第167話 最後の防壁
朝の食卓に、湯気が細く立っていた。
外はよく晴れている。
窓の下を、荷車が通り過ぎる音。
茶はまだ熱い。
リゼが携帯術盤を裏返しにして、机の端へ置いた。
「これ、最近みんな使ってるの。真時写しっていうんだけど」
「知ってる」
「通知が来たら、二分以内に今いる場所を写すんでしょ。それ、落ち着かなくない?」
私は茶を一口飲んだ。
「落ち着かないように作ってある」
「どういうこと?」
「考える時間を減らすと、本物っぽいものが出やすいからだ」
リゼが少し黙った。
それから、納得したような、していないような顔をした。
「じゃあ、わざとなんだ」
「そう。編集する時間、見直す時間、確認する時間。全部削る。削ると、飾れなくなる」
「飾れないのがいいの?」
「飾らないものを見たい人が多いんだろう」
人類は、他人の飾らない姿が好きだ。
自分の飾らない姿は、あまり見せたくない。
その矛盾で商売が成立している。
リゼが焼いたパンを半分に割った。
「うちの学校でも、授業中に通知が来て困ってる子がいるよ」
「困るだけならいい」
「困るだけじゃないの?」
「場所によるな」
———
講堂は、朝から少しざわついていた。
ルドーが表示盤の前に立っている。
腕を組んで、学生たちを見ていた。
「その術盤、しまえ」
短い。
二列目の学生が、慌てて携帯術盤を鞄へ落とした。
「今のは何だ」
誰も答えない。
「ユウ」
「真時写しです」
「はいは一回だ。説明しろ」
私は言っていない。
だが、ルドーの中では私が「はい」と言ったことになっているらしい。
この人の中の私は、いつも少し従順である。
「一日に一度、予告なく通知が来ます。通知から二分以内に、その場を写して投稿する術式です」
「二分」
「はい。前と後ろを同時に写します。遅れると、遅れたと表示されます」
「投稿しなければ」
「友人の投稿も見られません」
ルドーが、鼻から短く息を出した。
「面白いな」
面白い、と言うときのこの人は、だいたい何かを見抜いている。
「人間の虚飾を剥がす術式か」
「そうです。編集も、見直しも、確認も、時間がないのでできません」
私はそこで言葉を切った。
切らなくてもよかったのだが、切った。
「職場で使うと、守秘義務も剥がれますけどね」
講堂が少し笑った。
私も少し笑った。
その日の午後には、誰も笑っていなかった。
———
王都の金融街は、石造りの建物が並んでいる。
通りは静かだ。
金の匂いがする場所は、たいてい静かに作られている。
西都信用銀行の執務室で、若い職員が通知を受けた。
二分。
彼女は同僚に声をかけ、机の前で携帯術盤を構えた。
前と後ろが、同時に写る。
自分の顔と、同僚の笑った顔と、その向こうの部屋が。
投稿は、友人限定だった。
彼女の背後には、白板があった。
顧客名が書かれていた。
融資相談の整理表があった。
来店予定者の一覧があった。
術盤の画面には、口座番号の一部が表示されていた。
白板の隅には「要注意対応」と書かれた内部メモが貼ってあった。
友人限定である。
だから安全だと、彼女は思った。
友人の一人が、面白がって魔法仮想文書へ転載した。
———
三日後、魔文新聞の一面に、その画像があった。
顧客名の部分だけが、黒く塗られていた。
黒く塗られている、ということは、そこに何かがあったという証拠である。
掲示板が燃えた。
「信用を扱う銀行がこれか」
「自分の名前も映っているのでは」
「職員教育はどうなっている」
「若者文化のせいにするな、管理の問題だ」
「真時写しを禁止しろ」
西都信用銀行は、その日のうちに謝罪文を出した。
「このたび、当行職員が勤務中に撮影した画像が拡散され、複数のお客さまの情報が映り込んでいたことが判明いたしました」
謝罪文が出て、火はさらに大きくなった。
夕方、私はそれを見ていた。
リゼが横から覗き込んでくる。
「謝ってるのに?」
「謝罪文は、火を消す水にもなるし、油にもなる」
「どっちになるかは」
「書き方と、そのあと何をするかで決まる」
最悪だ。
この手の話は、だいたい私のところに来る。
———
翌朝、王国金融監督院から使いが来た。
監督院の会議室は、天井が高かった。
声が上へ逃げる部屋だ。
こういう部屋では、みんな少しずつ大きな声で話す。
長机の向こうに、監督院の担当者。
私の隣に、マリエが座っていた。
「民間銀行の事案です。ですが、金融機関全体の信用に関わります」
担当者は、疲れた顔をしていた。
疲れた顔の人間は、たいてい正直である。
「西都信用銀行から再発防止策の案が出てきています。妥当かどうか、見ていただきたい」
私は少し身を引いた。
「これ、私が銀行を叱る話ではないですよね」
「叱るのは監督院の仕事よ」
マリエが巻物を開きながら言った。
「あなたには、仕組みのどこが壊れていたのかを見てほしいの」
それなら、できる。
叱るのは苦手だ。
叱られるのには慣れている。
———
私は表示盤の前に立った。
「まず、確認させてください」
表示盤に書く。
投稿した職員の責任
組織の設計の問題
「これは、職員一人の不注意だけではないです」
監督院の担当者が、わずかに身を乗り出した。
「もちろん、投稿した人の責任はあります。でも、それだけで片づけると、次も起きます」
「と、いいますと」
「順に見ます」
私は表示盤に書き足した。
執務室に顧客情報が露出していた
私用の投稿術式が業務空間で使えた
真時写しは判断時間を削る設計だった
「白板に顧客名が書いてありました。術盤の画面には口座番号が出ていました。それが、撮影される可能性のある場所にありました」
「しかし、勤務中の撮影は元々」
「禁止されていましたか」
担当者が言葉を止めた。
マリエが静かに補った。
「注意喚起の文書は、あります。年に一度」
年に一度。
人間の記憶は、年に一度では保たない。
私は自分の予定すら保たない。
「この件は、撮ってはいけない場所と、撮らせようとする服務術が、同じ術盤の中に入っていたことが問題です」
私は表示盤の前で振り返った。
「そして組織は、その状態のまま、人間が気をつけることを最後の防壁にしていました」
会議室が静かになった。
天井が高いので、静けさもよく響く。
「人間の注意力を最後の防壁にしているなら、それはもう、防壁とは呼べません」
マリエが巻物に何かを書き込んだ。
書き終わってから、こちらを見た。
「明日、銀行の役員が来ます」
「対策案を持って?」
「ええ。強い対策だそうよ」
強い対策。
その言葉の響きが、少し嫌だった。




