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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
術負け病編

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157/258

第157話 仕組みだけでは人は生きていけない

 魔法学校の朝は、いつも通り騒がしかった。

 講堂へ向かう学生の足音。

 庭で術を試す小さな爆ぜ音。

 廊下の端で、誰かが朝食を食べ損ねた顔で筆記札を抱えている。


 いつもの朝だった。


 ただし、リゼだけがいつも通りではなかった。

 口元が、少し上がっている。

 本人は隠しているつもりらしい。

 隠せていない。


 人類は幸福を隠すのが下手だ。

 特に、隠す気が少ししかない時は。


———

「リゼ、なにその顔」


 講堂の入口で、ミナが足を止めた。

 第百二話で魔法映話室の外見え事故を起こし、リゼに相談してきた学生である。

 あの時は青い顔をしていたが、今は完全に友人をからかう顔だった。


「な、なにって」


「昨日からずっと、口元が勝手に上がってるけど」


「上がってない」


「上がってる」


 ミナはリゼの手元を見た。

 そこには、教会へ提出する婚姻式の控え札があった。

 リゼは慌てて隠す。

 遅い。


「えっ、待って」


「待って」


「まさか、結婚するの?」


「声が大きい」


 大きかった。

 講堂の前列が振り向く。

 後列も振り向く。

 廊下の向こうからも学生が顔を出す。


 王都住民通知所の送文より速い。

 人間は噂の配送だけ異様に強い。


「リゼが結婚するって」


「ユウ先生と?」


「本当?」


「式はいつ?」


「リゼ、顔赤い」


「赤くない」


 赤かった。


 巨大記録基盤更改の切替判定会より、こっちの方が緊張する。

 切替判定会では、少なくとも学生全員に祝福されながら見られることはなかった。


 たぶん。


———

 騒ぎを聞きつけて、ルドーが講堂へ入ってきた。

 学生たちが少し静かになる。

 ルドーは私とリゼを見た。


「ほう」


「先生」


「ようやくか」


「ようやく、とは」


「見れば分かる」


 ルドーは短く言った。

 それから、少しだけ真面目な顔になった。


「ユウ」


「はい」


「君はこの世界に来て、多くの仕組みを変えた」


 講堂が静かになった。


「だが、仕組みだけでは人は生きていけない」


 ルドーはリゼを見る。


「共に生きる相手を見つけたのなら、それは何よりだ」


 短い。

 だが、重い。


「ありがとうございます」


「はいは一回だ」


「まだ一回です」


「ならよい」


 学生たちが笑った。

 リゼは少し下を向いていた。

 嬉しそうだった。


———

 結婚式は、魔法学校の出資母体でもある教会で行われることになった。

 教会といっても、宗教色だけが強い場所ではない。

 学校、医療、福祉、孤児院、災害支援。

 王都の公益を広く支える組織である。


 式場は古い石造りだった。

 高い窓から光が入り、床に淡い模様を落としている。

 花は多すぎず、香りも控えめだった。


 助かった。

 花の匂いまで強いと、私の緊張が外から見えるところだった。


 参列席には、見覚えのある顔が並んでいた。


 ルドー。

 リゼの父ヴァルン、母ミレア、弟ノル。

 ミナをはじめとする学生たち。

 王都術務室のセシル。

 進行管理役のマリエ。

 過去に世話になった宿屋の主人。

 魔法映話室を扱う工房の関係者。

 報導社の記者らしき人物も、端の席にきちんと座っていた。


 私は少しだけ嫌な予感がした。

 明日の紙面に、妙な見出しが踊らないことを祈る。


———

 マリエが、式の前に小さく近づいてきた。

 細い銀縁の眼鏡の奥で、いつも通り落ち着いた目をしている。


「ユウさん、今日は計画巻物なしで進行しているんですね」


「結婚式にまで進行表を持ち込まないでください」


「少し安心しました」


「持っていると思われていたんですか」


「可能性は見ていました」


 ひどい。

 だが、完全には否定できない。


 マリエはリゼへ向き直った。


「リゼさん、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「今日だけは未解決事項一覧を持たなくていい日です」


「少し持ちたい気持ちはあります」


「分かります」


 分からないでほしい。


———

 扉の前で待つ時間が、いちばん長かった。

 実際には、たぶん数分である。

 だが、数分は人を裏切る。


 正面の扉が開くと、白い布の敷かれた通路が奥まで伸びていた。

 左右の席から、参列者が一斉にこちらを見る。

 窓から差す光の中で、小さな花びらがゆっくり落ちた。


 先に歩いたのは、花籠を持った教会の子どもたちだった。

 緊張しているのか、花びらの量が左右でかなり違う。

 片側だけ春の暴風みたいになっている。


 それでも、誰も笑わなかった。

 いや、ミナだけは少し肩を震わせていた。

 後で覚えておく。


 リゼは、白い衣装を着ていた。

 派手な装飾は少ない。

 けれど、袖口の刺繍と、淡い薄布のヴェールがよく似合っていた。


 父ヴァルンに手を引かれ、リゼがゆっくり進んでくる。

 一歩ごとに、参列席が静かになっていった。

 私は、どこを見ればよいのか分からなくなった。


 たぶん、リゼを見ればよかった。

 それ以外の正解はない。


 ヴァルンが私の前で足を止め、リゼの手をそっと渡した。

 短い所作だった。

 だが、その手の重みで、今日が本当に始まったのだと分かった。


 式は静かに進んだ。

 教会の司式者が、二人の名を読み上げる。

 私の名前。

 リゼの名前。


 王国式の誓いは、難しいものではなかった。


「相手を所有せず、相手の身を軽んじず、病や貧しさや変化の中でも、話し合うことを捨てないと誓いますか」


「誓います」


「誓います」


 たいへん現実的だった。

 愛を語る前に運用条件が出てくるあたり、私には向いている。


 リゼがこちらを見た。

 普段より少しだけ緊張している。

 だが、逃げる顔ではない。


「ユウ」


「なに」


「手、冷たい」


「緊張してる」


「知ってる」


 小声だった。

 それだけで、少し落ち着いた。


 私たちは誓いの言葉を言い、細い銀の指輪を互いの指に通し、教会の婚姻証明に名を記した。

 拍手が起きた。

 大きすぎず、けれど温かかった。


 リゼが笑った。

 私はたぶん、少し変な顔をしていた。


———

 式の後、教会の庭で参列者に挨拶をした。

 ノルが真っ先に寄ってくる。


「姉ちゃん、本当に結婚したんだ」


「本当にって何」


「いや、ユウさんの話ばっかしてたから、いつかするとは思ってたけど」


「ノル」


「おめでとう」


 リゼは少しだけ口を尖らせ、それから弟の頭を軽く叩いた。

 ノルは笑って逃げた。


 ヴァルンは、私に短く言った。


「娘を頼む」


「はい」


「九八式もな」


「そちらもですか」


「重要だ」


 ミレアが横から笑う。


「あなた、順番を間違えないで」


 家庭である。


———

 教会の門を出たところで、鎧姿の男がこちらへ歩いてきた。

 見覚えがある。

 王国軍指揮官、ラドゥルだった。


「お久しぶりです、ユウ殿。リゼ殿も、おめでとうございます」


「ラドゥルさん。お久しぶりです」


 ラドゥルは、以前より少し穏やかな顔をしていた。

 戦場で見た時より、肩の力が抜けている。


「ユウ殿が魔王軍を見事に返り討ちにしてくださってから、王国は妙に平和になりましてな。あれから、魔王軍は一度も王国に攻め入っておりません」


「それは、いいことでは」


「ええ。最近の我々は、災害対応や輸送支援ばかりです。兵としては拍子抜けですが、国としては、実によいことです」


 ラドゥルは笑った。

 私も頷いた。


 魔王軍が、諦めた。

 本当に、そうなのだろうか。


 胸の奥に、小さな引っかかりが残る。

 だが、今日は深追いしない。

 結婚式の日に、世界の不穏を掘り返すものではない。


———

 夕方、教会からの帰り道を、リゼと二人で歩いた。

 石畳の上に、長い影が伸びている。

 式で使った花の香りが、まだ袖に少し残っていた。


 リゼは、何度か自分の指を見ていた。

 嬉しそうだ。

 隠す気は、あまりなさそうだった。


「これで、夫婦なんだね」


「いや、たぶん法的にはまだです」


「え?」


「役所で登録しないと」


 リゼが足を止めた。


「……今日、式をしたのに?」


「教会の婚姻証明はある。でも、王都の人別台帳にも登録しないと、税や住民票や相続や役所の扱いがつながらないと思う」


「急に現実」


「結婚もまた運用だから」


「それ、ルドー先生の言葉でしょ」


「正しい言葉は再利用する」


 リゼは少し笑い、それからため息をついた。


「じゃあ、明日役所?」


「明日役所」


 結婚式の翌日に役所。

 たいへん現実的である。


 そして、現実的な手続きほど、たいてい何かが起きる。

 私はまだ、それを知らなかった。


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