにくいと思ったのは、正しい」
私は言った。
「読みにくさを消したとき、一緒に約束も消えた。それだけです」
———
出納局の記録を遡ると、数の勘定は単純だった。
字の潰れた札、番号の足りない札、破れた写し。
王都の納付者は数万人いるので、読めない札が一日に百七十ほど混ざる。
改修前は、そういう札が来るたび、術式は第十六節へ飛び、筆を戻し、術座を空けて、次へ進んでいた。
改修後は、飛ばなくなった。
一日に百七十。
二日で三百四十。
この術式に割り当てられた術座は、三百五十しかない。
最悪だ。
二日という数字は、誰にも狙われていない。
ただ、割り算がそうなっていただけである。
「還付が止まったのは、還付の術式が壊れたからではありません」
私は言った。
「机が埋まって、次の紙を置けなくなったからです」
「……直せますか」
「直せます。ただ、順番が大事です」
私は表示盤に手順を書いた。
いまやること
一、止める。これ以上、書きかけを増やさない
二、旧い術式に戻す。写しは残っています
三、書きかけを数え、監査の立ち会いで取り消し、術座を空ける
四、止まっていた還付を流す
五、改修は、そのあとで、最初からやり直す
「戻すんですか」
イオが聞いた。
「戻します。いまの目的は、あなたの改修を活かすことではなくて、市民の還付を出すことなので」
「戻せる状態を先に作ってから直す。それができていれば、二日ではなく二刻で済みました。次はそうしましょう」
「三番は、私が話を通します」
入口の脇から、女性の声がした。
出納局の担当官で、ミルカと名乗った。
「二百六件、勝手に消すわけにはいきません。監査を呼びます」
「お願いします。取り消したという記録も残してください。残っていないと、来年、同じ人がまた困ります」
ミルカは頷いて、すぐに部屋を出ていった。
こういう人がいる現場は、だいたい復旧する。
———
「ところで」
私は写しの束をめくった。
「この術式、誰が書いたんですか」
ナザルが保守記録の束をめくった。
半年前に見たのと同じ、黄ばんだ紙である。
「記録では、三代前の税務術師長です。十年前に引退されました。今は山奥で養蜂をされています」
「養蜂」
「蜂を飼っておられるそうです」
ルドーが、初めて口を開いた。
「良い引退だ」
良い引退である。
最悪だ。
良い引退の代償を、いま王都の窓口の列が払っている。
「魔文は届きますか」
「山の中腹までなら」
「では一通、送ってください。第十二節と第十六節について、書いた本人に聞きたいことがある、と」
「返事、来るでしょうか」
「来ないかもしれません。でも、聞ける相手が生きているうちに聞くのは、術式の保守で一番安い方法です」
———
差し戻しの作業を待つ間に、一つだけ確かめておきたいことがあった。
「イオさん。跳躍詠唱は有害だと、どこで習いましたか」
「学校の古典術式読解です」
イオは少し考えて、付け足した。
「でも、術務室でも聞きました。新人が最初に読む教材があって、そこに出納局の事例が載っています」
「見せてください」
イオが鞄から出したのは、薄い綴りだった。
表紙に術務室の判。
中身は、半年前のこの部屋の記録だった。
自分を書き換える術式。
術書に書いてある姿と、走る姿の食い違い。
観測して、仕様にして、作り直した半月の記録。
よくまとまっていた。
私が説明したことが、私が説明したより整理されて書いてある。
最後の頁に、締めの一行があった。
読めない術は、次の時代で人を泣かせる。
私が言った言葉である。
あの日、この部屋で言った。
そして、その脇に、別の筆で一行が書き足されていた。
字が違う。墨の色も違う。あとから足したものだと、見れば分かる。
よって、古い書き方は見つけ次第なくすこと。
部屋が、静かになった。
私が黙ったからである。
「……この一行は、私が言いました」
私は上の行を指した。
それから、下の行を指した。
「この一行は、私は言っていません」
誰が足したのかは、書いていなかった。
悪意で足したのでもないだろう。
たぶん、親切で足したのだ。
結論だけを書いておけば、新人が読みやすいと思って。
「先生」
ルドーが言った。
「はい」
「読みやすいな」
「読みやすいです」
読みやすい。
そして、間違っている。
最悪だ。
———
私は表示盤を借りて、線を一本引いた。
左と右に、それぞれ言葉を書く。
読めない術 読みにくい術
「半年前にこの部屋で直した術は、左です」
私は左を指した。
「術書に書いてある姿と、走っている姿が違いました。読み方の問題ではなく、そもそも読めない。だから観測して、実際に走っている姿を仕様にして、作り直すしかなかった」
「跳躍詠唱は、右です」
私は右を指した。
「書いてある姿と、走る姿は同じです。第七節へ飛べと書いてあれば、第七節へ飛ぶ。嘘はついていない。追いかけるのが面倒なだけです」
イオが、綴りと表示盤を見比べていた。
「読めないものは、読める形に作り直す。読みにくいものは、まず読む。──手順が、違います」
「あなたは、左の手順を、右に当てました」
私は言った。
「だから、読まずに消した」
イオは、しばらく何も言わなかった。
「……教材には、その違いは書いてありませんでした」
「書いてありません。私が言わなかったからです」
言う必要があると思わなかった。
当たり前だと思っていた。
当たり前だと思っていることは、たいてい書かれない。
そして書かれなかったものは、次の人には存在しない。
ナザルが、低く言った。
「あのとき私は、名人の術を壊すことになりますか、と聞きました」
「覚えています」
「あなたは、名人が守ったものを次の時代でも守れる形に直すのだ、と言った。私はそれで納得しました」
「はい」
「それが、半年でこうなりました」
責める口調ではなかった。
それが、いっそう効いた。
———
旧い術式への差し戻しが終わり、書きかけの取り消しが始まったところで、私は表示盤に戻った。
「では、本題です。跳躍詠唱をどうするか」
イオが身構えた。
たぶん、禁止令が出ると思ったのだろう。
「先に言っておくと、跳躍詠唱は禁止しません」
「え」
「分けます」
表示盤に書く。
跳躍詠唱の三つの型
一、癖で跳んでいるもの
二、後始末を一か所に集めるためのもの
三、昔の術盤の狭さを回避するためのもの
「一番は、第七節と第八節です」
私は札を指した。
「第九節へ飛ぶだけ。第六節へ戻るだけ。跳んでいる理由が、単に昔の癖です。これは現代の書き方に直した方がいい」
「二番は、第二節と第十四節。今回あなたが消したものです」
私は言った。
「これは雑に消すと危ないです。失敗したときに、必ず片付けるための跳躍だから。消してよいのは、どの道を通っても最後に後始末節を通る、という仕掛けを先に作った場合だけです」
「三番は、第十二節」
丸めの作法、旧王城式。
午前中の講堂で、記憶晶が小さかったころの工夫だと説明したところである。
「昔の術盤の狭さを回避する跳躍です。今見ると読みにくい。でも当時は、こうしないと動かなかった」
イオが、自分の術式列を確かめて、青くなった。
「僕、そこ……現代の丸め方に、書き換えました」
「知っています」
私は言った。
「そこを聞きたくて、養蜂の人に魔文を出しました」
———
差し戻した旧い術式と、イオの書いた新しい術式を、影の術盤に並べて置いた。
同じ入力を、両方に流す。
結果を並べて、差だけを見る。
並走試験である。
基幹記録庫の移し替えのときに、さんざんやったやり方だった。
差は、すぐに出た。
AIエージェント:「観測:減免ありの案件で、還付額が一枚ずれています」
AIエージェント:「補足:ずれの向きは常に同じ。旧い術式の方が、市民に一枚多く返しています」
「銅貨一枚です。一件につき」
「……そんなの、誰も気づきません」
「気づきません。だから怖いんです」
私はミルカの方を見た。
「出納局に、旧王城式の丸めについての決まりは残っていますか」
「あります」
ミルカは即答した。
「税の端数は、市民に有利な側へ丸める。二百年前の勅令です。廃止された記録はありません」
部屋が、静かになった。
「第十二節は、記憶晶を節約するための共通の節でした。それは本当です」
私は言った。
「ですが、その節の中に、法が入っていました。狭さを回避するための跳躍が、いつのまにか、決まりを一か所に置いておく場所にもなっていた」
「読みにくい書き方をした理由と、その書き方が守っているものは、別です」
「……僕は、気づかないまま、王都じゅうの市民から一枚ずつ取るところでした」
イオの声が震えた。
「取っていません。止まったので」
私は言った。
「止まったおかげで、見つかりました。全部うまく動いていたら、誰も見ませんでした」
慰めではない。
派手に壊れる事故は、静かに間違い続ける処理より、ずっとましだ。
———
「あのね」
入口の椅子から、リゼが言った。
ずっと黙って聞いていた人の声だったので、部屋の全員が振り向いた。
「有害、って言い方が強すぎるのかもね」
リゼは、朝の講堂で配られた札を膝に置いていた。
「初めて習う人には分かりやすいけど、覚えたあともずっとそれだけ信じてると、考えなくなる」
「そう」
私は言った。
「強い言葉は、思考を始めるためにも使えるけど、思考を止めるためにも使える」
「たぶん、最初に『有害』と書いた人は、ちゃんと考えろと言いたかったんだと思う。でも百年経つと、考えなくていい合言葉になる」
リゼは、少し不思議そうな顔をした。
「考えろ、という文章が、考えないために使われるのね」
「人間はすごいよ。どんな道具でも横着に使う」
そこでリゼは、机の上の薄い綴りを見た。
術務室の判が押された、新人用の教材である。
「ねえ。あれ、半年前でしょう」
「半年前だ」
「半年前の言葉が、もう合言葉になってるのね」
私は、少し黙った。
「……百年かかると思ってた」
二百年前の論考を笑っていたのは、今日の午前中である。
題名を考えた人たちは暇だったのかとリゼが言い、真剣だったから怖いのだと私が答えた。
その半日後に、自分の言葉が同じ形に固まっているのを見た。
人類の速度を、私はまだ甘く見積もっている。
リゼは笑わなかった。
代わりに、イオの方を見た。
「あなた、悪くないと思う。習ったとおりにやったんだもの」
「でも、止めました」
「習ったとおりにやって止まるなら、習わせ方の方に穴があるんじゃない?」
リゼがそう言ったとき、ルドーが小さく息を吐いた。
———
「私は」
ルドーが、壁から背を離した。
「学生に、危険なものを危険だと教えたつもりだった」
ルドーの声は、いつもどおり短く、いつもより少し遅かった。
「だが、危険の理由を教えなければ、ただの禁忌になるのだな」
「禁忌は便利です」
私は言った。
「説明を省けるから。でも、運用には向きません」
ルドーは、机の上の綴りに目をやった。
「あの授業も、私が組んだ」
半年前の、自分を書き換える術式の授業である。
あの日の講堂で、この人は古い術書を閉じて、力ある技は人の理解を置き去りにする、と言った。
正しかった。
正しい言葉ほど、持ち運ばれるうちに角が取れて、丸い石になる。
「授業を組み直す」
ルドーは、それだけ言った。
この人が謝るところを見たことはない。
その代わり、次の授業の予定を変える。
それが、この人の謝り方なのだと思う。
———
夕方までに、還付は流れ始めた。
止まっていた札が順に処理され、通知札が出て、階段の列が短くなっていく。
窓口の職員が、初めて椅子に座った。
残ったのは、これからどうするかである。
私は表示盤に、最後の板を書いた。
継承術式安全改修手順
一、跳躍詠唱を見つけても、その場で消さない
二、まず制御の流れを図に起こす
三、正常の道、異常の道、後始末の道を分けて印をつける
四、いまの入力と出力を記録し、変えてはならない振る舞いを決める
五、いまの挙動を固定する試験札を、直す前に作る
六、影の術盤で新旧を並走させ、差だけを見る
七、型一から順に、少しずつ直す
八、型三は、先に術盤を新しくしてから触る
九、残す跳躍詠唱には、残す理由を書き添える
十、禁止ではなく、改めの対象とする
十一、改修後は、出納局、術務室、監査で確かめる
「一番から六番は、目新しいものではありません」
私は言った。
「半年前に、この部屋でやったことです。観測して、仕様にして、作り直す。あのときは、三つの言葉で足りました」
ナザルが、静かに頷いた。
「足りると、私も思っていました」
「足りませんでした」
私は言った。
「三つの言葉は、覚えやすい。覚えやすいものは、持ち運ばれるうちに一つに減ります。今回は、作り直す、だけが残りました」
だから十一まで増やす。
増やせば、覚えにくくなる。
覚えにくいものは、標語にならない。
それは欠点ではなく、この手順の設計である。
「名前も、ずいぶん役所くさいですね」
イオが言った。
「役所くさい名前は、役所で捨てられにくいです」
「十番が、一番大事です」
私は表示盤の十番を丸で囲った。
「禁止規則は、初心者を守る柵としては役に立ちます。でも、柵の意味を知らないまま大人が振り回すと、人を殴る棒になる」
「跳躍詠唱を消すことが目的じゃありません。未来の誰かが、安心して直せる状態にすることが目的です」
———
翌々日、山から魔文が届いた。
差出人は、三代前の税務術師長、ドラン。
本文は四行だった。
第十二節は法である。
第十六節は約束である。
あとは好きにせよ。
蜂が忙しい。
術盤室の全員で、しばらくその四行を見ていた。
「……手順の半分が、四行で書いてありますね」
イオが言った。
「二百年前から、分かっていたんです」
私は言った。
「分かっていた人が、書かずに山へ行っただけで」
「じゃあ最初から、その四行を術式に書いておいてほしかったわね」
リゼが、実に正しいことを言った。
その場の全員が頷いた。
二百年前の術師に届く手段はないが、届くなら全員で言いに行きたかった。
「九番です」
私は言った。
「残す跳躍詠唱には、残す理由を書き添える。ドランさんは、それを頭の中に持っていました。頭の中は、引退と一緒に山へ行きます」
イオが、写しの第十二節の脇に、小さく書き込んだ。
この節は法である。旧王城式の丸めは勅令による。消すな。
「これでいいですか」
「いいです。あと二百年もちます」
それから私は、術務室の教材を借りた。
最後の頁の、書き足された一行。
よって、古い書き方は見つけ次第なくすこと。
消さなかった。
消すと、誰かが同じことを書き足す。
代わりに、その下へ二行足した。
読みにくい術と、読めない術は、別のものである。
どちらなのかを確かめる前に、消してはならない。
「上の行、残すんですか」
イオが聞いた。
「残します。これを書いた人は、間違ってはいますが、真面目です」
私は綴りを閉じた。
「真面目な人の書いたものを黙って消すと、その人は同じことをもう一度書きます。今度は、誰も見ていないところで」
———
「あの」
帰り際、イオが追ってきた。
「じゃあ、跳躍詠唱は悪ではないんですね」
「悪ではない」
私は言った。
「ただ、何も考えずに使うと、未来の誰かを殴る」
「で、何も考えずに禁止しても、やっぱり未来の誰かを殴る」
リゼが横から言った。
イオが、困った顔で笑った。
「つまり、有害なのは、考えないことか」
ルドーが言った。
「だいたいの事故は、そこに帰ってきますね」
私は言った。
この結論は、身も蓋もないが、何度でも戻ってくる。
技術が変わっても、事故の一番深いところは、いつも同じ場所にある。
「イオさん」
私は振り返った。
「改修は、やめないでください。あの術式は、いつか誰かが直さないといけません。ただ、今度は手順に従って、時間をかけて」
「……はい」
「あと、あなたが今回見つけた銅貨一枚は、たぶん、二百年で一番大きな発見です」
イオは、少し泣きそうな顔をして、それから、深く頭を下げた。
———
五日後の講堂は、いつもの授業だった。
古典術式読解。
ルドーが表示盤の前に立ち、学生たちが綴りを開いている。
リゼも、いつもの席にいる。
「先週の続きだ」
ルドーは、表示盤に前回の題名を並べて書いた。
『跳躍詠唱、有害とみなされる』
『「跳躍詠唱、有害とみなされる」有害とみなされる』
「この科目には、今学期から一節加わる。跳躍詠唱がなぜ危険か、その理由を三つの型に分けて説明できること。理由を説明できない者には、消させん」
「もう一節。読めない術と、読みにくい術を、見分けられること」
ルドーは、半年前の板書のあたりを、指で軽く叩いた。
そこにはもう何も書かれていないが、この講堂にいた人間には分かる。
「同じ顔をして、直し方が違う。間違えると、王都の税が止まる」
学生たちが、綴りに書き込む音がした。
「最後に、来学期の題材を書いておく」
ルドーは、その下に新しい題名を書いた。
『強い言葉、有害とみなされる』
講堂が、どっと笑った。
「先生、それ、また同じことになりませんか」
前の方の学生が言った。
「なるだろうな」
ルドーは平然としていた。
「どうせまた、誰かが返歌を書きます。強い言葉を禁じるなら、弱い言葉だけで書けばいい、とか言って」
この前の授業で、招来詠唱の話に笑っていた学生である。
「そして、招来詠唱みたいに、もっとひどいのを作るんです」
「作るだろうな」
ルドーは、少しも困っていなかった。
「その題名、また百年後に揉めますよ」
私が言うと、ルドーは初めて、ほんの少しだけ笑った。
「揉めればいい。揉めているうちは、考えている」
百年もつかどうかは、あまり自信がない。
半年で固まるのを、今週見たばかりである。
———
帰り道、西日が長かった。
王都の通りから、屋台の骨組みはすっかり消えていた。
終わったことに誰も気づかない仕事というのは、そういうものだ。
「ねえ」
リゼが言った。
「あの術式、結局どうなるの」
「五年か、十年かけて、少しずつ直る」
「長いね」
「二百年動いてたものだからな。二日で直せる方がおかしい」
リゼは頷いて、それから、ふと思い出したように言った。
「養蜂の人、蜂が忙しいって書いてたけど。あれ、本当に忙しかったのかな」
「たぶん、半分は面倒だったんだと思う」
私がそう言うと、リゼは声を出して笑った。
「じゃあ、あなたも引退したらそう書くのね」
「そう書ける仕事の残し方をする」
残す跳躍詠唱には、残す理由を書き添える。
それは要するに、自分がいなくなったあとの誰かに、短い手紙を残しておくということである。
四行でいい。
できれば、蜂が忙しくなる前に。




