第166話 相場を作ってしまった日
商務院の大きな会議室には、朝から熱がこもっていた。
窓は開いている。
それでも、紙と人と焦りの匂いは逃げない。
長机の向こうに、蒼帯通信社の役員たちが並んでいた。
青い帯の入った制服。
疲れた目。
何度も説明した人間の顔。
反対側には、商務院、消費者保護部門、王都魔術安全事故対応部。
少し離れて、マリエ。
その隣に私。
後ろにはルドーが腕を組んで立っている。
「現場は待たん」
短い。
だが、その通りだった。
———
蒼帯通信社の責任者は、悪人の顔をしていなかった。
だから厄介だった。
悪人なら殴ればよい、という話ではない。
もちろん殴ってはいけない。
ただ、人類は分かりやすい敵がいる方が楽になる。
「全契約者に高額な補償を行えば、通信服務そのものを維持できません」
責任者は、乾いた声で言った。
「確認されている直接被害は、現時点ではありません。一律の見舞いとして、銀貨一枚相当の商品券をお送りするのが現実的です」
現実的。
便利な言葉である。
たいてい、誰かの痛みが折り畳まれている。
商務院の役人が、消費者保護部門へ届いた苦情の写しを読み上げた。
「勝手に漏らしておいて銀貨一枚か」
「これから偽案内の魔文が来るかもしれないのに、どうすればいい」
「住所を変えるわけにもいかない」
会議室の空気が少し沈んだ。
紙の上の苦情なのに、声があった。
マリエが巻物を閉じる。
「これは、見舞金の額だけで片づく話ではありませんね」
「はい。安心を取り戻すための仕組みが要ります」
私は表示盤の前に立った。
補償額を決める役ではない。
それは会社、監督側、法務、世論、そして会社存続の問題だ。
私が決めてはいけない。
私の仕事は、問題を分けることである。
———
「補償額だけを見ていると間違えます」
表示盤に三つの欄を書く。
知らせ
再発防止
長期見守り
「一つ目は知らせです。誰の、何が、外へ出た可能性があるのか。何に気をつけるべきか。どこに相談すればよいのか」
蒼帯通信社の担当者が書き取る。
「二つ目は再発防止です。なぜ漏れたのか。委託先を含めた管理体制はどうだったのか。誰がどの記録を読めたのか。記録札は残っているのか。異常を見つける仕組みはあったのか」
責任者の顔が少し歪んだ。
責められていると感じたのかもしれない。
責めている。
ただし、責めるだけでは足りない。
「三つ目は長期見守りです。偽案内、なりすまし、支払い記録の悪用。そういう被害は、後から出ることがあります」
私は銀貨一枚の商品券の写しを指した。
「銀貨一枚は、謝罪の形にはなるかもしれません。でも、それだけで終わらせると、漏れた記録があとで使われた時に、誰も見なくなります」
会議室が静かになった。
「漏れ記録対応は、一日で終わる儀式ではないんです」
———
マリエが、表示盤の横に立った。
ここからは彼女の仕事だった。
技術や運用の整理を、義務と手続きに落とす。
人間社会で一番地味で、一番逃げられない作業である。
「では、こうしましょう」
マリエは淡々と言った。
「一律見舞いとして、銀貨一枚相当の商品券を送付する。ただし、それは責任の終了ではありません」
蒼帯通信社側が顔を上げた。
「個別被害が確認された場合は、追加補償の対象にします。被害相談窓口を一定期間置く。偽案内の魔文、なりすまし、支払い記録の悪用について通報受付を整える。再発防止報告書を出す。監督官庁へ定期報告する」
彼女は巻物をめくった。
「委託先管理を見直す。顧客記録への読み取り印を棚卸しする。事故公表基準を定める。記録札を保全する。問い合わせの対応文を揃える」
責任者が、かすれた声で聞いた。
「それは、銀貨一枚では終わらないということですか」
マリエは、はっきり頷いた。
「銀貨一枚で終わり、ではありません」
部屋の空気が動いた。
「銀貨一枚から始まる義務にしないといけないんです」
その言い方は、優しくはなかった。
だが、公平だった。
———
休憩時間、廊下の窓から王都の通りが見えた。
昼の光は明るい。
下では、屋台が弁当を売っている。
ちょうど銀貨一枚くらいの値段だ。
最悪だ。
比べたくなくても、比べてしまう。
ルドーが隣に立った。
「なるほど」
「何がですか」
「価値は」
ルドーは少しだけ目を細めた。
「後で動くのだな」
「はい。あとから悪用されることがあります」
「ならば」
「補償も続く」
「そうです」
「難儀だ」
「難儀です」
「だが、必要だ」
「はい」
「はいは一回だ」
「今のは一回です」
「ならよい」
ルドーは会議室へ戻っていった。
責任は取らない顔だった。
ただ、逃げもしない顔だった。
———
夕方、商務院から発表が出た。
蒼帯通信社、全対象者へ銀貨一枚相当の一律見舞い
被害相談窓口を設置
監督官庁、再発防止報告と定期報告を要求
個別被害は追加補償の対象へ
王都報導社の掲示板の前には、人が集まった。
誰かが言う。
「俺の記録は弁当一つ分か」
別の誰かが言う。
「まあ、何もないよりはましだろ」
さらに別の声。
「でも、これから他の会社も銀貨一枚で済ませるんじゃないか」
その言葉が、一番重かった。
相場は、勝手に歩く。
作った人間が止めようとしても、世間が覚えてしまう。
商務院の役人は、掲示板の前でしばらく黙っていた。
蒼帯通信社の担当者も、同じ紙を見ていた。
誰も勝っていない。
だが、何も決めないよりはましだった。
通信服務の信頼は、きれいな謝罪文だけでは戻らない。
戻すというより、また少しずつ積むしかない。
———
夜、家へ戻ると、台所から温かい匂いがした。
根菜と香草。
皿を重ねる音。
窓の外の通りは、昼の騒ぎが嘘のように静かだった。
「おかえり」
「ただいま」
リゼは私の顔を見た。
「またひどい顔」
「今日は相場を見てきた」
「何それ」
「あまり楽しくないもの」
「でしょうね」
食卓につくと、リゼが遠話鏡の話をしてくれた。
ヴァルンが商品券を見せたこと。
氷菓でも買ったらどうだと言ったこと。
自分で買うと返したこと。
「そこは断るんだ」
「そこは断るわよ」
「父親としては、少し寂しいかもしれない」
「記録漏れ味の氷菓なんて食べたくない」
「記録漏れ味」
「最低」
少し笑った。
笑えたことに、少し救われた。
だが、リゼはすぐ真面目な顔になった。
「でもね。お父さんが最後に、『おれの名前や住所は、弁当ひとつ分だったらしい』って言ってて」
「うん」
「それ、なんか嫌だった」
私は椀を置いた。
「たぶん、その嫌な感じは正しいよ」
「銀貨一枚って、何もないよりはましなんでしょ」
「ましではある」
「でも、終わった感じにされたら嫌」
「それも正しい」
リゼは少し考えた。
「家で言うと、台所の鍵をなくして、銀貨一枚渡されて終わりにされる感じ?」
「近い」
「鍵を替えるとか、しばらく変な人が来ないか見るとか、隣に知らせるとか、そういうのがないと怖い」
「かなり近い」
「じゃあ、銀貨一枚はお詫びであって、鍵を替える話とは別」
「そういうことだ」
リゼは椀の中を見た。
「お父さん、たぶん軽く言った方が楽だったんだと思う」
「うん」
「でも、軽くしても、戻らないものは戻らないんだね」
「戻らない」
部屋が少し静かになった。
外で、誰かの足音が通り過ぎる。
その人の名前も住所も、どこかの台帳にある。
便利な服務は、それを使って生活を支えている。
だからこそ、漏れた時の痛みは生活へ戻ってくる。
———
翌朝、王都はまた動き始めた。
市場は開き、遠話鏡は鳴り、魔文は飛ぶ。
蒼帯通信社の窓口には列ができた。
商務院には報告の巻物が積まれた。
消費者保護部門には相談札が届き続けた。
銀貨一枚は、確かに配られる。
それで買える弁当もある。
氷菓もある。
少しよい茶葉も買える。
だが、漏れた記録は戻らない。
戻らないものに、社会は値段をつけようとする。
値段をつけなければ扱えないからだ。
値段をつけた瞬間、足りなさもまた見える。
だから、銀貨一枚で終わらせてはいけない。
知らせる。
見張る。
助ける。
そして、次に同じことが起きにくい形へ直す。
王国は、その面倒な手順を少しずつ覚え始めていた。
爽快な勝利ではない。
苦い学習である。
それでも、学ばないよりはずっとましだ。




