第164話 帰ってくる人
昼は、ひとりで簡単に済ませた。
おやつの時間が近づくころ、家の中には茶葉の匂いが広がっていた。
窓の外は、まだ明るい。
通りの声がゆるく続き、遠くで馬車の車輪が一度だけ鳴った。
扉の向こうで足音が止まる。
鍵が動く。
「ただいま」
ユウが帰ってきた。
外套に、少し埃が付いている。
顔は疲れている。
でも、朝よりは少しましだった。
そして、手に箱を持っていた。
「……これ」
「ケーキ!」
声が大きくなった。
仕方ない。
ケーキは大事だ。
ユウは少し笑う。
「埋め合わせ」
「ちゃんと戻った」
「戻るって言った」
「たぶんって言った」
「戻った」
「ぎりぎりね」
少し得意そうなのが、怪しい。
でも、ケーキがあるので許すことにした。
人は甘いものの前で、少しだけ許しやすくなる。
それはたぶん、よいことだ。
———
食卓に、ケーキを二つ並べた。
片方は白いクリームに薄い果物。
もう片方は、焼き色の付いた香ばしい菓子。
ユウは迷わず後者をこちらに寄せた。
「リゼ、こっち好きそう」
「分かってる」
「たぶん」
「そこは、分かってる、でいい」
「分かってる」
よし。
茶を淹れて、向かい合って座る。
休日の朝に途中で消えた人が、おやつの時間にケーキを持って帰ってくる。
怒る理由はまだある。
でも、怒り続けるほどではない。
「今日、街歩いてたんだけどね」
「うん」
「みんな、普通に使ってたよ」
「何を?」
「携帯術盤とか、小術とか。直し補助とか、品物の残りを見ることとか、配達の道筋とか」
ユウは少し手を止めた。
「そっか……」
その顔は、少し意外そうで、少し嬉しそうだった。
本人は隠しているつもりかもしれない。
隠せていない。
「子どもの玩具が壊れてね」
「うん」
「昔みたいに大騒ぎにならなかった。お母さんが携帯術盤で小術を開いて、何でできてるか見て、直し石に移して、直してた」
ユウは黙って聞いている。
「みんな、驚いてなかった」
「それは、すごいな」
「すごいよ」
わたしはケーキを一口食べた。
甘い。
香ばしい。
かなりよい。
「ユウが全部やったわけじゃないのは、分かってる」
「うん」
「でも、ユウが教えてたことが、街の中で普通になってた」
ユウは少し目を伏せた。
「それは、みんなが作ったからだよ」
「それも分かってる」
「うん」
「でも、最初に『分けて考える』とか『小さく試す』とか『失敗しても戻れるようにする』って言い出した人がいるでしょ」
「何人もいる」
「この世界で、わたしが最初に見たのはユウ」
ユウは、少し困った顔をした。
褒められるのが下手だ。
そこは、ずっと変わらない。
———
「今日は何してたの?」
聞くと、ユウは茶を持つ手を少し止めた。
「ちょっとした問題」
「ちょっとした問題で王城印の魔文が来る?」
「ちょっとしてない問題」
「正直」
「詳しいことはまだ言えない」
「分かってる」
分かっている。
住民記録の話は、街にも少しずつ広がっていた。
報導社の見出しも、役所前のお知らせも見た。
ユウがそこへ呼ばれたのだろう、ということくらいは分かる。
でも、家で全部を聞き出すつもりはなかった。
ユウが言えない時は、言えない。
そこを無理に開けるのは、鍵を壊すのと同じだ。
「外は、すごく平和だったよ」
わたしは言った。
「子どもは遊んでたし、商人は値段で揉めてたし、配達人は道を間違えそうになってた」
「いつもの王都だ」
「うん」
ユウは少しだけ笑った。
でも、その笑いはすぐ薄くなった。
「中は、そうでもなかったけどね」
その言い方だけで、だいたい分かった。
今日、ユウが見た場所は、わたしが歩いた街とは違う。
同じ王都なのに、違う場所。
表の通りではケーキが売られ、奥の部屋では誰かが眠らずに記録札を追っている。
子どもが玩具を直して笑っている間に、別の部屋では大人たちが怖いことを並べている。
どちらも王都だ。
———
「でもさ」
ユウがこちらを見る。
「ユウがやってることって、ああいう普通を守るためなんだよね」
「普通」
「子どもが泣いて、でもすぐ笑う。お母さんが小術を使える。商人が品物の残りを見られる。配達人が道を選べる。そういう普通」
ユウは黙っていた。
「王城とか術務室とか、難しいところでやってることは、わたしには全部は分からないけど」
「うん」
「でも、今日見た街は、ユウたちが守ってるものなんだと思った」
ユウは少し考えた。
それから、いつものように少しだけ逃げた顔をした。
「守るっていうか……」
「うん」
「壊れにくくしてるだけかな」
「それ、守ってるって言うんじゃない?」
「そうかもしれない」
前にも似たことを言っていた。
便利にしたというより、壊れにくくしただけ。
ユウはいつも、すごいことを少し低く言う。
だから、わたしが少し高く言っておきたくなる。
「それでも、十分すごいよ」
ユウが、分かりやすく照れた。
「ありがとう」
「はいは一回でいい」
「まだ一回だよ」
「ならよい」
ルドー先生の真似をしたら、ユウが笑った。
笑えたなら、今日はそれでいい。
———
ケーキを食べ終えるころには、午後の光が少し傾いていた。
窓の外では、街の人たちがまだ明るい石畳を行き交っている。
遠くで誰かが笑い、近くの家で皿を重ねる音がした。
ユウは疲れていた。
でも、少しだけ肩の力が抜けている。
わたしも、朝の不満はだいぶ薄れていた。
ケーキの力は強い。
それだけではないけれど。
この世界は、少しずつ変わっている。
ユウがいないところでも。
ユウが見ていない場所でも。
壊れた玩具が直る。
品物の残りが分かる。
道が選べる。
不安な時に、聞きに行ける窓口がある。
どれも小さい。
けれど、小さいものが積もると、人の一日は変わる。
泣く時間が短くなる。
迷う時間が短くなる。
できないと思っていたことに、少し手が届く。
ユウは、それを全部自分のものにはしない。
たぶん、これからもそうだ。
だから、わたしが覚えておこうと思った。
この人がいないところで、どんな普通が増えていたかを。
帰ってきた時に、ちゃんと話せるように。
窓の外の王都は、穏やかだった。
その穏やかさが、前より少しだけ大事に見えた。




