第154話 切替判定
切替の二週間前に見つかった、福祉給付の非相性。
それを前に、私たちが最初にやったのは、板手の中の動きを調べ直すことではなかった。
給付という仕事が、そもそも何を守らなければならないのかを、書き出すことだった。
「旧い記録庫と同じ動きを再現することが、目的ではありません」
私は、巻物に書かれた給付術式の流れを指でたどった。
「目的は、給付の約束を守ることです。対象者を漏らさない。同じ給付を二度出さない。途中で止まっても、どこから再開すればよいか分かる。それが守れれば、記録庫の中の動きは、同じでなくてもいい」
給付担当が、おそるおそる聞いた。
「守るべき約束、というのは」
私は、表示盤に並べて書いた。
対象者を漏らさない
同じ給付を二度出さない
途中で失敗しても安全に再実行できる
給付の状態が、後戻りせず一方向に進む
人が確認できる記録を残す
「この約束さえ守れれば、板手だろうが我が問合せだろうが、構いません」
———
約束を守るための道具は、派手なものではなかった。
一つは、重複避けの印だ。
受給者と給付の内容に、一意の印をつけておく。
同じ印の処理が二度来ても、二度目は何もしない。
途中で術が止まって、慌てて初めからやり直しても、同じ給付が二重に出ない。
もう一つは、状態札だった。
給付の進み具合を、「受付」「審査済」「支給待ち」「支給済」と、段階の札で表す。
札は、前へは進むが、後ろへは戻らない。
今どこにいるかが、人の目にもはっきり見える。
「記録庫の中で何が起きているかではなく、給付の札が今どこにあるか。それを、正にする」
セシルが、巻物に書きつけた。
この業務については、板手側の記録を正しい基準として扱う。
板手正、と彼女はそれを呼んだ。
———
切替の前に、もう一段、慎重な手を挟んだ。
いきなり板手の結果を客に出すのではない。
まず、影読みをする。
同じ問いを、我が問合せと板手の両方に投げる。
答えるのは、これまで通り我が問合せのほうだ。
板手の答えは、客には出さない。
その代わり、二つの答えの食い違いを、差異見張り札が静かに拾い、印を出す。
「利用者には、今まで通りの答えを返します。その裏で、板手が同じ問いにどう答えるかを、こっそり並べて見るんです」
リゼが、巻物から顔を上げた。
「答え合わせを、本番の隣でやってるみたいな感じ?」
「だいたいそういうことだ」
「板手が間違えても、お客さんには出ないんだ」
「出ない。だから安心して、間違えてもらえる」
並走試験を重ねるたびに、差異の印は減っていった。
残った印を一つずつ潰す。
それは、英雄的な作業ではない。
ただ、地味に正しい作業だった。
———
切替の前夜、切替判定の会が開かれた。
術務室長、マリエ、セシル、基盤魔術班、政務術式支援班、福祉給付担当、財務、国防、住民行政。
そして、私とリゼ。
リゼは、意思決定者ではない。
未解決事項の確認係として、そこにいた。
彼女は、未解決事項の一覧を読み上げた。
「参照系のうち、危険の小さい照会は影読み完了。差異の印、なし」
「給付系は、守るべき約束を札で管理。重複避けの印、導入済み」
「残る懸念は、夜間の集計処理が、想定より遅いこと。ただし期限内には終わる見込み」
淡々と読む声に、誰も口を挟まなかった。
差し入れ係ではない。
仕事をしている声だった。
マリエが、それを受けて取りまとめた。
「全面切替はしません。危険の小さい参照系から、段階で切り替えます。福祉給付系は、最後に、いちばん慎重に。何かあれば、巻き戻します」
条件付きの、切替許可。
術務室長は、ひとことだけ言った。
「やってくれ」
———
切替は、いきなり全部をひっくり返すものではなかった。
まず、危険の小さい参照系の政務術式を、板手へ影読みさせる。
我が問合せと板手の結果を比べ、差異を確かめる。
問題がなければ、一部の参照系を、板手へ切り替える。
次に、危険の小さい書き込みを、限定して切り替える。
福祉給付系は、最後まで残す。
切替のあとも、しばらくは監視を強めておく。
小さく切る。
小さく見る。
戻せるようにしておく。
派手さは、どこにもなかった。
———
切替当日。
大事件は、起きなかった。
ただ、小さな警告は出た。
一部の照会が、いつもより少し遅い。
古い術式が、想定と違う順番で結果を受け取って、軽くつまずく。
問い合わせ窓口に、「画面の出が遅い気がする」という苦情が、ぽつぽつと来た。
監視の巻物には、黄色い警告が、いくつか灯った。
マリエの胃は、何度か死にそうになった。
だが、そのたびに、基盤魔術班と政務術式支援班が動いた。
遅い照会には手を入れ、つまずいた術式には仲介路の窓口を回し、苦情には窓口が頭を下げた。
黄色は、赤にはならなかった。
大事故は、起きなかった。
———
切替の翌朝、王都はいつも通り動いていた。
住民票の写しは出た。
税の照会も返った。
給付の状態も、札のとおりに進んだ。
役所の窓口では、いつも通り小さな文句が出て、いつも通り職員が頭を下げていた。
誰も、王都の根幹記録庫が、夜のうちに変わっていたことなど知らなかった。
それでよかった。
基盤の仕事は、成功したときほど気づかれない。
私は、術務室の隅で冷めた茶を飲みながら、眠そうに目をこすった。
リゼが、記録巻物を抱えて隣に立つ。
「誰も気づいてませんね」
「うん」
「それで、いいんですか」
「それが、いちばんいい」
リゼは少し考えてから、うなずいた。
王都は、記録庫を替えた。
だが本当に替えたのは、記録庫そのものではなかった。
王都中の術が、記録庫に寄りかかる、その姿勢だった。




