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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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162/258

第162話 見えない戦場

 王都術務室の朝は、昨夜のまま続いていた。

 窓の外では市場の荷車が動き始めている。

 中では、冷えた茶、乾いた筆、寝不足の目、赤灯の表示盤。


 街は朝を迎えている。

 術務室だけが、夜を持ち越していた。


 魔安対のカナメは、声を荒げなかった。

 それが逆に怖かった。


「影響範囲を三つに分けます」


 表示盤に、彼女は書いた。


読まれた可能性が高い記録

読まれたかもしれない記録

今のところ痕跡がない記録


「確定していないものを、確定のように言わないでください。ただし、可能性を小さく見せてもいけません」


 現場の主役は、私ではなかった。

 それでいい。


 私は隣で、散らばった情報を並べ直す役である。

 後ろに立つ者の仕事は、時々とても地味だ。


———

 カナメたちは、記録札を追った。

 人別台帳の読み取り。

 人物根への照会。

 住民資格の確認。

 外文路へ向かった細い文の束。

 踏み台継ぎの先。

 消された記録の欠け。


 セシルは術盤の状態を見ていた。

 マリエは関係者連絡と発表文の未確定表現を整理していた。

 リゼは支援班の机で、住民向け説明の文案を読み比べている。


「ユウさん」


 カナメが言った。


「全体の構造を、関係者向けに短く整理できますか」


「はい」


 私は表示盤の前に立った。

 派手な解決策はない。

 あるのは、問題を分けることだけだ。


「今回の問題は、三つに分けられます」


 表示盤に書く。


一、人的要因

二、術を動かす場

三、検知と封じ込め


「一つ目。人的要因。エイダさんは転職活動中に、外部から渡された術能力試験を受けました。これは責めるだけでは足りません。そういう試験が来ること、焦って動かす人が出ることを前提にする必要があります」


 エイダは端で俯いていた。

 私はそちらを見すぎないようにした。


「二つ目。術を動かす場。人別台帳を扱う術盤で、外部術式を動かせてしまった。さらに、その術盤は広い読み取り権限と外文路を持っていた」


 表示盤に、鍵束を描く。


「三つ目。検知と封じ込め。振る舞い見張り札は、外へ喋る動きを見つけました。隔離も動いた。ここは機能しています。ただし、見つけた時点で、どこまで読まれていたかは別問題です」


 部屋が静かになった。


 この手の話で一番つらいのは、守りが働いたことと、被害がなかったことが同じではない点である。

 赤灯が点いた時には、もう火が回っている場合がある。


———

 再発防止の話に移ると、空気が少し現実へ戻った。

 恐怖だけでは人は動けない。

 手順が必要になる。


 私は表示盤に三つの欄を作った。


技術

運用

検知


「技術から。客前庭で外部術式を動かさない。外部試験は隔離場で動かす。必要な札だけ渡す。外文路は原則閉じる。人別台帳へ近づけない」


 セシルが頷く。


「限定印を細かくします」


「はい。住民資格を見る仕事に、人物根の全履歴を読ませない。読み取りと変更の印も分ける」


 私は次の欄を指した。


「運用。転職活動を禁止する話ではありません。人は転職します」


 何人かが微妙な顔をした。

 役所でこの話をすると、空気が少し硬くなる。


「ただし、外部から来た試験術式をどう扱うか、明確にする。役所の術盤で動かさない。困った時に相談できる窓口を作る。叱られるのが怖くて隠す方が危ない」


 マリエが書き取る。


「相談窓口、匿名の初回相談、懲戒判断とは分ける」


「それがよいです」


「最後に検知。振る舞い見張り札を強化します。ただし、見張りに頼りきらない。記録札を改ざんされにくい場所へ写す。外見張りも持つ。異常時に、誰が何を止めるかを訓練する」


 カナメが短く言った。


「事故対応訓練も入れます」


「お願いします」


 主導は彼女たちだ。

 私は、構造を見える形にしただけである。


———

 昼過ぎ、被害範囲の仮まとめが出た。

 読まれた可能性が高いのは、住民資格の一部と、人物根に結びつく基本項目。

 婚姻、後見、相続の深い関係までは、今のところ外へ出た痕跡がない。

 ただし、痕跡がないことは、絶対に出ていないことではない。


 この言い方は、ひどく不親切に聞こえる。

 だが、正直だった。


 王都報導社へ出す文案を、リゼが読み上げた。


「一部の住民記録が外部へ出た可能性があります。現在、魔安対が影響範囲を調べています。該当する可能性のある方へは、個別に知らせます」


 彼女は眉を寄せる。


「これ、読んだ人は怖いよ」


「怖いと思う」


「でも、怖くないように書いたら嘘になる」


「そう」


「じゃあ、怖いけど、何をすればいいかも書くべき」


「その通り」


 リゼは文案に書き足した。


個別の知らせが届くまで、偽案内の魔文に注意すること。

王都から金銭や秘印を求める魔文は送らないこと。

不安がある場合は、住民通知所の確認窓口へ問い合わせること。


 生活者の視点は、こういう時に強い。

 不安を消すのではなく、不安の置き場を作る。


———

 夕方、ラドゥルが術務室へ戻ってきた。

 鎧の肩には、街の埃が少し付いている。


「市中は」


 カナメが聞いた。


「騒いではいる。だが、暴動ではない」


 ラドゥルは表示盤を見る。


「国家規模の関与か」


 カナメは少し間を置いた。


「疑います。断定はしません」


「魔王か」


 部屋の空気が沈んだ。


 私は言葉を選んだ。


「断定はできません。でも、この構造なら、誰でも国家規模の被害を出せます」


「誰でも、か」


「準備があり、踏み台継ぎがあり、人の焦りを突けるなら」


 ラドゥルは腕を組んだ。


「剣では止めにくい」


「はい」


 剣で斬れる敵は、まだ分かりやすい。

 斬れない敵は、境界線そのものを曖昧にする。


———

 カナメが、最後の確認会を始めた。


「当面の封じ込め。該当術盤は隔離継続。外文路は制限。似た術式を受け取った職員の申告を受けます」


 セシルが続ける。


「人別台帳まわりの広すぎる印を棚卸しします。住民資格確認、人物根照会、外文送信を分けます」


 マリエが言う。


「公表文、問い合わせ窓口、該当者への個別通知、再発防止計画を進行帳に分けました。未確定事項は未確定として出します」


 私は、表示盤の欠けた記録札を見ていた。


 問題は、侵入されたかどうかじゃない。


 声に出すと、部屋が止まった。

 私は続ける。


「どこまで気づいていない侵入があるかです」


 誰もすぐには話さなかった。


 それが、この話の一番重いところだった。


 今回見つかった術盤だけで済むのか。

 別の職員にも同じ試験術式が届いていないか。

 過去の認め札がどこかで使われていないか。

 古い記録札が、すでに消されていないか。


 完全に安心できる答えはない。


———

 夜、家に戻ると、台所の灯りが少しだけ眩しかった。

 外の冷たい空気を吸いすぎたせいかもしれない。

 鍋の湯気が上がり、香草と根菜の匂いがした。


 リゼは、私の顔を見て言った。


「ひどい顔」


「自覚はある」


「ご飯、食べる?」


「食べる」


 椀を受け取る。

 温かい。

 それだけで、少し戻ってくるものがある。


 リゼは向かいに座った。

 しばらく黙って、それから言う。


「……じゃあ、安心できる日は来るの?」


 私はすぐに答えられなかった。

 嘘は言いたくない。

 慰めだけなら簡単だ。

 だが、リゼは慰めより現実を先に聞く人だ。


「完全には無理だ」


「やっぱり」


「人がいる限り、必ず起きる。焦る人もいる。騙す人もいる。守りを抜ける術式も出る」


 リゼは椀を見た。


「家で言うと、泥棒を絶対に入れない家は作れない?」


「そう」


「でも、鍵を増やす。部屋ごとに分ける。変な音がしたら気づく。盗まれたものが分かるようにする」


「かなり近い」


「あと、家族が失敗しても、隠さず言えるようにする」


「それがかなり大事」


 リゼは小さく頷いた。


「怖いね」


「怖い」


「でも、怖いって言える方がまし」


「そう思う」


———

 翌朝、王都の街は日常へ戻り始めていた。

 市場は開き、乗合馬車は走り、子どもたちはまた幻獣札を交換している。

 ただ、役所の前には相談窓口の案内が増えた。

 住民通知所には確認用の列ができた。

 報導社は、昨日より少し慎重な見出しを出していた。


 表面上は、復旧している。

 だが、空気は少し違う。


 王都は、門だけを守ればよい街ではなくなっていた。

 もしかすると、ずっと前からそうだったのに、私たちが気づいていなかっただけかもしれない。


 ラドゥルが、術務室の窓から街を見て言った。


「剣のいらない戦争か」


「こっちの方が厄介ですね」


 剣を抜かない戦い。

 火も煙も上がらない侵入。

 人の焦りと、権限の広さと、見えない文路を使う敵。


 完全には防げない。

 だから、起きる前提で作る。

 小さく分け、気づけるようにし、止められるようにし、隠さず話せるようにする。


 安心は、壁の高さだけでは作れない。

 気づける状態。

 戻れる手順。

 怖いと言える場所。


 それらを、地味に積むしかない。


 魔王軍は、今日も門には現れなかった。

 だが、戦場はもう、門の前だけではなかった。


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