第169話 王都の茶が沸く夜
朝の食卓に、湯気が立っていた。
リゼが焼きたてのパンを二つに割っている。
外は曇り。
窓の下を、荷車が通り過ぎていく。
「ユウ、今日は早めに帰れる?」
「たぶん」
「最終回なの。犯人が分かるのよ」
私は茶を一口飲んだ。
「まだ諦めてないのか、侍女長説」
「侍女長よ。絶対に侍女長」
リゼは、断言するときだけ声が低くなる。
根拠は、たぶんない。
「学校でも、みんなその話をしてる」
「王都中がその話をしてる」
私はパンを受け取った。
「ここまで来ると、娯楽というより社会現象だな」
「社会現象って、褒めてるの?」
「事故の一歩手前を、そう呼ぶこともある」
リゼが、少し嫌そうな顔をした。
この時点では、私も本気で言っていない。
———
市場を抜けて学校へ向かう。
魚の匂い。
濡れた石畳。
呼び売りの声。
いつもの朝だ。
ただ、今日は、声の中身がどこも同じだった。
「犯人は侍女長だ。あの女は最初から何か知っている」
魚屋の主人が、包丁を持ったまま断言していた。
包丁を持って名指しされる犯人は、少し気の毒である。
「違うって。刺したのは双子の弟よ。六の巻で、竜騎士に双子がいたって出てたもの」
パン屋の娘が、袋の口を折りながら言い返す。
『誰が竜騎士を刺したのか』。
一年続いた連続映像劇で、今夜、最終回を迎える。
貴族と、騎士団と、竜と、陰謀と、恋と、殺人が、全部入っている。
全部入れると、だいたい流行る。
流行ると、王都は同じ刻に同じことをする。
その意味に、私はまだ気づいていなかった。
———
講堂も、同じ話で埋まっていた。
「侍女長だ」
「双子だ」
「竜だ」
竜が刺した説まで出ている。
人類は、候補が増えると本題を見失う。
ルドーが入ってきた。
表示盤の前に立ち、腕を組む。
「今日は早く終わる」
講堂がざわめいた。
喜びのざわめきだった。
「喜ぶな。理由は術勢だ」
誰も分かっていない顔をした。
私も、まだ分かっていなかった。
「前の山場の夜、王都の灯りが揺れた。供給庁は徹夜だ」
ルドーが、表示盤を指で叩いた。
「今夜は最終回だ。帰って茶を飲め。飲みながら、なぜ揺れるか考えろ」
短い。
いつも通り、必要なことしか言わない。
この人は、たぶん最初から分かっている。
分かっていて、言わない。
それを授業だと思っている。
———
王都術勢供給庁の監視室は、南の川沿いの塔にある。
窓が少ない。
灯りは白い。
壁一面に、術勢の流れを映す盤が並んでいる。
その盤の端に、紙が一枚貼ってあった。
今夜の番組表を、誰かが手で書き写したものだった。
運用主任のガレンは、それを横目で見ていた。
「あと七分で終わる予定だ」
「予定、だろ」
若い職員が言った。
「前回は三分押した」
「主人公がまだ泣いていたら、終わらんからな」
しょうもない会話である。
二人とも、真剣だった。
しょうもなさと真剣さは、両立する。
術勢は、貯めておけない。
正確には、貯蔵湖に少しだけ貯まる。
だが、王都全体を長く賄えるほどではない。
だから、使う分だけを、その刻に流す。
足りなければ、灯火術が暗くなる。
保温結界が緩む。
揚水術が止まる。
治療院の生命維持術式が、揺れる。
余らせすぎても、いけない。
術勢の拍が乱れ、古い術具が誤作動し、保護符が焼ける。
術勢拍。
王都の術勢が正しく流れているかを示す、たった一つの数字だ。
彼らは、それを一日じゅう見ている。
誰にも褒められない仕事である。
褒められるのは、何も起きなかった日だけだ。
そして何も起きなかった日は、誰も気づかない。
———
私が家に着いたのは、日が暮れる前だった。
居間の映像盤に、もう灯りが入っている。
放送局から送られてくる映像を、家庭で映すための盤だ。
このごろは、王都の家にだいたい一台ある。
「早かったね」
「ルドーが早く終わらせた」
「珍しい」
「今夜は術勢が荒れるから帰れ、と」
「先生も見るのかな」
「見ないと思う。見ないのに知ってるところが、あの人の嫌なところだ」
リゼが笑って、私の隣に座った。
———
映像劇が始まった。
私はそこまで熱心な視聴者ではない。
それでも、最後の四半刻は黙って見ていた。
面白いものは、面白い。
犯人は、侍女長ではなかった。
双子の弟でもなかった。
もちろん、竜でもなかった。
リゼが息を吸った。
「……嘘でしょ」
映像盤の中で、犯人が長い独白を始めた。
独白は、長かった。
人は、刺した理由を説明したがる。
やがて、主題歌が流れた。
———
王都が、一斉に立ち上がった。
音で分かった。
隣の家で、椅子が引かれる。
上の階で、床が鳴る。
向かいの窓に、灯りがつく。
どこかで、水を汲む音がした。
リゼも立ち上がっていた。
「お茶淹れるね」
湯沸かし術具に手を伸ばす。
王都中の人間が、たぶん、いま同じ動きをしている。
AIエージェント:「観測:この付近で、湯沸かし術具が同時に十九台起動しました」
「今それを数えてどうするんだ」
AIエージェント:「補足:王都全体では、およそ十万台と推定されます」
私は、湯が沸くのを見ていた。
十万台。
同じ刻に。
嫌な予感がした。
嫌な予感がするときは、だいたい遅い。
———
緊急魔文が来たのは、その直後だった。
王都術務室から。
術勢拍が下がっている。
供給庁が即応炉を立ち上げている。
番組公式の魔法仮想文書が落ちかけている。
蒼帯通信社で、感想魔文が滞っている。
最後の一行に、こうあった。
攻撃の可能性あり。
私は上着を取った。
リゼが、茶の椀を持ったまま立っていた。
「……犯人、分かったところなのに」
「犯人より、王都の基盤が刺されかけてるみたい」
「嫌な最終回ね」
「同感だ」
扉を開けると、外は冷たかった。
通りのどの窓にも、灯りがついている。
王都中が、起きている。
起きて、茶を淹れている。
———
供給庁の監視室は、戦場だった。
もちろん、戦場ではない。
人は死なない。
だが、人間の顔は戦場と同じになるらしい。
「東区、跳ねました!」
「南区も上がっています!」
「貯蔵湖、第一水門を開けろ!」
「火竜炉、待機から一段上げろ! 上げすぎるな、余るぞ!」
ガレンが、盤の前で叫んでいた。
「番組は本当に終わったのか!?」
「終わりました! 犯人の独白が終わって、今、主題歌です!」
主題歌の進み具合が、王都の術勢を左右している。
文明は、こういう形で人を試す。
術勢拍の数字が、じりじりと下がっていた。
危険域まで、まだ少しある。
少ししか、ない。
「隣国融通線は」
「交渉中です! あちらも夜です!」
私は壁際に立って、盤を見ていた。
ここで私にできることはない。
術勢を出すのは、彼らの仕事だ。
私にできるのは、これが何なのかを言うことだけだった。
———
同じ刻、王都の別の場所でも、盤が悲鳴を上げていた。
番組公式の魔法仮想文書。
その本体術盤が置かれた部屋である。
放送局が仕事を頼んでいる、小さな工房の一室だった。
担当者はテオという若い術師で、この日のために準備をしていた。
犯人の正体の解説。
犯行の動機の補足。
制作陣の言葉。
登場人物の相関図。
次回作の告知。
感想を書き込む欄。
どれも、番組が終わったら公開する予定だった。
予定どおり、公開した。
その瞬間に、本体術盤が倒れた。
———
私が着いたとき、テオは椅子に座って、盤を見ていなかった。
見られなかったのだと思う。
「文書を、一枚置いただけなんです」
声が、かすれていた。
「犯人の解説を、一枚。それだけです」
「何人来ましたか」
「分かりません。数える盤も落ちました」
数える盤が落ちる。
それはもう、数の問題ではない。
「同じ人が、何度も来ています」
テオが、記録札を指した。
「一人が、十回、二十回と読みに来ています。なぜですか。同じ文書なのに」
「開かないからです」
私は言った。
「開かないと、人は押します。押すと、さらに開かなくなります」
テオが、こちらを見た。
「……客が、自分で重くしているんですか」
「はい。悪気はありません」
犯人の名前は、百回更新しても変わらない。
それでも人は押す。
人類なので。
———
術務室の担当者が、記録札の束を持ってきた。
「攻撃の線は」
私は札をめくった。
同じ相手から、同じ文書への、繰り返しの読み取り。
送り元は、王都全域に散っている。
刻は、放送終了からの四分に集中している。
書き込みは少ない。
ほとんどが、読み取りだ。
攻撃なら、こうはならない。
攻撃は、もっと下手か、もっと上手い。
「これは攻撃じゃないですね」
私は札を置いた。
「国民が、茶を淹れて、犯人の名前を見に来ています」
部屋が、静かになった。
誰かが、ぽかんとした顔をした。
その顔が、ゆっくり変わっていった。
「……茶で、王都の術勢が落ちかけたと」
「茶と、犯人です」
私は付け足した。
「どちらにも、罪はありません」
———
術勢拍が戻ったのは、半刻ほど後だった。
誰も死ななかった。
灯火術が数区画で暗くなり、古い保護符が三枚焼けた。
治療院は無事だった。
公式の魔法仮想文書は、二刻の間、誰にも読めなかった。
被害としては、地味である。
地味に困るが、本気で困る。
そして、次の最終回は、来月にもある。
ガレンが、椅子に沈み込むように座った。
「終了予定の刻は、聞いていました」
彼は、壁に貼られた紙を指した。
「放送局から、事前にもらっています」
「では、なぜ間に合わなかったんですか」
「四分です」
ガレンが、指を四本立てた。
「実際には、四分押しました」
「四分」
「四分くらい、と思われるでしょう」
彼は笑おうとして、失敗した。
「こちらでは、その四分で、貯蔵湖の水門を開ける順番が変わります。即応炉を先に上げるか、後に上げるかも変わる。四分早く上げれば余ります。四分遅ければ、足りません」
私は、貼られた番組表を見た。
紙である。
手で書き写した紙が、王都の術勢を守っていた。
それに気づいたとき、この件の形が変わった。
———
「これ、番組表の話じゃないですね」
私は言った。
ガレンが顔を上げた。
「では、何の話です」
「合い刻の話です」
花火のときに使った言葉だ。
複数の打ち上げ点を、同じ刻に揃えるための基準。
あのときは、術盤の刻を揃えた。
今度は、人の方が揃っている。
「王都の人間が、いつ一斉に立ち上がるか。それを、誰も正確には知りません」
私は、番組表の紙に触れた。
「一人だけ、知っている人がいます。この物語を書いた人です」
ガレンが、私を見た。
それから、貼られた紙を見た。
窓の外で、灯りが一つ消えた。
茶を飲み終えた誰かが、寝るのだろう。
王都は、明日も同じことをする。
来月の最終回にも、同じことをする。
その前に、間に合わせなければならない。




