第175話 跳躍詠唱、有害とみなされる
生誕祭が終わった王都は、少しだけ気の抜けた顔をしている。
大通りには、まだ屋台の骨組みが残っていた。
立てるのに二日、片付けるのに一週間。
だいたいのものは、そういう配分でできている。
朝の食卓に、見慣れない綴りが置いてあった。
厚い。
表紙に、几帳面な字でこう書いてある。
古典術式読解
「今日から、これ」
リゼがパンに手を伸ばしながら言った。
「必修か」
「必修。三年で一番、評判の悪い科目」
「そんなに嫌われてるのか」
「読めても嬉しくないんですって」
なるほど、と思った。
嬉しくならない技能を教える科目は、どの世界でも人気がない。
「どういう授業なんだ」
「古い術式を読むの。二百年前とか、そのくらいの」
「古文みたいなものか」
「近いけど、もっとひどいって聞いた」
リゼは少し考えて、言い直した。
「お祖母ちゃんの料理帳みたいな感じかな。字が崩れてて、分量が『適当』としか書いてなくて、途中で『あとはいつもの』って飛ぶやつ」
「それだ」
私は茶を注ぎながら頷いた。
「ただし、その料理帳のとおりに、いまも王都じゅうの飯が炊かれている」
リゼの手が止まった。
「……それ、けっこう怖い話じゃない?」
「怖い話だ」
だから授業になっている。
嬉しくない技能というのは、たいてい、誰かが引き受けないと社会が止まる技能である。
———
講堂は、休み明けの空気だった。
生誕祭の余韻がまだ抜けきっていない。
あくびが二つ、後ろの方で連鎖している。
リゼは学生の列に混ざって座り、綴りを開いた。
私は壁際に立っている。
ルドーが表示盤に、二つの語を書いた。
古典術式読解:跳躍詠唱
講堂に、はっきりと分かるかたちで、げんなりした空気が広がった。
声には出さない。
声に出さない不満というのは、だいたい正直である。
「顔に出ているぞ」
ルドーが振り返らずに言った。
「では聞く。なぜこの科目がある」
最前列の学生が、おそるおそる手を挙げた。
「……教養、でしょうか」
「違う」
ルドーは表示盤を指で叩いた。
「諸君らが卒業後に触れる術式のすべてが、現代的に美しく書かれているとは限らない。王城、税務、土地台帳、教会の記録、水路制御。そこには百年前、二百年前の考え方が、今も残っている」
「動いているからだ。動いているものは、誰も書き直さん」
講堂が、少し静かになった。
「読めなければ、直せん。直せなければ、止まったときに何もできん。──以上が、この科目がある理由だ」
ルドーは表示盤に、この科目で扱うものを並べた。
古典術式に残っているもの
一、跳躍詠唱
二、自ら書き換わる術式
三、暗黙に決まる初めの値
四、共有記憶晶への直接書き込み
五、失敗したときだけ末尾へ飛ぶ後始末
六、術者の作法に頼った省略記法
七、古い術盤でしか意味を持たない命令
八、なぜ動いているのか誰にも分からないが、止めると業務が死ぬ処理
「先生。八番は何ですか」
「八番は、諸君らが卒業したあとの話だ」
講堂が笑い、それから笑いが引いた。
冗談に聞こえないと気づくのに、ちょうどそのくらいの時間がかかる。
「二番は、半年前にやった。覚えているな」
講堂の空気が、目に見えて変わった。
覚えている顔と、思い出したくない顔が半々である。
リゼが、綴りの上に指を置いたまま小声で言った。
「あれ、怖かった」
「怖かったな」
術が、動いている途中で自分の術式列を書き換える。
術書に書いてある姿と、走っている姿が違う。
あの授業のすぐあと、私は王城出納局へ呼ばれて、その実物と半月ほど付き合うことになった。
「二番は、読めない術の話だった」
ルドーは表示盤の一番を丸で囲んだ。
「今日は、読める術の話をする。読めるのに、追えない術だ」
嫌われ科目の説明としては、ずいぶん誠実だと思った。
教養ではなく、社会基盤の保守要員を作る授業だと、最初に言っている。
———
ルドーが、写しの束を配らせた。
薄い札が一枚。
表題には、こうある。
古税務補助術式 第四改
「王城出納局で、いまも動いている術式だ。読め」
講堂に、紙の擦れる音が広がった。
そして、三十を数えるほどの間があって、あちこちで唸り声が上がった。
札には、こう書いてあった。
第一節 筆を執り、術座を開く
第二節 納付者の札を読む 読めざれば第十六節へ飛べ
第三節 納付額を数える
第四節 減免の条件を見る 該当せざれば第八節へ飛べ
第五節 減免率を引く
第六節 端数を丸める 丸め方は第十二節に従え
第七節 第九節へ飛べ
第八節 減免なしとして第六節へ戻れ
第九節 還付の要否を見る 要さざれば第十四節へ飛べ
第十節 還付額を数える
第十一節 第十四節へ飛べ
第十二節 丸めの作法(旧王城式) 済めば呼ばれた節へ戻れ
第十三節 (欠番)
第十四節 台帳へ記す 記せざれば第十六節へ飛べ
第十五節 通知札を作る
第十六節 筆を戻し、術座を空ける 終わり
十六節。
黒板の半分にも満たない長さである。
そして、読み終えた人間の顔が、全員おかしくなっていた。
「これ、術式というより迷路じゃない?」
リゼが札を持ち上げて、透かすように見た。
「迷路なら、まだ入口と出口があるだけ親切だよ」
近くの学生が、小さく笑った。
笑いごとではないのだが、笑うしかないというのは、正しい反応である。
ルドーが教壇を叩いた。
「なぜ読めん」
「字が古いからです」
「違う」
「節が多いからです」
「十六だ」
「長いからです」
「短い」
「難しい術だからです」
「簡単だ」
誤答の梯子が、四段で尽きた。
講堂が静かになる。
「ユウ」
「はい」
「読めるか」
「はい」
「はいは一回だ」
最悪だ。
休み明けの一発目にこれをやらされるのは、たぶん教育的な意図がある。
———
「読めない理由は、字でも長さでもありません」
表示盤の前に出て、私は言った。
「読むとき、皆さんの頭の中で三つ数えているものがあります。それを書きます」
表示盤に書く。
術式を読むとき、頭の中で数えているもの
一、いま自分がどの節にいるか
二、ここまでに何が済んでいるか
三、まだ片付けていないものが何か
「上から順に読める術式なら、この三つは勝手に揃います。一行下がるたび、済んだことが一つ増える。それだけです」
「跳躍詠唱があると、一番だけが飛びます」
私は札の第七節を指した。
「第七節から第九節へ飛ぶ。いま自分がどこにいるかは、すぐ分かります。ですが、二番と三番は、飛んでいる間に置き去りになる」
「第六節を通ってきたのか、通っていないのか。第五節の減免は引いたのか、引いていないのか。第一節で開いた術座は、まだ開いたままなのか」
「それが、どこにも書いていません」
講堂の学生が、札に指を這わせ始めた。
みんな、第一節から順に指でたどっている。
そして、第八節あたりで指が戻り、第十二節で止まり、行き場を失っている。
「要するに、術式の強さじゃなくて、読む人間の頭の限界の話なんです」
これは魔法の限界ではない。
人間の頭が、一度に数えていられるものの数の限界である。
千年経っても、たぶん増えない。
ふと思いついて、携帯術盤に声をかけた。
「この術式、全部の節に行ける?」
AIエージェント:「観測:第十三節へ到達する経路がありません」
AIエージェント:「補足:欠番と記されていますが、術式列には十七行ぶんの記述が残っています」
講堂がざわついた。
「……誰も呼ばない節が、十七行ぶん、生きたまま残っている」
「消してよいのでは」
誰かが言った。
「その判断が、今日の授業では一番難しいところです」
私は言った。
「誰も呼ばないなら、消しても何も起きない。ただしそれは、本当に誰も呼んでいない場合の話です。誰が呼ぶかは、この札の中だけを見ても分かりません」
「別の術式から呼ばれていたら?」
リゼが顔を上げた。
「その瞬間、行政が止まる」
講堂が、今度は静かにざわついた。
———
ルドーが表示盤を引き取った。
「この読みにくさは、昔から問題にされてきた。有名な論考がある」
ルドーが書いた題名は、簡潔だった。
『跳躍詠唱、有害とみなされる』
「二百年ほど前のものだ。短い。だが、術式の書き方を変えた」
ルドーは、その主張を並べた。
一、跳躍詠唱を多用すると、術式の流れを頭の中で追えなくなる
二、ある時点で、何が済み、何が未処理で、どの後始末が必要かが分からなくなる
三、術式が正しいことを、書いた本人にも確かめられなくなる
四、初学者が真似ると、保守できない術式が量産される
五、術式は、順に進み、条件で分かれ、必要なだけ繰り返す。その三つで書くべきである
「以後、術語のほとんどがこの五番に従って作られた。諸君らが習う現代術式は、この論考の子孫だ」
学生の一人が、大きく頷いた。
「確かに、飛びまくる術式は読めません」
別の学生が、手を挙げた。
後ろの方の、慎重そうな学生だった。
「でも、短く書けるなら便利では? この札、十六節しかありません」
いい質問だった。
ここで「便利ではない」と答えるのが、一番簡単で、一番間違っている。
「当時の小さな術盤では」
ルドーが、意外にも穏やかに言った。
「跳躍詠唱でなければ、動かせなかった術式もある」
私は札の第十二節を指した。
「これを見てください。丸めの作法、旧王城式。第六節から呼ばれて、済んだら呼ばれた節へ戻る」
「なぜこんな書き方をするのか。丸めの手順を、第六節にそのまま書けばいいはずです」
「……術座が足りなかった、ということですか」
慎重そうな学生が言った。
私は少し嬉しくなった。
「そうです。二百年前の術盤の記憶晶は、いまの千分の一もありません。しかも同じ丸めの手順は、この術式だけでなく、王城の帳簿を扱う術式が何本も使います。それぞれに書き写す余裕がなかった。だから一か所に置いて、必要なところから飛んで、戻る」
「読みにくいです。読みにくいですが、当時は、こうしないと動かなかった」
講堂が静かになった。
「悪いのは、跳ぶことそのものじゃない」
私は言った。
「跳んだ結果、誰にも流れが追えなくなることです」
私は札を持ち上げた。
「古い術式は、だいたい汚いです。でも、汚いものには、汚くなった理由があります。そこを読まずに綺麗にすると、よく壊れます」
言いながら、少し引っかかった。
半年前、私は出納局で、ほとんど逆のことを言った。
読めない術を、そのまま残してはいけない、と。
どちらも本当である。
ただ、本当のことが二つあるとき、人はたいてい、覚えやすい方だけを持って帰る。
———
「ところで」
ルドーが表示盤に戻った。
妙に楽しそうな顔をしている。
この人が楽しそうなときは、たいてい話が変な方向へ行く。
「この論考には、続きがある」
ルドーが書いた。
『「跳躍詠唱、有害とみなされる」有害とみなされる』
講堂が、一拍おいてざわついた。
「四十年後に出た反論だ。強い言葉で禁じたせいで、術師が理由を考えなくなった、という主張だな」
ルドーは、さらに書いた。
『「『跳躍詠唱、有害とみなされる』有害とみなされる」有害とみなされるか?』
講堂が、はっきり笑った。
「その反論への反論だ」
「先生。最後だけ、疑問符が付いています」
「付いているな」
ルドーは、その疑問符を丸で囲んだ。
「三つ目を書いた術師は、たぶん自信がなくなったんです」
私は言った。
「同じ形で三度も殴り合うと、自分がいま何を言い返しているのか分からなくなる。あの疑問符は、白旗です」
「以後、この形式は術師の間で流行した。『縮め書き、有害とみなされる』『共有記憶晶、有害とみなされる』『論争、有害とみなされる』」
「先生」
リゼが手を挙げた。
「題名を考えた人たち、暇だったの?」
「暇ではなかったと思う」
私は言った。
「たぶん真剣だった。そこが一番怖い」
講堂が笑った。
笑いながら、何人かの学生が、自分の綴りに題名を書き写している。
二百年前と同じ形の流行が、いま目の前で再生産されているのを見た気がして、少し嫌な気持ちになった。
———
「この論争には、一つだけ、毛色の違う返歌がある」
ルドーが表示盤に、また別の題名を書いた。
今度は、有害とみなされる、が付いていない。
『跳躍詠唱を捨てる、真に有害でない方法について』
「穏やかな題名ですね」
「中身は穏やかではない」
ルドーは私を見た。
説明しろ、という目である。
「これを書いた術師は、こう考えました。跳躍詠唱が有害なのは、術式が勝手に別の節へ飛ぶからだ。ならば──飛ぶのをやめさせればいい」
「禁止ですか」
「逆です。飛ばれる側が、飛ぶ側を、呼ぶ」
講堂が、意味を測りかねて静かになった。
私は表示盤に、二つの書き方を並べた。
跳躍詠唱
第三節 ……済んだら第七節へ飛べ
招来詠唱
第三節 ……(何も書かない)
第七節 第三節を済ませた者は、ここへ来い
「跳躍詠唱は、飛ぶ側の第三節に、行き先が書いてあります。第七節へ飛べ、と。読めば、ここから何かが出ていくと分かる」
「招来詠唱は、第三節に何も書きません。代わりに、遠くの第七節が、こっそり言うんです。第三節を済ませた者は、ここへ来い、と」
リゼが、綴りから顔を上げた。
「……第三節を読んでる人は、どうなるの」
「何も知りません。自分は、そのまま第三節の続きへ進むと思っている。ところが、心当たりのない場所から手が伸びて、第七節へ連れ去られる」
講堂が、ぞわりとした。
「朝、頭の中で三つ数える、という話をしました。いま自分がどの節にいるか。何が済んだか。何が未処理か」
私は表示盤の一番を指した。
「跳躍詠唱は、二番と三番を奪いました。でも、一番だけは残していた。飛ぶ本人が、飛ぶと名乗るからです」
「招来詠唱は、その一番も奪います。自分がどこへ行くのか、読んでいる本人にすら分からない」
「怖っ」
リゼが短く言った。
「怖いです。しかも、これを真面目に提案した人がいます」
「半分は冗談だ」
ルドーが言った。
「残りの半分が、こわいんです」
講堂が、今度は乾いた笑いになった。
「誰も、招来詠唱を本当には作りませんでした。作る必要がなかった。この返歌が言いたかったのは、招来詠唱の便利さではないので」
私は表示盤の、有害とみなされる、の題名たちを指した。
「有害だと名指しして禁じれば済む、と思うな。禁じられた側は、その気になれば、もっと読めないものを平気で作れる。──それを、一番わざとらしい形で見せたのが、この返歌です」
ルドーが、珍しく長く頷いた。
「禁令は、賢い者を止められん」
「はい。賢い者は、禁令の外側に、もっとひどいものを建てられます」
———
「まとめる」
ルドーが表示盤を叩いた。
「古典術式は汚い。汚いが、動いている。読め。以上だ」
「……先生、それ、この授業の要約として乱暴すぎませんか」
「乱暴でないと、誰も覚えん」
それはそうだ、と思ってしまった自分が、少し悔しい。
———
片付けの音の中で、携帯術盤が短く震えた。
魔文が一通。
差出人は、王都術務室。
本文は、こうだった。
王城出納局の古税務補助術式で障害。
二日前から、還付処理が止まっています。
通知札も出ていません。
改修作業の直後です。至急ご確認願います。
最悪だ。
私は、いま配られたばかりの札を見た。
古税務補助術式 第四改。
朝、講堂に配られた術式が、その日の午後には障害の中心にいる。
そして、王城出納局。
半年前、自分を書き換える術と半月付き合った、あの部屋である。
「先生」
「読んだ」
ルドーが、私の手元を覗き込んでいた。
「改修作業の直後、と書いてありますね」
「書いてあるな」
誰かが、この術式を直そうとした。
そして、たぶん、正しい理由で直そうとした。
「学校で習ったのかな」
リゼが、隣で綴りを閉じながら言った。
「跳躍詠唱は有害です、って」
その一言で、だいたいの見当がついてしまった。
見当がつくというのは、いい気分ではない。
私は、表示盤に残った題名を見た。
『跳躍詠唱、有害とみなされる』
「……有害なのは、跳躍詠唱だけじゃないかもしれないな」
「現場は待たん」
ルドーが上着を取った。
「行くぞ」
「先生も来るんですか」
「私が教えた」
短い言葉だった。
この人が責任を取らないのは有名だが、教えたものについては別らしい。
リゼが立ち上がって、綴りを鞄に入れた。
「私も行く。授業、聞いてたし」
「重い話になるかもしれない」
「じゃあ、なおさら」
リゼは真面目な顔でそう言って、それから少しだけ笑った。
「それに、こういうの、あとで家で聞かされるより、その場で見た方が早いのよ」
返す言葉がなかった。
最悪だ。だいたい合っている。




