第163話 ユウのいない休日
休日の朝は、少しだけ音が薄い。
通りの荷車は少なく、隣家の窓を開ける音も遅い。
台所には焼いたパンの匂いと、昨日の残りの野菜汁を温め直す湯気があった。
ユウは食卓の向こうで、ぼんやり茶を飲んでいた。
目の下に、うっすら疲れが残っている。
昨日まで王城や術務室に呼ばれていた人の顔だ。
「今日は休みだよね」
「休みのはず」
「はず、って言った」
「休み」
「言い直した」
ユウは少し笑った。
こういう朝は悪くない。
結婚してから、家の空気が少し変わった。
前は、ユウがいると少し不思議な客がいる感じだった。
今は、そこにいるのが普通になっている。
普通。
それは、わりとすごいことだと思う。
その時、机の端に置いた携帯術盤が震えた。
薄い光が走る。
王城印。
ユウの顔が、少しだけ変わった。
「……あー」
「あー、じゃない」
「ごめん。ちょっと行ってくる」
「えー……」
「おやつの時間までには戻る。たぶん」
「また、たぶんって言った」
「戻る」
ユウは立ち上がり、外套を取った。
迷う時間が短い。
そういうところは、ずるい。
「ごめん」
「帰ってきたら、埋め合わせ」
「分かった」
そう言って、ユウは出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
家の中が、急に静かになった。
———
茶を飲み終えて、皿を片づけた。
机を拭いた。
窓を開けた。
小さな埃を見つけて、棚を少し拭いた。
それで終わった。
やることがない。
「……ひま」
声に出すと、思ったより間抜けだった。
誰も聞いていなくてよかった。
ユウがいない休日。
最初は、少しむくれていた。
でも、家の中でむくれていても、机は増えないし、時間も早くならない。
外へ出よう。
そう思った。
外套を羽織り、戸締まりを見て回る。
結婚してから、戸締まりを見る回数が少し増えた気がする。
大事なものが増えると、鍵を見る目も少し変わる。
———
王都の街は、いつもの休日だった。
市場の軒先には果物が並び、菓子屋から甘い匂いが流れている。
小さき幻獣たちの札絵を持った子どもが、路地を走っていく。
遠くで、乗合馬車の御者が短く声をかけた。
平和だった。
少なくとも、見えるところは。
角を曲がったところで、小さな泣き声がした。
女の子が、木の玩具を抱えて立っている。
馬の形。
胴のところが割れていた。
胸が、少しきゅっとした。
昔、似た景色を見た。
もっと前。
ユウがこの世界へ来てすぐの頃。
壊れた玩具を前に、先生も大人も困って、子どもが泣いていた。
直す魔法は難しくて、詠唱は長くて、少し間違えると余計に壊れた。
あの時、わたしは思った。
魔法はあるのに、どうしてこんなに大変なんだろう。
でも、今は違った。
女の子の母親らしい人が、慌てずに携帯術盤を取り出した。
小さな札面を開く。
直し補助の小術。
割れた部分を札面にかざす。
「ここ、木。ここ、金具。ここは塗り」
母親がひとつずつ見ながら、指で印を置く。
小術が淡く光る。
小さな直し石に術が移り、割れ目がゆっくり寄った。
元どおり、とはいかない。
少し跡は残った。
でも、馬の形に戻った。
女の子は泣き止み、すぐに笑った。
「なおった」
「よかったね」
母親も笑った。
周りの大人も、少しだけ見て、すぐ自分の買い物へ戻った。
誰も驚いていない。
わたしだけが、立ち止まっていた。
「……みんな、普通に使ってる」
声は小さかった。
でも、自分の耳にはよく聞こえた。
———
歩いていると、似たものがいくつも目に入った。
八百屋の店主が、棚の裏に置いた携帯術盤を見ながら品物の残りを数えている。
足りない野菜には小さな赤印。
明日まで持つものには青印。
昔なら帳面と記憶でやっていたことだ。
配達人は、荷物札を並べて道筋を見ていた。
王都中央乗合馬車広場の混み具合も見て、遠回りのほうが早いと出たらしい。
配達人は少し嫌そうな顔をしてから、道を変えた。
小さな染め物工房では、若い職人が色合わせの小術を使っていた。
布切れを札面にかざし、近い色を探す。
隣の年配の職人が、まだ少し疑わしそうに見ている。
でも、止めない。
どれも、派手ではない。
街を変える大きなできごとでもない。
ただ、少し楽になっている。
少し失敗しにくくなっている。
少しやり直しやすくなっている。
昔は、わからないが当たり前だった。
分からないから、先生を呼ぶ。
先生も困る。
詠唱が長すぎて、途中で間違える。
失敗したら、もっと壊れる。
今は、少し調べれば入口がある。
小術が、順番を分けてくれる。
赤灯や緑灯が、いま危ないかどうかを教えてくれる。
それでも失敗はするけれど、最初から全部を背負わなくていい。
ユウが全部やったわけじゃない。
そんなことは分かっている。
でも、ユウが学校で話したこと。
術務室で分かりやすく並べたこと。
誰かが聞いて、別の誰かに伝えて、工房が形にして、商人が売って、親が使う。
ユウの手が届いていないところで、ユウが教えたことが動いている。
それが、少し不思議だった。
そして、少し誇らしかった。
———
広場の端で、男の子が携帯術盤を睨んでいた。
小さな木の鳥を持っている。
羽根の金具が外れたらしい。
さっきの女の子と違い、こちらは自分で直そうとしている。
札面には、直し補助の小術。
でも、赤灯が出ている。
「どうしたの」
声をかけると、男の子は少し身構えた顔をした。
それから、わたしの学校の徽章を見て、少しだけ安心したらしい。
「これ、金具のところが赤になる」
「見せて」
携帯術盤を覗く。
木のところにも、金具と同じ印が付いていた。
たぶん、近くにある金具を広く拾いすぎている。
「ここ、羽根の木の部分まで金具って見てる」
「どうするの」
「先に、金具だけを指で囲って。木は別にしてあげて」
男の子は少し迷いながら、指の囲いを直した。
赤灯が消える。
緑灯。
「あ」
「すぐ動かさないで。羽根が曲がってるから、ここをまっすぐにしてから」
「こう?」
「そう」
淡い光が流れ、羽根が戻った。
木の鳥を振ると、からからと小さな音がした。
男の子が笑う。
「ありがとう」
「次は、赤灯が出たら、何が赤なのか先に見てあげるんだよ」
「うん」
男の子は走っていった。
わたしは、その背中を少し見送った。
今のは、たぶんユウならもっと上手く説明する。
でも、わたしでも少しはできた。
それもまた、不思議だった。
———
昼は、ひとりで簡単に済ませた。
おやつの時間が近づくころ、街の光が少しやわらかくなった。
菓子屋の前で足を止める。
窓には、丸い菓子が並んでいた。
白いクリームを使った小さなケーキ。
ユウが好きそうな、甘すぎないものもある。
買おうか迷って、やめた。
帰ってくるなら、一緒に買いに来ればいい。
帰ってこなかったら、少し腹が立つ。
携帯術盤が震えたのは、その時だった。
ユウ
終わった。もうすぐ帰る。
「ほんとに戻るんだ」
思わず声が出た。
近くの店主がこちらを見たので、少しだけ頭を下げる。
約束どおり。
それが嬉しい。
少し悔しいけれど。
わたしは家へ向かって歩き出した。
途中で、さっきの女の子が直った馬の玩具を抱えて走っていくのが見えた。
男の子の木の鳥も、別の子どもの手元でからから鳴っていた。
王都は、いつもの休日だった。
でも、朝に見た時より、少しだけ違って見えた。
ユウがいないところでも、世界は少しずつ変わっている。
そのことを、今日は一人で見た。




