第161話 静かな侵入
王都は、妙に平和だった。
朝の通りには、パンを焼く匂いがある。
乗合馬車の車輪が石畳を鳴らし、子どもたちは小さき幻獣たちの札絵を交換している。
昨日も今日も、南の関門から急使は来ていない。
平和はよい。
だが、あまりに平和だと、人間は逆に不安になる。
特に、過去に魔王軍が普通に攻めてきた世界では。
魔法学校の門の前で、鎧姿の男が待っていた。
ラドゥルだった。
「お久しぶりです」
「ユウ殿」
ラドゥルは軽く頷き、それから南の空を見た。
「静かすぎる」
「平和なのは、よいことでは」
「よい。だが、敵が消えたとは限らん」
短い言葉ではなかった。
ラドゥルにしては、かなり長い。
「魔王軍は動いていない。だが、諦めた顔にも見えん」
私は答えを探した。
見つからない。
戦場に立つ人間の違和感は、表示盤より早いことがある。
最悪だ。
———
講堂では、朝の光が高い窓から斜めに入っていた。
学生たちは眠そうな顔で筆記札を開く。
リゼは前列で、少しだけこちらを見た。
昨日の夜、仕事を早めに切り上げる約束をしたばかりである。
私は今日こそ普通の講義で終えたい。
そう思う日はだいたい終わらない。
ルドーが講壇に立つ。
「外の術式とは」
短い。
前列の学生が答えた。
「便利な部品です」
「足りん」
別の学生。
「他人の知恵です」
「近い」
さらに別の学生。
「試せば分かります」
「危うい」
ルドーは私を見た。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
また言った。
最悪だ。
私は表示盤に三つの箱を書いた。
客前庭
隔離場
外から渡された術式
「外から渡された術式を、いきなり客前庭で動かしてはいけません」
学生たちが頷く。
これは分かりやすい話に見える。
見えるだけである。
「理由は二つあります。一つ、術式が何をするか分からない。二つ、動かす人が、自分の持つ印を術式へ渡してしまうことがある」
表示盤に鍵を描く。
「術式は、動かした場所の扉を開けられる場合があります。住民台帳を読める術盤で動かせば、住民台帳を読めるかもしれない。外へ文を送れる術盤で動かせば、外へ文を送れるかもしれない」
リゼが言った。
「家で言うと、知らない料理人を台所に入れるだけじゃなくて、家の鍵束も渡してる感じ?」
「かなり近い」
「しかも、冷蔵庫も金庫も開く鍵」
「そう」
「だめ」
「だめ」
公的な場なので敬体で返した。
リゼは少しだけ笑った。
「だから、隔離場で動かす。必要な札だけ渡す。外へ喋る道を絞る。何を読んだか、何を触ったか、記録札に残す」
表示盤に、さらに書く。
知らない術式を、信じるな。
信じなくても使える形にしろ。
ルドーが短く言った。
「現場」
「まだ、何も起きていません」
「起きた」
講堂の扉が開いた。
王都術務室の使いが、青い顔で立っている。
「王都人別台帳の術盤が、勝手に外へ喋っています」
講堂が静かになった。
今日の講義は、終わった。
現場が始まった。
———
王都術務室は、静かな混乱で満ちていた。
叫び声はない。
だが、紙をめくる音が速い。
廊下を走らないぎりぎりの足音が続く。
表示盤の赤灯が、壁に薄く反射している。
困惑と諦め。
今回は、それに恐怖が混じっていた。
セシルが表示盤の前で待っていた。
マリエもいる。
リゼは政務術式支援班の見習いとして資料束を抱えていた。
「該当術盤は隔離しました」
セシルが言った。
「振る舞い見張り札が発動し、外向きの文路を塞いでいます」
「何を見たんですか」
「人別台帳から、通常より広い読み取り。直後に、外の中継点へ細かく分けた文を送ろうとしました」
細かく分ける。
一度に運ばない。
目立たないように、少しずつ外へ出す。
嫌なやり方だった。
「術盤が……勝手に外に喋ってた?」
若い術務担当が呟いた。
顔が青い。
年は私と近いか、少し下だろう。
「担当者は」
マリエが進行帳を開く。
「エイダさんです。住民資格の確認作業をしていました」
若い術務担当が肩を震わせた。
「私です」
声が小さかった。
人間は、自分が原因かもしれない事故の前で急に小さくなる。
責める前に、事実を拾わないといけない。
「何をしましたか」
私はできるだけ平らに聞いた。
「その……転職活動をしていまして」
部屋の空気が、少しだけ止まった。
「面接先から、術能力試験を渡されました。短い術式を直して、結果を返してほしいと」
「どこで動かしましたか」
エイダは唇を噛んだ。
「自分の術盤で」
「人別台帳を扱う術盤ですね」
「はい」
私は内心で頭を抱えた。
あー。
やったなこれ。
声には出さない。
出しても何も直らない。
「外部から渡された術式を、本番に近い術盤で実行したんですね」
エイダは俯いた。
「すぐ終わると思って」
「それ、ほぼ鍵を渡したのと同じです」
エイダの顔がさらに白くなった。
「今は責めません。いつ、どの札面から、誰に渡され、何を動かしたかを全部書いてください」
リゼが小声で聞いた。
「今もあるの?」
「なにが」
「術盤じゃなくて術者に問題がある、みたいな言い方」
「ずっとある」
「嫌な長寿」
「本当に嫌だ」
ただし、今回はそれだけでは済まない匂いがした。
———
隔離された術盤の記録札は、薄かった。
薄すぎる。
外へ文を送ろうとした跡はある。
だが、その前に何を読んだか、どの術式がどの順で動いたかが、ところどころ抜けている。
セシルが眉を寄せた。
「痕跡消しが入っています」
「外部試験の術式に、そこまで」
「普通はありません」
王都魔術安全事故対応部、通称、魔安対が到着したのは、その時だった。
灰色の外套を着た数人。
足音が静かだった。
先頭の女性は、黒い髪を後ろで束ねている。
「魔安対、カナメです」
声は低く、落ち着いていた。
「該当術盤へ触る者を限定してください。記録札の写しを二重に取ります。外文路の封鎖は維持。関係者への説明は、推定ではなく確認済みの事実だけにしてください」
現場の空気が変わった。
焦りが少し減り、手順が立ち上がる。
カナメは表示盤を見て、言った。
「これは事故ではありません。侵入です」
その一言は、部屋の温度を下げた。
———
王都報導社の号外は、夕方前に出た。
国家情報流出か
王都術務室の失態
住民記録、一部外部流出の疑い
文字だけで人を刺せるなら、新聞はかなり鋭い武器である。
人別台帳のどこまでが読まれたのか。
人物根や住民資格の記録に触れたのか。
婚姻、後見、相続の関係は含まれるのか。
まだ分からない。
分からないことが、人を一番怖がらせる。
カナメたちは、記録札を分けて調べていた。
外へ出ようとした文は、いくつもの中継点へ向けられている。
踏み台継ぎ。
一つを塞いでも、別の継ぎ先へ逃げる形だった。
「個人の間違いだけでは説明がつきません」
カナメが言った。
「術式の隠し方、文路の分け方、痕跡消し。用意が良すぎます」
マリエが進行帳の手を止める。
「では、前から準備されていた可能性が」
「あります」
部屋が静かになった。
以前、王都の認め方を見直した時の話を、私は思い出していた。
問い札。
応答印。
秘印を体外へ出さない仕組み。
あれは、秘密を盗まれにくくするための話だった。
だが、術者本人が本番術盤で外の術式を動かすなら、別の穴が開く。
認め方が強くても、認めた後の場所が広すぎれば、術式はそこを歩ける。
最悪だ。
———
夜に近い時刻、新大陸から別の報せが入った。
魔文に書かれていた内容は、妙に軽く、妙に怖かった。
面接先から術能力試験を送られた候補者が、最後にこう求められたという。
魔王を侮辱する一文を唱えよ。
候補者は拒否した。
その後、面接先の札面は消えた。
リゼが報せを見て、顔をしかめる。
「なにそれ……」
「あれ言えるの、もう切る覚悟がある時なんだよ」
「試験じゃなくて踏み絵?」
「かなり近い」
誰が作ったのかは分からない。
だが、相手の国や勢力を侮辱できるかどうかで、裏にいる者を見分けようとする。
現実味が嫌だった。
ラドゥルが、いつの間にか部屋に来ていた。
鎧の音が小さい。
「魔王軍は動いていない」
ラドゥルは表示盤を見た。
「だが、戦っていないわけではない」
私は、外の暗い窓を見た。
剣も槍も見えない。
門前に敵兵もいない。
「……もう始まってる、ってことですか」
誰も、すぐには答えなかった。
静かな侵入は、音を立てない。
そして、気づいた時には、もう終わっているかもしれない。




