第17話 止めないと、全部止まる
王城だの郵便局だの書記局だの、ろくでもない現場ばかり見たあとで学校に戻ると、教室の机が妙に平和に見える。
見えるだけだ。
実際には、ここも十分ろくでもない。
私は席につきながら、机の上に置かれた授業用の紙を裏返した。
何も書かれていない。嫌な予感しかしない。
リゼが隣で小さく言う。
「今日のルドー先生、ちょっと機嫌悪そう」
「いつも悪いだろ」
「今日は“静かに悪い”」
それは確かに危険だ。
教室の前に立つルドーは、いつも通り目つきが悪かった。
だが今日は、机の上に変なものを三つ並べている。
小さな灯火台。
細い口のついたガラス瓶。
宙に浮く金属の輪。
そして、その横に、これまた嫌な予感しかしない小さな鐘。
ルドーが言った。
「座れ」
教室が静まる。
ルドーは黒板に大きく書いた。
『止めないと、全部止まる』
なんだその禅問答みたいな文は。
生徒たちも同じことを思ったらしく、微妙な顔をしている。
ルドーは構わず続けた。
「今日は“同時にやる”の話だ」
教室の空気が少し変わる。
“同時に”という言葉には、誰でもちょっと惹かれる。万能っぽいからだ。
ルドーは机の上の三つを指した。
「これは全部、維持型の魔法装置だ。
灯火は火を保つ。
瓶は一定の間隔で水を落とす。
輪は回転を維持する」
灯火台の炎が小さく揺れている。
瓶の口からは、ぽたり、ぽたりと規則正しく水が落ちる。
金属の輪は、低く唸りながらゆっくり回っていた。
「どれも簡単だ。単体なら、お前らでもできる」
その言い方、地味に腹立つな。
ルドーは教室を見回した。
「では質問だ。
この三つを、一人で同時に維持できるか」
前の方の生徒がすぐに手を挙げた。
「できます!」
自信があってよろしい。死ぬタイプだ。
ルドーは頷く。
「いいだろう。前へ出ろ」
その生徒は嬉しそうに前に出た。
ルドーが三つの装置の前に立たせる。
「好きにやれ。三つとも止めるな」
「はい!」
元気がある。嫌な予感しかしない。
————
最初の十秒は、うまくいっているように見えた。
生徒はまず灯火に集中した。
炎が安定する。よし。
次に輪へ意識を移す。
回転も維持される。よし。
だが、その瞬間。
ぽたり、と落ちるはずの瓶の水が止まった。
「あっ」
生徒がそちらへ意識を向ける。
瓶を直す。水はまた落ち始める。
だが今度は、灯火が小さくなった。
「あっ」
火へ戻る。火は戻る。
輪が止まりかける。
「あっ」
教室の空気が、なんとも言えない感じになる。
見てる側は分かるのだ。あ、これダメだな、と。
生徒は額に汗を浮かべながら、三つの間で視線と手を忙しく動かした。
灯火。輪。瓶。灯火。瓶。輪。
そして、二十秒後。
輪が止まった。
さらに三秒後、灯火が消えた。
最後に、瓶の口から水が一気に落ちて、机を濡らした。
生徒が肩で息をする。
教室の後ろで、誰かが笑いそうになって咳払いで誤魔化した。
ルドーが冷たく言った。
「終わりか?」
「……終わりです」
「そうか。終わったな」
言い方がいちいち刺さる。
ルドーは黒板に書いた。
『一つずつなら簡単』
『全部まとめると死ぬ』
実に分かりやすい。
———
ルドーは次の生徒を呼んだ。
「お前はどうする」
今度の生徒は少し慎重そうな顔をしていた。
「順番に見ます。短く切り替えます」
「よし。やれ」
お、賢い。
私は少しだけ身を乗り出した。
その生徒は、確かにさっきよりうまかった。
灯火に一瞬。
輪に一瞬。
瓶に一瞬。
細かく切り替える。
全部、完全には安定しないが、全部が致命的には崩れない。
教室の空気が少し変わる。
“おっ、できるのでは”の空気だ。
だが、その空気は長く持たなかった。
輪の回転が少し乱れた瞬間、その生徒は輪に長く張りついた。
直したくなったのだろう。気持ちは分かる。
でも、その“あと少し”の間に、灯火が弱る。
瓶が止まる。
生徒は慌てて戻る。
全部を救おうとして、全部が中途半端になる。
最後は、やっぱり止まった。
ルドーが言う。
「何が起きた」
生徒が悔しそうに答える。
「……輪が乱れたので、そっちを優先しました」
「なぜ」
「あと少しで直りそうだったからです」
ルドーは頷いた。
「そうだ。
“あと少し”は、だいたい嘘だ」
教室が静まり返る。
ルドーは黒板に書いた。
『終わったら切り替える、は終わらない』
私は、少しだけ胃が痛くなった。
それ、現世でも何度も見たやつだ。
リゼが小声で言う。
「ユウ、顔が死んでる」
「思い当たることが多すぎる」
「好きなんだね」
「好きじゃない。慣れてるだけ」
「それ、好きって言うんだよ」
やめろ。今は授業中だ。
———
ルドーは、ようやく机の上の鐘を手に取った。
「では、もう一度やる」
今度は、さっきの慎重な生徒をもう一度前に出す。
「今からこの鐘を鳴らす。
一打ごとに、必ず次へ移れ」
生徒が首を傾げる。
「必ず?」
「必ずだ。
途中でも移れ。いいところでも移れ。直りかけでも移れ。
お前の気分は聞かん」
強い。
ルドーが鐘を鳴らした。
チン。
生徒は灯火へ手を伸ばす。
チン。
輪へ移る。
チン。
瓶へ。
チン。
灯火。
チン。
輪。
チン。
瓶。
教室が静かになる。
今度は、崩れない。
完璧ではない。どれもギリギリだ。
だが、どれも死なない。
灯火は消えない。
瓶の水は途切れない。
輪も止まらない。
生徒が途中で輪に長く張りつこうとした瞬間、鐘が鳴る。
彼は嫌そうな顔をしながらも、移る。
また鳴る。移る。鳴る。移る。
しばらくして、ルドーが鐘を止めた。
三つとも動いていた。
教室のあちこちから、おお……という声が漏れる。
分かりやすい成功は強い。
ルドーは黒板に書いた。
『自分で切り替えるな』
『切り替えさせろ』
「優秀な者ほど、一つを完璧にしようとして全部を壊す」
その一言が、妙に重かった。
私は机の上を見た。見ないふりをしたかった。
ルドーは続けた。
「“今いいところだ”は信用するな。
“あと少しだ”も信用するな。
鐘が鳴ったら移れ。途中でも移れ。
失礼でも移れ。だから全部が生き残る」
リゼが小さく首を傾げる。
「なんか、かわいそう」
「かわいそうだよ」
私は答えた。
「でも、止めないと全部止まる」
リゼが少し黙って、頷いた。
———
授業の後半は演習になった。
生徒たちは三人一組に分けられ、さっきの装置を模した小さな課題を渡された。
一つは光を維持する札。
一つは一定の間隔で印を打つ札。
一つは温度を保つ小鍋。
最初は好きにやらせる。
当然、事故る。
「あっ、こっち消えた!」
「鍋が冷めた!」
「印が飛んだ!」
次に、鐘ありでやる。
チン。
チン。
チン。
教室全体が、妙に規則正しく忙しくなる。
滑稽だが、安定している。
ルドーは歩きながら、冷たく観察していた。
「お前、見すぎだ。移れ」
「お前、移るのが早すぎる。もう一打ぶん見ろ」
「そこ、札を置け。途中の状態を覚えておけ」
私はその最後の言葉に、少し反応した。
途中の状態。
つまり、どこまでやったかのしおり。
ルドーは黒板の端に、小さく書き足した。
『途中を残せ』
『戻る場所を失うな』
ああ、なるほど。
途中で強制的に切り替えるなら、途中を残さないと戻れない。
授業なのに、ちゃんと授業だ。珍しい。
リゼが小声で言う。
「今日のは、分かる」
「うん。痛いほど分かる」
「ユウ、痛い授業ばっか好きだね」
「好きじゃない」
「慣れてるだけ?」
「……そう」
もう否定する気力が薄い。
———
授業の終わり。
ルドーは黒板に宿題を書いた。
『宿題:三つの作業を止めずに回す順番を書け』
『条件:途中を残せ』
生徒たちは「今日はなんとかなりそう」という顔をしていた。
それくらいがちょうどいい。
そして、当然のようにルドーは一拍置いて私を見た。
「……ユウ」
はい来た。
「前へ」
最近これが嫌いだ。
教室のざわめきも嫌いだ。全部嫌いだ。
私は前に出た。
ルドーは声を落として言った。
「お前は紙で出すな」
「……はいはい」
ルドーが、間髪入れずに言う。
「はいは一回だ。二回目からは言い訳になる」
教室の何人かが吹き出しそうになって、必死で耐えている。
そこ笑うところか。まあちょっと面白いが。
ルドーは淡々と続けた。
「お前の宿題は現場だ。
“止めないと全部止まる”場所を見てこい」
「何の現場ですか」
「王城の治療所だ」
私は一瞬だけ黙った。
治療所。
それは、嫌な種類の現場だ。
郵便局や書記局と違って、止まると人が困るどころか、もっと直接的に悪いことになる。
リゼも少し顔を引き締めた。
「……重いやつだね」
ルドーが頷く。
「回復魔法は、一人ずつなら誰でもやる。
だが複数を同時に見ると、優秀な者ほど一人に張りついて他を落とす」
私は息を吐いた。
「一番やっかいなやつですね」
「そうだ」
ルドーは言った。
「だから、お前は鐘を持って行け」
机の上の小さな鐘を、指で叩く。
チン。
「途中でも移れ。
失礼でも移れ。
そうしなければ、全部止まる」
嫌なほど筋が通っている。
私は言った。
「……先生、俺を便利屋にする気ですか」
「便利屋にする気はない」
ルドーはいつもの顔で言う。
「お前が勝手に便利だから呼ばれるだけだ」
最悪の論理だ。
だが、だいぶ聞き慣れてきたのがもっと嫌だ。
ルドーは最後に言った。
「ちなみにこの宿題を、まともに解けるのは――たぶんお前だけだ」
教室の空気が変わる。
最近これも定番だ。嫌な定番だ。
私は思わず言った。
「……言わなくていいです、それ」
「必要だ。現場は不公平だからな」
ルドーは平然としている。
「そして、不公平を埋めるのが仕組みだ。
仕組みを作れ。――それが、お前の仕事だ」
私は、もう返す言葉がなかった。
———
授業が終わり、廊下に出る。
リゼが私の袖を掴んだ。
「ユウ」
「うん」
「治療所、怖い?」
「怖い」
「よかった」
「なんでだよ」
「怖いのに行くの、すごいから」
その褒め方は、ずるい。
私は顔を逸らした。
「……別に、行きたいわけじゃない」
「うん。でも行くんでしょ」
「行く」
リゼが少しだけ笑った。
「じゃあ、私も行く」
「巻き込まれるぞ」
「もう巻き込まれてる」
それはそうだ。
教室の中では、まだ小さな鐘の音が響いている。
チン。チン。チン。
途中でも移れ。
失礼でも移れ。
そうしなければ、全部止まる。
私はその音を聞きながら、明日の胃痛を先取りしていた。




