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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
術負け病編

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155/258

第155話 リゼの実家

 王都術務室の限定切替が一段落してから、数日が経った。

 王都は相変わらず動いている。

 住民票は出る。

 税の照会も返る。

 許可札も、たまに文句を言われながら発行される。


 基盤の大きな仕事が終わったあと、人間は少し休める。

 そう思っていた。


 甘かった。

 人生には、基幹記録庫更改より難しい案件がある。


「……そろそろ、一度、うちに来ない?」


 リゼが、夕方の帰り道でそう言った。


———

「それは、普通に遊びに行く、という意味ではなく?」


「普通に遊びに行く、でもあるけど。たぶん、そうじゃない意味もある」


 リゼは平静な顔をしていた。

 ただ、いつもより少しだけ歩幅が小さい。


 私は数秒考えた。

 そして理解した。


 恋人の実家への挨拶。


 王都の巨大記録庫更改より、難しい案件が来たかもしれない。

 最悪だ。


「急だな」


「急じゃないよ。前から考えてた」


「俺には今来た」


「だから今言った」


 論理としては正しい。

 正しいが、逃げ場がない。


「うちの父、あまり喋らないから」


「怒っているわけではなく?」


「たぶん違う。興味がない話題だと本当に喋らないだけ」


「それはそれで怖い」


「でも、昔の個人用術盤の話になると、急に長い」


「個人用術盤?」


「古いやつ。わたしもよくわからない」


 リゼは少し首を傾げた。


「九千八百式とか、そういう名前だったと思う」


 私は足を止めかけた。


「九千八百式?」


「知ってるの?」


「いや。まだ知らない」


 まだ、という言い方になった。

 自分でも少し引っかかった。


———

 リゼの実家は、王都中心部から少し離れた住宅地にあった。

 地方都市と王都郊外の中間のような、落ち着いた場所だ。

 石畳の道は古いが、よく掃かれている。

 窓辺には鉢植え。

 軒先には干した布。

 遠くから、夕餉の鍋が煮える匂いがした。


 貴族屋敷ではない。

 だが、本棚の多そうな家だった。

 つまり、子どもに本を買う家である。


 リゼが育った場所。


 そう思うと、妙に緊張した。

 魔獣の前では手順を考えればいい。

 役所の会議では論点を整理すればいい。

 恋人の実家では、何を整理すればいいのか分からない。


「顔が固い」


「固くもなる」


「大丈夫。お母さんは明るいし、弟はうるさいだけ」


「父は」


「静か」


「それが怖い」


 リゼは少し笑って、扉を叩いた。


「ただいま」


 中から、明るい声が返る。


「リゼ?」


 扉が開いた。


———

 リゼの母、ミレアは、よく笑う人だった。

 髪を後ろでまとめ、袖を少しまくっている。

 台所仕事の途中だったらしく、手には布巾を持っていた。


「あなたがユウさんね。話は、もう何十回も聞いています」


「お母さん」


 リゼが即座に止めた。


「何十回は言いすぎ」


「では、二十回くらい」


「お母さん」


 明るい。

 そして強い。


「ユウです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「そんなに固くならなくていいのよ。リゼから聞いていたより、ずっと緊張しているのね」


「聞いていたより」


 聞いていた内容が怖い。


 その時、奥の廊下から少年が顔を出した。

 リゼより数歳下だろう。

 目元が少し似ている。

 弟のノルだと、リゼが小声で教えてくれた。


「姉ちゃん、実家帰ってくるたびにユウさんの話ばっかしてたもんな」


「してない」


「してたよ。『ユウがね』『ユウならね』『ユウはそういうときね』って」


「してない」


「三回言ってた」


「数えないで」


 リゼの弟らしい。

 たいへん有能な爆弾担当である。


 私は今、術務室の障害報告会よりも逃げ場のない場所にいる。


———

 リゼの父、ヴァルンは、居間の奥に座っていた。

 背筋の伸びた、寡黙そうな人だった。

 灰色まじりの髪。

 細い目。

 元・魔法具工房勤めと聞けば納得できる、手元を見る目の鋭さがある。


「……リゼの父です」


「ユウです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 父は軽く頷いた。

 それだけだった。


 沈黙。


 長い。

 記録庫の応答待ちより長い気がする。


 リゼの母が笑いながら言った。


「この人、最初はいつもこうなの。怒っているわけではないから」


「怒ってはいない」


 父が言った。


 短い。

 ルドーとは別の短さだ。


「お茶にしましょう。リゼ、皿を出して」


「うん」


 リゼが台所へ向かう。

 私は一瞬ついていきそうになった。

 だが、ここで逃げてはいけない。

 たぶん。


———

 食卓には、焼いた肉と根菜の煮込み、固めのパン、薄い香草茶が並んだ。

 家庭の味だった。

 うまい。

 だが、味を感じる余裕が少ない。


 リゼの母が、自然な調子で聞いた。


「ユウさんの世界には、魔法がないのよね」


「はい。魔法はありません。ただ、物の性質を利用した道具や仕組みがあります」


「明かりは?」


「電気という力を使って灯します」


「遠くの人とは?」


「通信網を使います。声も文字も、遠くへ送れます」


「空は飛べる?」


「大きな乗り物で飛べます。個人が気軽に、というほどではありませんが」


 弟が目を輝かせた。


「翼竜なしで?」


「翼竜なしで」


「すごい」


「事故ると大変です」


「急に怖い」


 リゼが横で少し笑った。


「ユウは、便利な話をするとき、だいたい事故の話も一緒にする」


「大事だからな」


 父が、初めて少しだけ口元を動かした。

 笑った、のかもしれない。


———

「病気はどう治すの?」


 母が聞いた。


「薬や手術、予防の仕組みがあります。病気にかかる前に防ぐための制度もあります。ただ、魔法のように一瞬で治すわけではありません」


「どちらも万能ではないのね」


「はい」


 母は頷いた。

 それから、少しだけ声の調子を変えた。


「それで、ユウさんは、あちらの世界に戻りたいと思うことはあるの?」


 食卓が静かになった。


 リゼが匙を止める。

 弟も黙る。

 父は何も言わず、こちらを見ていた。


 核心だ。

 母親は、時々いちばん深いところを普通の声で聞く。


 少し迷って、正直に言うことにした。


「たぶん、戻れません」


 母の手が、少しだけ止まった。


「こちらへ来る直前に何があったのかは、ぼんやりとしか思い出せません。ただ、あのとき自分は死んだのだろうという感覚だけが、はっきり残っています」


 誰も何も言わなかった。

 リゼが、こちらを見ている。


「確かめたわけではありません。そう思っている、というだけです」


 そこは、はっきりさせておきたかった。


「確かめる方法がないので、たぶん一生、そう思ったままです」


 嘘はつけなかった。


「戻れるなら、確かめたいことはあります。残してきたものが、何もないわけではありません」


「でも、今の生活を捨ててまで戻りたいかと言われると……もう、そうではないです」


 言ったあと、自分でも少し驚いた。

 だが、言葉は自然に出た。


 リゼが、小さく息を吐いた。

 安心したようにも見えた。


 母は穏やかに頷いた。


「そう」


 それ以上は聞かなかった。

 聞かないことで、この人は人を楽にする。


 父は、しばらく何も言わなかった。

 だが、その沈黙は先ほどより少しだけ柔らかかった。


———

 食事が終わるころ、父がぽつりと言った。


「ユウ君の世界にも、個人用の術盤はあったのか」


 リゼの母が、小さく「あ」と言った。


「魔法ではないですが、かなり近いものはありました。個人用の計算機、という感じです」


「古いものも知っているか」


「当事者ではないですけど、古い機械を再現する環境で触ったことはあります。資料も少し読みました」


 母が台所のほうを見た。


「あ、まずい」


 リゼが私の袖を小さく引く。


「お父さん、その話になると長いから」


 父の目が変わった。

 先ほどまでの寡黙さが、奥へ引っ込む。

 代わりに、古い箱を開ける前の職人の目になった。


「少し、見せたいものがある」


「今ですか」


「今だ」


 弟が椅子にもたれた。


「父さん、始まった」


 リゼの母は諦めたように茶を注ぎ足した。


 私は、まだ何も見ていない。

 だが、なぜか嫌な予感がした。


 九千八百式。

 その響きが、頭の奥に引っかかっていた。


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