第156話 体験版
リゼの父、ヴァルンが奥の部屋から持ってきたものは、箱だった。
ただし、ただの箱ではない。
厚みがあり、角ばっていて、持ち上げるだけで腰に悪そうな灰色の箱である。
大事に手入れされているのは分かった。
表面は古いが、埃はない。
角には小さな傷がある。
長く使われた道具の傷だった。
「九千八百式個人用術盤だ」
父は、短く言った。
九千八百式。
いや、名前が近すぎる。
たまたまにしては、妙に嫌な近さだった。
———
父は九八式を机に置き、記憶石を差し込んだ。
小さな起動音が鳴る。
表示鏡に、粗い文字が浮かんだ。
今の術盤に比べれば遅い。
線も荒い。
だが、文字の並びが妙に美しい。
「現代の術盤とは、あまり合わない」
父が言う。
「この頃の術盤は、作りが独特でな。表示の仕方も、記憶石の読み方も、入力盤の扱いも違う」
「互換性が低いんですね」
「そうだ」
父が少しだけ嬉しそうに頷いた。
リゼの弟、ノルが小声で言う。
「父さん、昔からこれの話になると長いんだよ」
「知ってる。子どものころから聞いてる」
リゼも諦めた顔をしている。
母のミレアは茶を置きながら言った。
「あなた、その話、まだするの?」
「重要な話だ」
「毎回そう言うわね」
「毎回重要だからだ」
家庭である。
———
父は棚から古い記憶石の箱をいくつも出した。
紙箱は色褪せ、角が少し潰れている。
中には、極東島国から来たという遊戯も混じっていた。
「王都の魔法横丁には、昔、怪しい記憶石屋がいくつもあった。正規品もあれば、そうでないものもあった。極東島国の遊戯を、王国語に雑に直したものも多かった」
「権利関係は」
「聞くな」
たいへんよくない。
だが、歴史の匂いがする。
「これは『三途の川の中心で勇気を説く老人DUN-NO』」
「題名がもう怪しい」
「直訳だからな。だが、分岐と時の扱いが見事だった」
次の箱。
「『預言者・無作為過誤』。こちらは推理ものだ」
「意味が崩れていませんか」
「崩れている。だが面白い」
さらに次。
「『黒曜館の殺人術師』」
「それは少し分かりやすい」
「そして、これは『先輩』」
リゼの母が無言でその箱を父の手から取り上げた。
「それは食卓の近くに出さない」
「名作だ」
「しまいなさい」
父は黙ってしまった。
寡黙の使いどころが違う。
———
「この頃の遊戯は、絵は粗い。音も少ない。だが、妙な熱があった」
父は九八式の表示鏡を見ながら言った。
「分かる気がします」
「分かるか」
「制約が強い時代の作品って、作り手の工夫が変な形で濃縮されるんですよね」
父の目が少し変わった。
試す目ではなく、同じ棚の前に立った人間を見る目である。
「そうだ」
短い。
だが、かなり認められた気がする。
リゼが横で腕を組んだ。
「ユウ、お父さんと同じ種類の変な人だったんだね」
「否定材料が少ない」
「少ないんだ」
「ゼロではない」
弟が笑った。
母も笑った。
父だけは真剣だった。
———
「問題は、動かすことだ」
父は起動巻物を広げた。
そこには細かい詠唱がびっしり書かれている。
「九八式は、通常使える記憶晶が狭い。絵を出す制御術式、音を鳴らす音楽術式、記憶石を読む術式、入力盤を扱う術式。全部を入れると足りない」
父は巻物の一部を指した。
「そこで、上位記憶晶の隙間に制御術式を押し込む。起動巻物の順番を変えると、入る場合がある。入らない場合もある」
「ありますね」
「音楽術式を外せば動いた。だが、それでは駄目なんだ」
「分かります」
「分かるか」
「音が鳴らない古い遊戯は、半分死んでます」
父は深く頷いた。
「そうだ」
母が呆れた顔をした。
「そんなことで認めるの?」
「そんなことではない」
父は真顔だった。
真顔で言うことではない。
だが、分かってしまう。
「数十文字分の空きを作るために、夜通し起動巻物を書き換える。音楽術式を残すか、表示を安定させるか。入力盤の術式を軽いものに替えるか。遊ぶ前に、もう一つ遊戯がある」
「それ、家で言うと、鍋を置く前に台所の棚を全部詰め替える感じ?」
リゼが言った。
「かなり近い」
「しかも、棚が少し空かないと夕飯が始まらない」
「そう」
「面倒」
「面倒です」
父が少しだけ笑った。
「面倒だから、覚えている」
それは、少し分かる気がした。
———
笑っていられる話のはずだった。
古い術盤。
怪しい遊戯。
狭い記憶晶。
音を鳴らすための徹夜。
だが、私はだんだん笑えなくなっていた。
似ている、だけならまだいい。
企業の形や術の発展が似ることはあるかもしれない。
大きな商会が生まれ、雲域が生まれ、生成変換器が現れ、携帯術盤のようなものが普及する。
産業構造が似れば、似た問題が出る。
そう説明できるものはあった。
だが、九千八百式は違う。
古い個人用機械の制約。
その周辺文化。
怪しい輸入遊戯の匂い。
魔法横丁という場所。
極東島国という出どころ。
文化史の癖まで近すぎる。
偶然で片づけるには、細部が多すぎた。
———
「そういえば、これは読めなかったな」
父がふと思い出したように、棚の下から薄い箱を取り出した。
「店の親父も、極東の字だと言っていた」
古い紙箱だった。
印刷は色褪せている。
何の遊戯かも分からない。
表には、見慣れない絵と、短い文字がある。
私は、その文字を読んだ。
体験版
息が止まった。
「ユウ?」
リゼがこちらを見る。
「……読める」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
父が箱を持つ手を止める。
「読めるのか」
「俺の世界の文字です」
部屋が静かになった。
母も弟も、リゼも、父も、箱と私を見ている。
この世界は、俺のいた世界と似ている。
そう思っていた。
でも、似ているだけなら、俺の世界の文字が、古い遊戯の箱に印刷されて流れ着くことはない。
体験版。
たった三文字が、九八式より重く見えた。
———
夕食後、私はリゼと外に出た。
家の近くには、小さな石橋があった。
橋の下を細い水路が流れている。
夜の水面に、家々の灯りが細く揺れていた。
昼間の古術盤談義が嘘のように、外は静かだった。
「さっきの箱、そんなに変だった?」
リゼが聞いた。
「変だった。たぶん、俺が思っていたよりずっと」
「怖い?」
「少し」
正直に言った。
「この世界には、俺の世界に似たものが多い。商会の形も、術の流れも、道具の広がり方も。でも、今日は違った」
「文字?」
「うん。俺の世界の文字が、古い遊戯の箱にあった。偶然似たものが生まれた、では説明しにくい」
リゼは水路を見た。
「じゃあ、この世界とユウの世界は、どこかでつながってるの?」
「分からない」
「ユウにも分からないこと、あるんだ」
「かなりある」
「知ってる」
リゼは少し笑った。
その笑いに、私は救われた。
———
私は橋の欄干に手を置いた。
「俺は、まだこの世界のことを全部わかっていない」
リゼは黙って聞いていた。
「俺がどこから来て、なぜここに来たのかも、たぶんまだわからない」
水の音がした。
「でも、これから先を誰と生きたいかは、もうわかってる」
リゼが、はっきり固まった。
私は彼女のほうを向いた。
言葉は短い。
だが、逃げない。
「リゼ。俺と、結婚してください」
リゼはしばらく何も言わなかった。
目を伏せて、息を吸って、またこちらを見る。
「……遅い」
「すみません」
「でも、待ってた」
胸の奥で、何かが静かに決まった。
「ありがとう」
「謝らなくていい。……嬉しいから」
リゼはそう言って、少しだけ笑った。
泣いてはいない。
けれど、嬉しさを隠せていない顔だった。
世界の正体は、まだ分からない。
体験版の箱が何を意味するのかも分からない。
それでも、今ここで決められることはあった。
私は、リゼと生きていきたい。
———
家に戻ると、リゼの母はすぐに察した。
「あら」
「お母さん」
リゼの顔が少し赤い。
弟が身を乗り出す。
「え、なに? 姉ちゃん、顔赤くない?」
「赤くない」
「赤いよ」
「うるさい」
父は静かに私を見た。
「ユウ君」
「はい」
「娘を、よろしく頼む」
ベタな言葉だった。
だが、そういう言葉が必要な場面はある。
「はい」
私は頭を下げた。
父は頷いた。
そして、少しだけ表情を緩める。
「それと、九千八百式は、今度また一緒に起動しよう」
「はい。ぜひ」
母が笑った。
「結婚の話より、そっちの約束のほうが嬉しそうね」
「そんなことは」
「あるよ」
リゼが言った。
私は否定しようとして、できなかった。
部屋の隅では、九八式が静かに置かれていた。
その隣に、体験版と書かれた古い箱がある。
分からないことは増えた。
だが、決めたこともある。
人は、すべて分かってから生きる場所を選ぶわけではない。
分からないまま、誰と歩くかを選ぶことがある。
私は、その選択をした。




