第171話 消せない台帳に刻まれた名前
朝の市場は、乾いた音でできていた。
木箱を積む音。
銅貨を数える音。
呼び売りの声。
その声の合間に、最近よく聞く言葉が混ざる。
「来歴つきだよ。台帳で確かめられる」
果物屋の主人が、小さな札を客へ見せていた。
南方から来た蜜柑の箱に、証明の札が結んである。
札の印を携帯術盤でなぞると、産地と、摘んだ日と、運んだ商会の名が出る。
「ほら、嘘がつけない仕組みなんだと」
主人は自慢げだった。
客は半分も分かっていない顔で、それでも感心して蜜柑を買った。
人は、仕組みが分からなくても、嘘がつけないという言葉は分かる。
通りの角に、新しい看板が出ている。
千年残る証明を、あなたの商いに──千年証明社
この一年で、王都のあちこちで見るようになった看板だ。
継ぎ台帳。
参加者の全員が写しを持ち、継ぎ頁をつないでいく、中央のいない台帳。
ずいぶん前に、講堂で帳面を配って教えた仕組みだ。
あのころは、商人たちが「誰が台帳番をやるか」で揉めていた。
いまは、その揉め事ごと商売にする会社がある。
継ぎ台帳の仕組みを公の証明に使えるよう整えたものは、連鎖公証台帳と呼ばれるようになった。
契約を結んだ日時の証明。
支払いの証明。
学校の修了証明。
役所へ出す書類が本物であることの確認。
商品の来歴。
荷がどこを通ったかの記録。
どれも、後から書き換えられないことが値打ちになる仕事だ。
教えた仕組みが社会に根を張るのを見るのは、素直に嬉しい。
この時点では、私は本当にそう思っていた。
———
術務室に着くと、部屋の空気がいつもより硬かった。
魔安対のカナメが、先に来て座っていた。
カナメが座っている朝は、だいたい良くない朝だ。
「千年証明社を、ご存じですか」
「看板なら、今朝も見ました」
「昨夜、報告が入りました」
カナメは書類を差し出した。
千年証明社の開発用術式保管庫が、外部から侵害された。
会社からの第一報の文面は、こうだった。
開発用保管庫にあった一部の文書が外部から閲覧された可能性があります。
該当の文書はすでに削除しました。
「よくある報告に見えますね」
私は言った。
開発用の保管庫が破られるのは、良いことではないが、珍しいことでもない。
削除して、鍵を替えて、影響範囲を調べて、必要なら利用者へ知らせる。
やることは決まっている。
「魔安対も、最初はそう考えました」
カナメは、次の紙を出した。
「調べたら、違いました」
作り手が、術式の試験に、本番の利用者記録をそのまま使っていた。
利用者の氏名。
契約番号。
一部の支払い先。
取引の日時。
内部の通し番号。
証明書の発行履歴。
「本番の記録を、開発用の保管庫に置いたんですか」
「はい」
「それだけでも、かなりまずいです」
削除して、鍵を替えて、影響範囲を調べて──頭の中で手順を並べ直す。
並べ直しながら、嫌な予感がした。
カナメが、まだ紙を持っている。
「問題は、ここからです」
カナメは、最後の紙を机に置いた。
「その文書は、群晶保存網に置かれていました。そして、その内容符号が、連鎖公証台帳に刻まれています」
部屋が、静かになった。
「……台帳に刻まれたのは、文書そのものですか。参照ですか」
「参照です。ただし、参照先の群晶保存網に、写しを持っている記憶晶が複数あるようです」
私は、しばらく黙った。
黙って、手順の並べ直しをやめた。
削除して、鍵を替えて、影響範囲を調べて。
その最初の一つが、この事故には存在しない。
「それ、漏えいというより、出版に近いです」
———
商務院へ向かう道すがら、私は書類を読み直していた。
群晶保存網。
文書を一つの保管庫に置くのではなく、多数の記憶晶が写しを持ち合う保存網だ。
文書の中身から内容符号という呼び名が作られ、それを知っていれば、写しを持つどの記憶晶からでも取り出せる。
置き場所ではなく、中身で引く。
だから、写しがどこへ増えても、同じものが取れる。
便利な仕組みである。
消さなくていいものにとっては。
AIエージェント:「観測:報告書には『該当の文書はすでに削除しました』とあります。削除されたのは開発用保管庫の一箇所のみです」
「分かってる」
AIエージェント:「補足:内容符号が公開の台帳に刻まれた時点で、原本の所在は事実上公開されています。削除という語の使用は不正確です」
「分かってる。これからそれを、削除したと信じている人たちに説明しに行くんだ」
AIエージェント:「提案:比喩の使用を推奨します。人類は正確な説明より比喩を好みます」
「黙れ」
最悪だ。
こういうときのこの相棒は、だいたい正しい。
———
商務院の会議室には、もう人が集まっていた。
商務院の担当者。
消費者保護部門の役人。
魔安対のカナメと、部下が一人。
千年証明社の代表と、開発責任者。
壁際に、ルドー。
そして私。
千年証明社の二人は、若かった。
代表は三十を少し出たくらい。
開発責任者は、たぶん私とそう変わらない。
急に大きくなった会社の顔ぶれというのは、だいたいこうなる。
「まず、状況を整理させてください」
私は表示盤の前に立った。
「今回の事故は、三段に分けて考える必要があります。普通の漏えいなら一段目で済みました。今回は、三段目です」
表示盤に書く。
普通の保管庫の漏えい
「保管庫から記録を消せます。鍵を替えられます。誰がいつ触ったか、記録札を調べられます。被害を受けた方への通知と、再発防止ができます」
「完全ではありません。すでに写しを取られていれば、それは戻りません。それでも、削除に向けた努力ができます」
開発用の履歴付き保管庫の漏えい
「開発用の保管庫は、変更の履歴を持っています。表から消したつもりでも、履歴の中に残ります。履歴ごと掃除する必要があって、面倒です。ですが、できなくはありません」
連鎖公証台帳と群晶保存網
「今回は、これです」
私は、少し間を置いた。
「台帳に刻まれた内容符号は、消せません。群晶保存網に写しが一つでも残っている限り、その符号から原本を取り出せる可能性があります。そして、誰が写しを持っているかは、完全には分かりません」
「つまり」
商務院の担当者が言った。
「削除は、できないと」
「『完全に削除した』とは、誰にも言えません」
壁際で、ルドーが口を開いた。
「継ぎ台帳の続きだな」
「はい」
「あのときお前は言った。改ざんされにくい。後から勝手に変えられない。だから信用の器になると」
「言いました」
「信頼を作るための仕組みが、信頼を壊しているのか」
「仕組みは壊れていません。入れてはいけないものを入れたんです」
———
千年証明社の代表が、身を乗り出した。
「お待ちください。台帳に刻んだのは内容符号だけです。氏名や契約番号そのものではありません」
来ると思っていた言葉だった。
この理屈は、事故を起こした側には、いつも魅力的に見える。
「その内容符号を使えば原本が取れるなら、実質的には原本への道案内です」
「しかし、符号は、ただの印の列で」
「宝の地図は、宝ではありません。でも、宝の地図を公開の掲示板に貼れば、宝は見つかります」
代表が、言葉に詰まった。
「では、群晶保存網の側から、原本を削除すれば……」
「主要な門番には、削除を依頼できます」
私は言った。
「王国内の大きな中継庫は、要請すれば応じるでしょう。ですが、群晶保存網には、管理者が一人いるわけではありません」
「普通の保管庫なら、管理者に削除を命じられます。群晶保存網は、そこが違います。誰かがどこかで写しを持ち続ければ、内容符号から復元される可能性が残り続けます」
開発責任者が、下を向いた。
この人は、たぶん、もう分かっている。
分かっていて、まだ分かっていない上司の隣に座っている。
組織の事故の席順は、だいたいこうなっている。
———
午後、消費者保護部門が一人を連れてきた。
マリエだった。
商務院の若い担当者が、不思議そうに聞いた。
「あの、記録庫更改の、進行管理の方では」
「ふっふふ。わたしは契約術務士の資格も持ってるのよっ」
マリエは胸を張った。
基幹記録庫の移行でも、幻獣の権利整理でも、通信社の補償でも、この人はこの登場の仕方をする。
この登場を見るのは、私はもう三度目である。
マリエは席に着き、資料を読み始めた。
読むほどに、顔が険しくなっていった。
読み終えると、資料を静かに置いて、私を見た。
「削除権と、削除できない台帳。契約術務士が聞きたくない言葉を、二つ並べないでくれる?」
「並べたのは、私ではありません」
「そうね。並べたのは──」
マリエは千年証明社の二人を見た。
二人が、少し小さくなった。
「論点を並べます」
マリエは巻物を広げた。
利用者への通知
監督側への報告
包括的情報保護規則との関係
削除請求への対応
補償の方針
業界全体の再発防止
「まず確認するわ。諸侯連合向けの利用者は、いる?」
「……います。連合の商会の、来歴証明を」
「なら、包括的情報保護規則が絡むわ。あちらには記録消し願い──自分に関する記録を消してほしい、と申し出る権利がある」
国内で閉じてすら、いない。
最悪だ。
マリエは一度、言葉を切った。
「法律は、消せと言う。でも技術は、消せないと言う。なら、最初からそこに置いてはいけなかった、という話になるわね」
「はい。これは事故のあとの対応だけではなく、設計の時点の失敗です」
私は表示盤の三段の図を見た。
「連鎖公証台帳は、過去を簡単に変えられないようにする仕組みです。だから、後から『なかったことにしたい』かもしれない情報を載せる場所では、そもそもありません」
———
夕方になっても、会議は終わらなかった。
千年証明社の代表は、何度目かの同じ場所へ戻ろうとしていた。
「では、利用者への通知は、どう書けば」
「完全削除は保証できない、と伝えるしかないわね」
マリエが言った。
代表の顔から、色が引いた。
「そんなことを、書くのですか。うちは、千年残る証明を売っている会社です。消せないことが売りの会社が、消せないことで謝るなど」
「そうね。皮肉だと思うわ」
「そんなことを公表すれば、会社の信用が……」
「消せないものを消したと言う方が、もっと信用を壊します」
私は言った。
代表は、私を見た。
すがるような目だった。
すがられても、ないものはない。
「……我々は、何を間違えたのでしょうか。台帳は、仕様どおりに動いています。保存網も、仕様どおりに動いています」
「はい。全部、仕様どおりです」
私は表示盤の隅に写された、短い印の列を見た。
人の名前と契約の記録へつながる、消せない道案内を。
「これは、連鎖公証台帳の事故ではありません。連鎖公証台帳に何を刻んでよいかを、誰も設計していなかった事故です」
窓の外で、日が落ちかけていた。
千年残る証明の会社の、一番長い一日は、まだ終わらない。




