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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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第165話 銀貨一枚の個人記録

 朝の食卓に、焼いたパンの匂いが残っていた。

 窓の外では、早い荷車が石畳を鳴らしている。

 茶は少し渋い。

 私の寝起きは、もっと渋い。


「今日の授業、何を話すの」


 リゼが皿を片づけながら聞いた。

 結婚してから、朝の会話に少しだけ生活の重みが乗るようになった。

 悪くない。

 ただし、仕事の話が混ざると、急に現実になる。


「漏れた記録の話」


「漏れた記録」


「名前、住所、契約番号、遠話鏡番号。そういう、人に結びつく記録が外へ出た時、何が困るのか」


 リゼは少し考えた。


「家の鍵をなくした時みたいなもの?」


「近い」


「でも鍵なら取り替えられる。名前や住所は、そう簡単に取り替えられない」


「かなり近い」


 朝から正解を出さないでほしい。

 授業の尺が減る。

 最悪だ。


———

 講堂は、湿った外套と紙の匂いが混ざっていた。

 昨夜少し雨が降ったせいで、学生たちの靴音がいつもより鈍い。

 表示盤の前に立つと、ルドーが腕を組んだ。


「ユウ」


「はい」


「漏れた記録とは」


「人に結びつく記録が、本来見せるべきでない相手へ渡ることです」


「被害は」


 学生の一人が手を上げた。


「悪い商人に売られます」


「一部」


 別の学生。


「偽案内の魔文が来ます」


「一部」


 さらに別の学生。


「住所を知られます」


「一部」


 ルドーがこちらを見る。


「ユウ」


「はい」


「はいは一回だ」


「はい」


 負けた。

 私は表示盤に二つの欄を書いた。


今すぐ使える価値

後から使える価値


「漏れた記録には、二つの価値があります。ひとつは、今すぐ売れる価値。もうひとつは、後から誰かのふりをしたり、偽案内の魔文を信じさせたりするための価値です」


 私は小さな札を二枚置いた。

 一枚には氏名。

 一枚には住所。


「氏名だけなら弱い。住所だけでも弱い。けれど、契約番号や遠話鏡番号、契約した時期が加わると、相手は急に本物らしく話せます」


 学生たちの顔が少し変わった。

 便利なものの裏側を見せると、人間はだいたい黙る。

 よい傾向である。


「では、漏れた記録は回収できますか」


 沈黙。

 リゼが後ろの席から言った。


「落とした小麦粉を、袋に戻せないみたいなもの?」


「かなり近い。床に広がった小麦粉を全部拾ったと言われても、料理に使いたくはない」


 講堂に、少し苦い笑いが起きた。


「だから、漏れた後の対応は、二つに分ける必要があります。謝ること。これから悪用されないよう見張ること」


 私は表示盤に、さらに書いた。


知らせる

見張る

助ける


「この三つがないまま、謝罪や見舞いの形を置いて終わりにすると、問題は残ります」


 その時、講堂の入口が騒がしくなった。

 王都報導社の号外を抱えた学生が、息を切らして入ってくる。


「先生、これ」


 紙面には、太い文字があった。


蒼帯通信社、契約者記録大量流出か

被害者数、王国史上最大規模

補償は一人あたり銀貨一枚相当の商品券


 講堂が静かになった。

 授業で事故を呼んだわけではない。

 ないはずだ。

 最悪だ。


———

 王都の昼は、号外の声で少しざらついていた。

 街角の掲示板には、人が集まっている。

 魔文新聞の売り子が、同じ見出しを何度も読み上げる。


「蒼帯通信社、契約者記録大量流出か」


「青き広帯域便の契約者記録、外部へ」


「補償は銀貨一枚相当」


 市場の男が、紙面を見て苦い顔をした。


「銀貨一枚か。市場の弁当くらいしかならんな」


 隣の女が言う。


「私の名前と住所、弁当一つ分ってこと?」


 笑いは起きた。

 だが、軽くない。

 笑っていないと飲み込みにくい種類の話だった。


 蒼帯通信社は、王都でも地方でも名の知れた民間通信服務会社である。

 青き広帯域便。

 高速の魔文。

 遠話鏡。

 映像通話。

 魔法仮想文書の閲覧。

 家庭へ一気に広がった便利な入口。


 便利な入口は、記録も一気に集める。

 ここが怖い。


———

 夕方、リゼは遠話鏡の前で、妙な顔をしていた。

 鏡の向こうには、リゼの父、ヴァルンが映っている。

 相変わらず寡黙そうな顔で、手元には薄い商品券があった。


『そういえばな、リゼ。例の蒼帯通信社、昔うちも契約していただろう』


「してたっけ」


『してた。あの、やたら速い魔文便だ。お前がまだ小さかった頃だな』


「ああ、青い札面のやつ」


『そうだ。どうも、あれの契約者記録が漏れていたらしい』


 リゼの顔から、少しだけ笑いが消えた。


「お父さんの記録も?」


『らしい。名前と住所と契約番号と、遠話鏡番号と、契約の時期と、支払いの一部だそうだ』


「笑いごとじゃないからね」


『分かっている』


 ヴァルンは商品券を鏡の前へ持ち上げた。


『それで補償に、銀貨一枚分の商品券が届いた』


「……銀貨一枚」


『いるか。氷菓でも買ったらどうだ』


「自分で買うわよ」


『そうか』


「わたし、もう結婚してるんだけど」


『知っている』


「絶対、時々忘れてるでしょ」


『忘れてはいない。だが、父親というのは娘に氷菓を買わせたいものなんだ』


「漏れ記録の補償で?」


 ヴァルンは少し黙った。


『それはまあ、妙な味がしそうだな』


 軽口の形はしている。

 だが、声は少し低かった。


『銀貨一枚と言われると、どうにもな』


「うん」


『おれの名前や住所は、弁当ひとつ分だったらしい』


 遠話鏡の光が、少し白く見えた。

 リゼはすぐに返せなかった。


 銀貨一枚で氷菓は買える。

 弁当も買える。

 けれど、漏れた名前は戻ってこない。


———

 商務院の会議室は、紙と汗と冷めた茶の匂いがした。

 窓の外はまだ明るいのに、部屋の中だけ夜の入口みたいだった。

 商務院、消費者保護部門、王都魔術安全事故対応部。

 それぞれの担当者が、同じ紙を別の顔で見ている。


「民間会社の事件です。王城が直接口を出しすぎるのも問題です」


 商務院の役人が言った。


「ですが、規模が規模です。放置すれば、王国全体の通信服務への信頼が落ちます」


「つまり、技術事故ではなく、社会的事故になっているんですね」


「その整理が欲しかったのです」


 扉が開いて、マリエが入ってきた。

 細い銀縁の眼鏡。

 手には、すでに分厚い巻物。

 この人は、問題が発生する前から紙を用意していたのではないかと思う時がある。


「マリエさんも?」


「補償、通知、監督対応。こういう話で契約術務士を呼ばない方が怖いでしょ」


「私、補償額の専門家ではありませんよ」


「だから私もいるのよ」


 正しい。

 そして逃げ道がない。


 役人が、蒼帯通信社から出た資料を広げた。

 契約者氏名。

 住所。

 契約番号。

 遠話鏡番号。

 契約服務の種別。

 支払い記録の一部。

 契約開始時期。


 全部が一人の生活へつながっている。


「漏れた記録には、二つの価値があります」


 私は講堂で書いたのと同じ欄を、表示盤に作った。


「ひとつは、今すぐ売れる価値です」


 マリエが頷く。


「もうひとつは、将来、なりすましや偽案内に使える価値です」


「そして後者は、銀貨一枚では測りにくい」


 役人が唇を結んだ。


「実害がまだ見えていないものに、どこまで対応を求めるべきか」


「そこが難しいんです。漏れた直後は、被害が見えにくい。でも、記録は消えてくれない」


 部屋の隅で、別の担当者が小さく言った。


「会社側は、一律銀貨一枚相当で早く収めたいと」


 マリエの顔が険しくなった。


「この金額が、最初の相場になります」


「作ってしまうんですね。前例を」


 誰もすぐには否定しなかった。


 その銀貨一枚が、王国で最初の漏れ記録補償の相場になろうとしていた。


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