第168話 守れる制約
監督院の会議室は、昨日より人が多かった。
西都信用銀行の役員が三人。
現場責任者が一人。
術務と情報管理の担当者が二人。
監督院の担当者。
マリエ。
そして私。
人が増えると、部屋の温度が上がる。
議論の温度は、まだ上がっていない。
私は表示盤に線を引いた。
縦に七つ。
「原因を分けます」
人
場所
術盤
業務設計
教育
技術
組織
「一つずつ埋めてください」
現場責任者が、最初に口を開いた。
「人、は……勤務中に投稿した職員です」
「はい。それだけですか」
「それだけ、とは」
「場所はどうでしたか」
沈黙があった。
沈黙は、答えの一種である。
「執務室に、顧客情報が出ていました」
現場責任者の声が、少し小さくなった。
「白板に顧客名を書く運用が、ずっと残っていました」
「術盤は」
「私物の携帯術盤が、そのまま持ち込めました」
「教育は」
「年に一度、注意喚起の文書を」
私は書き取った。
書き取ると、それは意見ではなく事実になる。
「技術は。撮影や投稿を制御する仕組みは」
「ありません」
「組織は。気づいてから、顧客に知らせるまで何日でしたか」
「……三日です」
七つの欄が、埋まった。
埋まると、一人の職員の名前は、七分の一になった。
「気をつけましょう、は、対策の最後に置く言葉です」
私は表示盤を軽く叩いた。
「最初に置くと、事故ります」
マリエが巻物から顔を上げた。
「法務の世界でも似たようなものね。各自の良識に任せる、は、だいたい負け戦の前口上よ」
———
銀行の役員が、束ねた書類を机に置いた。
厚い。
厚さは誠実さの証明ではないが、そう見せる効果はある。
「では、我々の案を申し上げます」
役員は立ち上がった。
「全職員の携帯術盤を、出勤時に鍵付き保管箱へ預けます。執務室への持ち込みは全面禁止。違反者は処分します」
役員が、一度言葉を切った。
「これを再発防止策として公表します。これで再発は防げるはずです」
会議室の空気が、少し動いた。
強い言葉には、人を安心させる力がある。
安心と安全は、別の言葉である。
「強く見える対策ですね」
私は言った。
役員の眉が動いた。
「強い対策のつもりですが」
「守れるなら、です」
———
「規則にしたことと、守られることは別です」
私は表示盤の新しい面に向かった。
「順に聞きます。家族から急ぎの連絡が来たとき、職員はどうしますか」
「……保管箱から出すことになりますね」
「誰が鍵を開けますか。開けた記録は残りますか」
役員が答えない。
「休憩時間の私用の連絡は。食堂でも預けたままですか」
「それは、まあ、現実的には」
「現実的には、持ち込む人が出ます」
私は表示盤に書いた。
守られない規則は、規則ではない
「厳しすぎる規則は、守られなくなります。守られない規則は、事故のあとに職員を処分するための道具になります」
現場責任者が、下を向いた。
この人は、たぶん最初から知っている。
「それに、隠して持ち込まれた術盤は、管理されていない術盤です。禁止する前より危険になります」
「では、どうしろと」
「禁止が要る場所はあります。全部に広げないでください」
私は役員の目を見た。
「持ち込み禁止は、見た目には強いです。でも、守れないなら弱い。破られたときに発見できないなら、もっと弱い」
そして、言い切った。
「強く見える対策と、強い対策は違います」
———
マリエが巻物を広げた。
「補足します」
彼女の声は、いつも会議の温度を一度だけ下げる。
「禁止規程を置くこと自体はできます。書けば済みますから」
役員が頷いた。
「でも、実態として守れない規程を置いて、事故が起きたときだけ規程違反ですと処分するのは危険ですね」
「危険、といいますと」
「監督対応になったとき、会社は実効性のある管理をしていたのか、を問われます」
マリエが巻物の端を指で押さえた。
「紙の上の禁止は、管理の証明になりません。むしろ、守らせる気がなかった証拠として読まれることがあります」
監督院の担当者が、小さく頷いた。
この人は、それを知っていて呼んだのだと思う。
「それと、もう一つ」
マリエが役員を見た。
「本人の責任を問うことと、組織として再発防止策を作ることは、別の作業です」
「同じでは」
「混ぜると、吊し上げで終わります」
部屋が静かになった。
「吊し上げは、早く終わって、何も直りません」
———
現場責任者が、聞き取りの記録を読み上げた。
「若手からは、家族からの連絡も受けられないのか、と」
「他には」
「休憩時間に外へ出ないと魔文も見られないのか、と」
役員が、口を開こうとして、やめた。
「それから、ベテランの職員が一人」
現場責任者が、少しためらった。
「どうせ支店長は持ち込むんだろう、と」
誰も笑わなかった。
笑えない冗談は、たいてい本当のことを言っている。
「例外が必要なら、例外の条件と記録が必要です」
私は言った。
「偉い人だから許す、は管理ではありません」
役員が、初めて視線を落とした。
———
私は表示盤を消して、新しく四つの欄を書いた。
区域
術盤
運用
検査
「一律ではなく、危険の度合いで分けます」
まず区域を書く。
来客・休憩区域
携帯術盤は使える
撮影は条件付きで可
通常執務区域
携帯術盤は持ち込める
撮影術式は起動できない
重要情報区域
私物の携帯術盤は持ち込み禁止
撮影は禁止
広報用区域
撮影してよい
「禁止区域と許可区域を分ける。人間の行動を、設計の中に入れるんです」
「撮ってよい場所を作るのですか」
役員が、意外そうに聞いた。
「撮影を全部禁止すると、隠れて撮ります。なら、撮ってよい場所も作った方がいいです」
人間は、禁じられたものを可愛がる習性がある。
逃げ道のない設計は、必ず壁の裏に道を作られる。
———
「次に、術盤です」
私は書いた。
業務用の携帯術盤には、真時写しのような私用の投稿術式を入れない。
私物の携帯術盤は、通常執務区域では持ち込める。ただし撮影術式は起動できないようにする。
重要情報区域では、私物の術盤そのものを持ち込ませない。
「撮影術式を封じる結界を張れますか」
術務担当者が、頷いた。
「区域単位であれば、可能です」
「では、張ってください」
私はそこで、一度息を吸った。
ここを間違えると、全部が崩れる。
「ただし、結界は破れる前提で設計します」
「破れるのですか」
「設定が漏れるかもしれません。例外運用が壊れるかもしれません。新しい術盤が対応していないかもしれません」
私は表示盤の文字を指した。
「破られたら終わり、ではなく、破られても映るものがない状態にするべきです」
———
「それが、今日の本題です」
私は白板の絵を描いた。
執務室の絵だ。
机があり、人がいて、その後ろに白板がある。
「そもそも、背後に顧客名が書かれているのが危険です」
「業務上、必要でして」
役員が言った。
嘘ではないと思う。
「必要なのは情報の共有です。顧客名を壁に書くことではありません」
私は書き直した。
白板には案件番号だけを書く
顧客名は権限付き台帳で見る
白板は終業時に消す
顧客情報の出る画面は、一定時間で自動的に閉じる
大きな表示盤を、後ろから読める向きに置かない
「案件番号だけで、仕事が回りますか」
「回ります。回らないなら、回るように直します」
役員は、しばらく絵を見ていた。
「これは、我々が毎日やることですね」
「はい。結界より地味です」
私は絵の白板を、線で消した。
「映ったら困るものを、映る場所に置かない。これが一番強いです」
———
「最後に、検査と、そのあとです」
私は簡単に付け足した。
業務用の術盤から外へ投稿するときは、映り込みを調べる。
顧客名らしき文字を見つける。
帳票、白板、術盤の画面を見つける。
見つけたら警告する。
業務区域では、投稿そのものを止める。
「これで完全ですか」
役員が聞いた。
「いいえ」
私は首を振った。
「検査は網です。壁ではありません」
網は、通り抜けるものがある。
それでも、何も置かないよりはるかにましだ。
人類の対策は、だいたい網の集まりでできている。
「そして、起きたあとの手順を決めておいてください」
マリエが引き取った。
「画像を保全する。映り込んだ情報を特定する。対象のお客さまへ個別に説明する。監督院へ報告する。削除を依頼する。公表の範囲を決める」
彼女は巻物の最後の行を読んだ。
「三日は、遅すぎます」
———
役員が、長く息を吐いた。
「では、我々は何を示せばよいのです」
声が、少し変わっていた。
「世間は怒っている。監督院も見ている。顧客も不安がっている。強い対策を示さなければならないのです」
これは、悪意ではない。
焦りである。
焦った人間は、たいてい一番大きな石を持ち上げようとする。
持ち上がらない石を。
「強く見える対策ではなく、実際に事故を減らす対策を示すべきです」
私は表示盤の七つの欄を、もう一度指した。
「顧客が知りたいのは、職員が何人処分されたかだけではありません」
役員が、こちらを見た。
「次に同じことが起きにくくなったのか。起きても早く気づけるのか。起きたときに、ちゃんと説明されるのか」
私は表示盤から手を離した。
「それが、信用です」
役員は、すぐには答えなかった。
答えないのは、考えている証拠である。
この会議で一番よい沈黙だった。
———
家に着いたのは、日が落ちてからだった。
台所に灯りがついている。
鍋の音がする。
外の冷たさが、扉一枚で終わる。
「ねえ、今日の銀行の話、魔文新聞で見た」
リゼが振り返らずに言った。
「見たか」
「あれ、映った人たちも嫌だけど、投稿した人も今ごろ大変だろうね」
「うん」
私は椅子に座った。
座ると、疲れが遅れて追いついてくる。
「悪いことをしたのはそうなんだけど、世界中から石を投げられるほどなのかなって」
「そこが難しい」
私は少し考えた。
「責任はある。でも、炎上は責任の大きさを正確に測ってくれない」
リゼが鍋の火を弱めた。
「でも、銀行の人たちが携帯術盤を持ってたら、また撮っちゃうかもしれないんでしょ」
「うん。だから場所を分ける」
「全部禁止じゃだめなの?」
「一部では必要だ。でも全部にすると、今度は守られない」
リゼが、少しだけ笑った。
「厳しすぎる校則みたい」
「まさにそれ」
「守れない決まりを作って、破った人だけ怒るやつね」
「そう」
私は茶を受け取った。
「安全にしたいのか、怒る相手を用意したいのか、分からなくなる」
———
鍋から湯気が上がっていた。
窓が少し曇っている。
リゼが向かいに座った。
「便利なものって、いつも少し怖いね」
「怖くない便利さは、だいたい誰かが怖い部分を引き受けてる」
「また嫌なこと言う」
「でも、そこを見ないと設計できない」
リゼは、しばらく黙っていた。
湯気が、天井の方へ細く上がっていく。
「じゃあ、見たくないところを見るのが、ユウの仕事なんだね」
私は少し考えた。
「できれば、もう少し明るい仕事がいいんだけど」
「ケーキ買ってきたら、少し明るくなるよ」
「買ってきます」
リゼが笑った。
笑ってから、椅子を引いて立った。
「今のは、ですます調」
最悪だ。
———
その夜、私は少しだけ考えた。
真時写しは、悪い術式ではない。
人が飾らない姿を見せ合うのは、たぶん悪いことではない。
二分という猶予のなさは、その文化を支えている。
ただ、その二分は、顧客名の書かれた白板の前でも、同じ二分だった。
術式は、場所を区別しない。
区別するのは、それを置く側の設計である。
銀行は、明日から白板に案件番号を書く。
結界を張り、区域を分け、記録を残す。
それでも、いつか誰かがまた撮るだろう。
そのときに、映るものが何もなければいい。
映ってしまっても、三日ではなく、その日のうちに気づければいい。
完全な安全は来ない。
来ないものを設計目標にすると、人は紙の上の禁止に逃げる。
守れる制約を積む。
破られる前提で重ねる。
人間の注意力は、最後ではなく、いちばん外側に置く。
王国の銀行は、少しだけ壊れにくくなった。
それだけだ。
それでも、それだけのことを積むしかない。




