第152話 王都は板手を選ぶ
王都術務室の大会議室は、朝から空気が重かった。
長卓の上には、書ききれないほどの巻物が積まれている。
窓の外では鳥が鳴いているのに、室内の誰も外を見ていない。
こういう日はだいたい、誰かが「これからどうするか」を決めなければならない日だ。
そして、決めるのが怖い日でもある。
今日の議題は、王都政府の基幹記録庫の更改だった。
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現在の王都政府の記録基盤は、「我が問合せ」と呼ばれる古い記録庫を中心に作られている。
王城地下に主記録庫が一つあり、その周囲に読取用の従記録庫がいくつもぶら下がっていた。
書き込みは主記録庫へ集め、読み取りは従記録庫へ逃がす。
長年の増改築により、住民記録、税、許認可、給付、施設予約、役所間照会までが、そこに絡みついている。
動いてはいる。
だが、動いていることと、これからも動かせることは違う。
主記録庫は肥大化し、夜間処理は朝まで食い込み、古い記録問合せ詠唱を書ける術師は年々減っていた。
何より、王都中の政務術式が、この記録庫へ直接問いかけている。
誰が、どの表を、どの順番で、どんな前提で読んでいるのか。
それを完全に知る者は、もういなかった。
私は外部の助言役として、その更改の選定会議に呼ばれていた。
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会議室に入った私は、席の端に見覚えのある顔を見つけて、足を止めた。
リゼがいた。
「……リゼ?」
「はい」
リゼは、妙にきちんとした顔でうなずいた。
学生服ではなく、王都術務室の若手補佐が身につける簡素な外套を羽織っている。
「なんでここにいるんだ」
「政務術式支援班の見習いとして、会議記録と資料整理を担当します」
「聞いてないんだけど」
「言ってませんから」
リゼは少しだけ得意げだった。
「採用試験、受けてたのか」
「受けてました」
「いつ」
「ユウが基盤の人たちと、古い詠唱について頭を抱えていたころです」
私は何も言えなかった。
「驚かせようと思って」
「……驚いた」
「成功です」
会議室の端で、術務室の職員が小さく咳払いをした。
私は慌てて席についた。
リゼは会議記録用の筆を取り、何食わぬ顔で巻物を広げる。
どうやら王都術務室は、私の知らないところでも人を採っているらしい。
当たり前である。
私が世界の人事権を握っているわけではない。
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神託社、恒河沙極社、そして御器齧運用工房による説明と質疑は、すでに数日に分けて終わっていた。
その場では、各商会と工房は当然ながら、自分たちの方式がいかに堅く、速く、安全で、長く使えるかを語った。
そして王都側の者たちは、当然ながら、それをそのまま信じるほど素直ではなかった。
だから今日は、商会の者は誰もいない。
王都側だけの、内部選定会議である。
リゼが、各候補をまとめた比較表の巻物を配った。
彼女が更新したものらしい。
候補は三つ。
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神託社の「百京」は、専用の記憶晶、専用の術盤、専用の通信路、専用の管理術式を一体で納める、巨大な基幹記録庫だった。
売り文句は、堅牢さと実績である。
王国規模の住民記録、税、許認可、給付、役所間照会を一つの巨大な記録基盤として抱え込むことを前提に作られており、古い記録問合せ詠唱との相性もよい。
神託社は、移し替えの期間中、王都に専門術師を常駐させるとも言っていた。
古い詠唱の読み替え、性能調整、障害時の調査、切替当日の立ち会いまで含めて、かなり手厚い。
問題は、値段だった。
高い。
とにかく高い。
見積もりの巻物を見た財務担当が、最初に桁を数え直し、次に自分の人生を見つめ直したほどである。
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恒河沙極社の「板手」は、神託社の百京とは考え方が大きく違っていた。
王城地下に巨大な記録庫を置くのではない。
恒河沙極社が各地に持つ政務専用雲域に記録を分散して置き、それらを一つの記録庫のように扱う。
王都から見れば、遠く離れた複数の術盤が、まるで一枚の板の上にあるかのように振る舞う。
売り文句は、地理分散、増やしやすさ、そして運用負荷の軽さだった。
記憶晶が足りなくなれば、王城地下を掘り直すのではなく、雲域側で増やす。
災害で一つの雲域が傷んでも、別の雲域へ処理を逃がせる。
基盤そのものの保守は、恒河沙極社が担う。
ただし、それは王国の根幹記録を、外の巨大商会が管理する術盤に置くという意味でもあった。
恒河沙極社は、通常の商用雲域とは分離された政務専用雲域を用意すると説明していた。
物理術盤、管理者、通信経路、監査記録を分ける。
隣の客と同じ術盤を雑に分け合うものではない。
それでも、王国側がすべてを自分の目で見られるわけではない。
そして「我が問合せ」とは、詠唱や一括確定の考え方がところどころ違う。
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三つ目の候補が、公開術式系の「御器齧」だった。
これは神託社や恒河沙極社のように、一つの巨大商会がすべてを握る記録庫ではない。
記録庫の中核となる術式が公開されており、読もうと思えば王国側の術師も読むことができる。
特定商会に縛られにくい。
必要なら王国側で改修できる可能性もある。
長期的には、国家基盤として魅力があった。
ただし、術式が読めることと、夜中の障害を直せることは同じではない。
御器齧は複数の記録庫を組み合わせて動かす分散型の基盤であり、正しく運用するには相応の知識がいる。
遅延、分断、再同期、容量計画、監視、更新作業。
公開されているから簡単、というものではまったくなかった。
王国内には御器齧の運用を専門とする工房があり、複数の商業基盤で実績もある。
今回も、その工房が運用の支え役として付く提案になっていた。
だが、それは裏返せば、王都術務室がまだ自力で御器齧を抱えきれないということでもある。
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術務室長が、低い声で会議を開いた。
「商会はいない。今日は、我々が何を選び、何を引き受けるかを決める」
最初に口を開いたのは、百京を推す古参の幹部だった。
「多少高くても、私は百京がよいと思います。やはり神託社の実績と信頼性は、他とは比べものになりません」
別の者がうなずく。
「現行の記録問合せ詠唱との相性もよい。古い術をなるべく壊さずに移せるなら、それに越したことはありません」
もっともだ。
百京は良い。
ただ、財務担当が静かに巻物を開いた。
「それは分かります。でも、いくらなんでも神託社は高すぎませんか。王国の財布を、底なしの宝物庫か何かだと思っているのでは」
良いものは高い。
当たり前の現実が、当たり前に嫌そうな顔をして、卓の真ん中に座っていた。
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板手を推す若手が、身を乗り出した。
「板手も、もう出てから数年経っています。ほかの巨大商会でも、王都と同じくらいの規模の基幹記録に使われ始めているそうです」
すると、国防担当が腕を組んだ。
「だが、数日前に南方諸国の恒河沙極社の雲域が、水害で止まっただろう。ああいうことは、王国の基幹記録では許容できない」
会議室が少しざわついた。
基盤魔術班の者が、慎重に補足する。
「単独の雲域に寄せていた服務は、長く止まりました。ただ、地理分散構成を取っていた板手は、短い断で復旧した例もあります」
私はそこへ、言葉を足した。
「もちろん、周辺の接続や復旧作業まで無傷だったわけではありません。雲域を使えば全部安全、という話ではないです」
そして、ここが肝心だった。
「ですが、雲に置けば安全ではないのと同じくらい、王城地下に置けば安全でもありません。王城が地震や火災で被災すれば、地下の百京は、一週間単位で止まる可能性があります」
国防担当が、ゆっくりと言った。
「外に預ける怖さと、一箇所に抱え込む怖さ、か」
「はい」
どちらを選んでも、怖さは残る。
なくなるのは、怖さではなく、どの怖さを引き受けるかの迷いだけだ。
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住民行政担当が、御器齧の頁をめくった。
「御器齧は、術式が読めるのは魅力です。国家基盤として、特定商会に握られにくい」
しかし、その口調はすぐに曇った。
「ただ、運用工房が付くとはいえ、今の王都側に本当に抱えられる体制がありますか。何か起きたとき、最後に誰が夜中に起きるのか。そこが、不安です」
誰も、すぐには答えなかった。
術式が読めることと、責任を持って運用できることは違う。
その沈黙が、答えのようなものだった。
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財務担当が、神託社からの事前回答の巻物を開いた。
「神託社の回答では、王国地方都市に副構成を置けば、王城側の被災にも備えられるそうです。ただし、全体費用は一割ほど上がります」
誰かが、ぼそりと言った。
「百京がさらに高くなるのか。もはや千京ですね」
会議室が凍った。
外の商会の者がいなくて、本当によかった。
私は心からそう思った。
懐の術盤が、小さく震えた。
AIエージェント:「観測:見積もりの桁を、財務担当が本日三度数え直しました」
「黙れ」
誰にも聞こえないよう、口の中だけで言った。
最悪だ。
こいつは、最悪のことを、いつも正確に言う。
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しばらくして、基盤魔術班の技術まとめ役、セシルが手を挙げた。
「私は、板手を推したいです」
会議室の視線が集まる。
「一番の懸念は、王都の作り手が慣れていないことです。ですが、それは王都側が逃げ続けてよい問題ではありません。基盤魔術班で、恒河沙極社と連携しながら、移行にまつわる問題を徹底的に洗い出します」
彼女は、巻物の上に指を置いた。
「問合せ詠唱の違い、一括確定の違い、並び順、空値の扱い、主従構成に頼っていた読み書きの癖。全部、作り手たちと一緒に確認します」
そして、付け加えた。
「百京を選べば、今回の移し替えは楽になるかもしれません。でも次の更改でも、また同じ苦しみを味わうと思います」
百京を否定する言い方ではなかった。
百京は良い。
ただ、今回の王都にとっては、という限定の付いた話だった。
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私は、そこで一つだけ口を挟んだ。
「そもそも、ここまで大事になっているのは、王都中の術が記録庫へ直に参っているからです。次の更改は十年後かもしれません。そのとき、また王都中の作り手を集めて、記録庫ごとの差異を一つずつ直すのは、避けるべきです」
表示盤に、簡単な図を描く。
たくさんの政務術式から、たくさんの線が、一つの記録庫へ直接刺さっている図だ。
「記録仲介路を作りましょう。政務術式は記録庫へ直参りせず、仲介路の窓口を通す。記録庫の違いは、できるだけそこで吸収する」
リゼが、巻物に視線を落としたまま言った。
「各政務術式が記録庫に直参りしているから、記録庫を替えるたびに全部直す必要がある。つまり問題は、今回の板手だけじゃなくて、王都の術式の作り方そのものにある、ってこと?」
私はうなずいた。
「そういうことだ」
リゼは、少し嫌そうな顔をした。
「それ、資料整理だけでも大変そう」
「資料整理だけじゃ済まないと思う」
「嫌な予言だね」
「当たる」
会議の端で、移行計画を担当するマリエが、何も言わずに新しい巻物を取り出していた。
その顔には、板手採用への反対ではなく、これから発生する作業量を見積もった者だけが浮かべる、静かな絶望があった。
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術務室長は、しばらく目を閉じていた。
そして、ゆっくりと三候補の危ういところを並べた。
「基幹記録庫が特定の商会に縛られすぎるのは危険だ。だが、御器齧は今のままだと、公開術式そのものではなく、運用工房への依存が大きくなりそうに見える。それは健全とは言いがたい」
「板手も、恒河沙極社から抜けにくくなる危険はある。さらに、作り手にとっては、移し替えで何が起きるかが読みにくい」
「神託社の百京は、既存の詠唱との相性がよく、移し替え支援も厚い。しかし王城地下に置くなら、災いのときに長く止まる恐れがある」
誰も、口を挟まなかった。
そして、術務室長は、ゆっくりとうなずいた。
「板手で行こう」
言葉は短かった。
「ただし、恒河沙極社に丸投げするわけではない。基盤魔術班は、この件の全面支援に入れ。政務術式の作り手と一緒に、移行差異を洗い出し、試験し、直す」
「そして、記録庫への直参りを減らす。記録仲介路を整備し、次の記録庫更改で同じ苦しみを繰り返さないようにする」
室長は、卓の全員を見た。
「王国の魔法技術の生殺与奪を、外の商会だけに握らせるわけにはいかない。だが、怖いからといって、地下にすべて抱え込むだけでも先はない」
「術務室として、王国として、危険を引き受ける。その代わり、その危険を理解し、制御する」
決めたのは、私ではなかった。
王都術務室が、自分たちで決めた。
それでいい。
というより、それがいい。
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術務室長が「板手で行こう」と告げたあと、会議室の空気が変わった。
候補を比べる会議は、その瞬間から、板手へ移すための会議になった。
リゼは会議記録の巻物に、決定事項を書き込んだ。
次期記録基盤、板手。
基盤魔術班、移行全面支援。
記録仲介路、設計開始。
直参り、段階的廃止。
その文字を見て、私は少しだけ不思議な気持ちになった。
リゼが、王都術務室の記録にそれを書いている。
少し前まで、隣で「それってどういう意味?」と聞いていた少女が、今は会議の決定事項を残している。
王都術務室は、私の知らないところでも変わっていた。
それは少し寂しくて、かなり嬉しいことだった。




