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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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172/258

第172話 壊れない記録、壊れる信用

 翌朝の商務院は、紙の匂いがした。


 昨日と同じ会議室。

 昨日と同じ顔ぶれ。

 ただ、机の上の紙だけが、一晩で倍になっていた。


 紙が増える速度は、だいたい事故の深刻さに比例する。

 最悪だ。


 千年証明社の二人は、あまり眠っていない顔をしていた。

 眠れた方がおかしい。


「はじめましょう」


 私は表示盤の前に立ち、縦に一本、線を引いた。


「最初に、できることと、できないことを分けます」


 代表が顔を上げた。


「消せないものを『消しました』と言うのが、一番やってはいけないことです。だから先に、何ができないのかを、全員で確定させます」


 線の左側に書く。


 できること


 群晶保存網の主要な門番へ、参照の遮断を依頼する

 王国内で写しを持つ記憶晶へ、削除と非保持を要請する

 検索の索引から外す

 連鎖公証台帳に、無効化の記録を追加する

 関係する認証の鍵を、すべて交換する

 開発用保管庫を棚卸しし、本番記録の混入を洗い出す

 似た経緯の文書が他にないか探す

 利用者へ通知する

 監督側へ報告する


 線の右側に書く。


 できないこと


 台帳に刻まれた過去の記録そのものを消す

 世界中の記憶晶から、写しを確実に消す

 すでに取り出された文書を、取り戻す

 「完全に削除しました」と言い切る


 書き終えて、振り返る。


「左は、今日から全部やります。右は、どれだけ費用をかけても、できません」


 会議室が静かになった。

 できないことを最初に言われる会議は、珍しい。

 だが、できないことを最後に知らされる会議よりは、ずっとましだ。


「一つ、確認しておきます」


 私は左の欄を指した。


「開発用保管庫の棚卸しには、自動で試験をする仕組みや、文章を作る変換器の類が、実記録を参照していないかの確認も含めます。混入は、一箇所で見つかったら、他にもあると考えるべきです」


 開発責任者が、深く頷いた。

 昨日より、頷き方に迷いがなかった。


———

 代表が、おそるおそる手を挙げた。


「あの……台帳に、上書きはできないのですか。あれは誤りでした、と書き直すことは」


「連鎖公証台帳では、過去は上書きしません。後ろに、新しい記録を足すだけです」


 私は表示盤に、頁のつながりを描いた。

 一枚、一枚、鎖のように。


「『この記録は無効である』という札を、新しい頁に刻むことはできます。台帳を読む者は、元の記録と無効化の記録を突き合わせて、これはもう有効ではない、と判断できます」


「では、それで」


「元の記録は、消えません。無効という注釈が付くだけです」


 壁際で、ルドーが言った。


「歴史を消すのではなく、歴史に注釈を付けるのだな」


「そうです。だから、最初に刻む内容が重要なんです」


 注釈は、誤りを誤りだと示せる。

 だが、誤りを無かったことにはできない。

 人類の歴史書と、だいたい同じである。


———

「では、何なら刻んでよかったんですか」


 開発責任者が、初めて自分から口を開いた。

 技術者の質問だった。

 昨日までの言い訳より、ずっといい。


 私は表示盤の新しい面に、二つの欄を書いた。


 刻んでよい可能性があるもの


 文書の照合印

 公開が前提の証明番号

 公開されても困らない取引の番号

 署名

 個人に結びつかない集計の値


 刻んではいけないもの


 氏名

 住所

 連絡先

 契約番号

 口座の番号

 支払いの明細

 後から削除を求められうるもの、すべて


「分け方の芯は、一つです」


 私は右の欄を指した。


「いつか誰かが『消してほしい』と言うかもしれないものは、消せない場所に置かない。それだけです」


 マリエが、静かに付け足した。


「住所、病歴、未成年の記録、私的な画像。そういうものが刻まれたら、今回どころでは済まないわ」


 それ以上は、誰も続けなかった。

 続けない方がいい想像は、ある。


———

「ですが、それでは、証明の商売そのものが成り立たないのでは」


 代表が言った。


「成り立ちます。置き場所を分ければ」


 私は図を描いた。

 中央に台帳。

 その外側に、鍵のかかった保管庫。


「原本は、削除できる、管理された保管庫に置きます。台帳には、その文書がその刻に確かに存在したことを示す照合印だけを刻みます」


「照合印から、原本は戻せません。原本を持っている人だけが、照合印と突き合わせて、確かにこの文書だ、と証明できます。証明の力は残して、中身は台帳に載せない。これが分けるということです」


「原本への参照も、公開の台帳には不用意に載せません。今回のように、内容符号がそのまま原本を取り出す鍵になる場合は、特に危険です」


 私は照合印の字を、丸で囲んだ。


「一つ、注意があります。照合印なら何でも安全、ではありません。元の中身の候補が少ないとき──たとえば名簿のようなものは、候補を片っ端から試して、逆に引き当てられます。刻む前に、そこまで考える必要があります」


 開発責任者が、手元に書き取っていた。


「では……秘匿術をかけて載せるのは、どうですか。鍵を別に管理して、事故のときは鍵を捨てる」


「できます。鍵を破棄すれば、読めなくすることはできます」


 私は頷いた。


「ただし、それは『消した』とは違います。読めない記録が、残り続けます。それに、いま破れない封が、五十年後も破れないとは限りません。千年残る台帳に刻むなら、千年後の解錠まで考えることになります」


「千年……」


 代表が、自社の宣伝文句を、初めて別の顔で聞いていた。


———

 午後、王都術務室と商務院で、業界向けの指針を作ることになった。


 連鎖公証台帳を使う服務は、千年証明社だけではない。

 同じ穴は、たぶん王都中に掘られている。

 埋めるなら、全部まとめて埋める方がいい。


 私が技術の原則を出し、マリエがそれを制度の文に直す。


 表示盤に、順に書いた。


一、本番の記録を、開発用の保管庫に置かない

二、試験には、作り物の記録を使う

三、やむを得ず実記録を使うときは、個人に結びつかない形へ加工する

四、台帳へ刻む前に、個人の記録が混ざっていないか検める

五、群晶保存網に置くものは、公開されうる前提で分類する

六、内容符号を公開の台帳に刻むときは、その符号で何が取れるかを確認する

七、試験水路に、秘密や個人の記録の混入を検める札を組み込む

八、台帳への刻み込みには、二人の承認を要する

九、削除を求められうる記録は、不可逆の基盤に載せない

十、事故の際に、遮断、無効化、通知、報告を行う手順を、事前に持つ


 書き終えると、それは十行の、地味な一覧だった。

 派手な技術は一つもない。

 事故を防ぐ文書は、だいたい地味である。


「まとめると、一行です」


 私は言った。


「不可逆な仕組みには、不可逆になる前の門番が必要です」


 マリエが巻物に向かい、しばらく筆を動かした。


「ユウの言っていることを、事業者が逃げられない文にすると、こうなるわね」


 彼女は巻物を掲げた。


 削除請求の対象となりうる情報を、削除不能な公開基盤に記録してはならない


「法律の文になると、急に怖いですね」


「怖くしてるのよ」


 マリエは、にこりと笑った。

 この人の笑顔は、ときどき条文より怖い。


———

 夕方、千年証明社が、利用者向けの説明文の案を持ってきた。


 一枚目には、こう書いてあった。


 該当する記録は、削除いたしました。


「却下」


 マリエは、最後まで読む前に言った。


「ですが、門番への遮断依頼は済んでいます。王国内への削除要請も」


「あなたたちの言う『削除』と、利用者が読む『削除』は、違う言葉よ。書き直し」


 二枚目は、長い文になった。


 主要な参照経路を遮断し、王国内で写しを保持する記憶晶には削除の要請を行いました。

 しかし、連鎖公証台帳に刻まれた内容符号そのものは削除できず、外部に写しが保持されている可能性を、完全には否定できません。


 代表は、その紙を長いあいだ見ていた。


「……こんなことを書けば、利用者が離れます」


「書かなければ、もっと離れるわ」


 マリエは即答した。


「隠して、後から写しが出てきてごらんなさい。そのときに書くのは説明文ではなくて、廃業の告知よ」


 代表は、紙を置いた。

 置いて、頭を下げた。


「分かりました。この文で、出します」


「信頼は、事故を起こさないことで守るのが一番です」


 私は言った。


「でも、起こしてしまった後は、できないことをできると言わないことでしか、守れません」


 代表は、もう一度だけ頷いた。

 千年残る証明の会社は、その日、消せないことを正直に書いた王都で最初の会社になった。

 なりたかった種類の「最初」では、なかったと思うが。


———

 家に着くと、窓に灯りがあった。


 扉を開ける。

 スープの匂い。

 リゼが振り返った。


「おかえり。今日は、また大変だったみたいね」


「顔に出てるか」


「二日連続で出てる」


 私は上着を掛けて、椅子に座った。

 座ると、二日分の会議が、肩に遅れて降りてくる。


 夕食のあいだに、概要だけ話した。

 どこの会社かは言わない。

 誰の記録が漏れたかも言わない。

 消せない台帳に、消したい記録への道案内が刻まれてしまったこと。

 それだけを話した。


 リゼは匙を置いて、少し考えていた。


「その会社、全部の情報じゃないから大丈夫です、って言ったんでしょう」


「最初はね」


「全部の情報じゃないから大丈夫、って言われても……自分の名前が、知らない人たちの記憶晶に残ってるかもしれないって、普通に怖いよ」


「うん。情報は、一つ一つが小さく見えても、組み合わさると意味を持つから」


 名前だけなら、ただの名前だ。

 でも、名前と契約番号と支払い先が並べば、それはその人の生活の輪郭になる。


「ねえ、ユウ」


「うん」


「消せないって、便利なことだと思ってた」


「便利だよ。契約や証明が、後から勝手に変えられないのは、大きな力だ」


「でも、間違えたら?」


「間違いも残る」


 リゼは、湯気の向こうで少し目を伏せた。


「魔法が便利になると、失敗も長生きするのね」


「うん。だから、忘れ方も設計しないといけない」


「忘れ方を、設計する」


 リゼが、言葉を確かめるように繰り返した。


「覚えることは、みんな一生懸命考えるんだ。千年残る証明、みたいに。でも、忘れることは、誰も設計しない。忘れるのは、失敗だと思われてるから」


 私は椀の底に残ったスープを見た。


「情報工学は、記憶するためだけの技術じゃない。忘れていいものを、ちゃんと忘れられるようにする技術でもあるんだと思う」


 リゼは、少しのあいだ黙っていた。

 それから、笑った。


「それ、ユウらしいね」


 鍋の湯気が、細く天井へ上っていった。

 上って、消えた。

 湯気は、消えることができる。


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