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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
術負け病編

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第149話 戻したことのない控え

 西区役所は、濡れた革と焦げた術盤の匂いがした。

 窓口の前には商人たちが並び、札束を握ったまま低い声で文句を言っている。

 怒鳴り声ではない。

 怒鳴る前の、もっと疲れた声だ。


 受付台の奥では、役人たちが同じ帳面を何度もめくっていた。

 困惑と諦め。

 最近の王都は、この顔を量産しすぎている。


「今日中に更新しないと、明日の市に出せません」


「仮の札でも出せないのですか」


「台帳に記録がないと」


 現場は静かに詰まっていた。


———

「本番台帳への書き込みを止めてください」


 私は最初に言った。


 西区の担当役人が顔を上げる。


「ですが、窓口を止めると苦情が来ます」


「壊れた台帳に書き込み続ける方が、もっと苦情になります」


 少し強かった。

 だが、ここは柔らかくしてはいけない。


「窓口は完全停止にしません。紙の仮受付に切り替えます。本登録は復元後。急ぎの営業許可は、紙の控えと本人の札で優先照合します」


 リゼがすぐ動いた。


「紙の受付台を二つ作る。商人さんには、いま本登録ではなく仮受付だと伝えるわ」


「頼む」


 ルドーは短く言った。


「凍結しろ」


 術務員が壊れた本番台帳へ封じ札を貼る。

 これ以上、赤い染みを広げないための札だ。


———

 確認することは決まっている。


 控えはいつのものか。

 どこにあるか。

 どれくらいで戻せるか。

 今日の午前中の更新はどうなるか。

 戻した後、仮受付とどう合わせるか。


「昨晩の定期控えはあります」


 担当役人が言った。


「場所は」


「深雪倉です。保管代が安いので」


 来た。

 安いは悪ではない。

 ただし、安さにはたいてい刻が紐づく。


「取り出しは」


「通常で三日。急ぎなら半日。ただし解凍代が高くなります」


「営業許可台帳の復旧猶予は?」


 担当役人が黙った。


「決めていませんでした」


 最悪だ。


 私は息を吐く。


「では、今決めます。今日の市に関わる窓口です。三日は耐えられません」


———

「差分記しはありますか」


 術務員が顔を上げた。


「朝からの追記札なら、近場の記録箱にあります。台帳への変更を刻ごとに写しているものです」


「それです」


 リゼが首を傾げる。


「昨晩の控えと、今日の追記札をつなぐの?」


「そう。時写しに、追記札を順に足して、壊れる直前に近いところまで時戻しする」


「料理でいうと、昨日の仕込みに、朝から入れた材料を順番に足し直す感じ?」


「かなり近い」


「焦げた鍋のところだけ入れない」


「そこが大事だ」


 壊れた原因は、古い移し替え札だった。

 商業許可の区分を新しい形へ移す際、古い索引を参照し、別の商会の更新欄へ書いてしまった。

 しかも、最後の追記札の一部は、その誤りを含んでいる。


 全部足せば、壊れた状態へ戻る。

 戻しとは、過去へ祈ることではない。

 どこまで戻すかを選ぶ作業だ。


———

 復旧用の仮台を立てる。

 本番台帳には触れない。

 昨晩の時写しを、仮台へ復元する。


 術務員が慎重に札を並べた。

 王都の役人が見守る。

 商人たちは、リゼの作った仮受付列へ流れていく。


「朝一刻、適用」


「二刻、適用」


「三刻、適用」


 追記札を一つずつ読ませる。

 焦らない。

 人間は急ぐと、壊れた札までありがたく足す。


「ここで索引の向きが変です」


 若い術務員が言った。


「止めます」


 私は頷く。


 壊れた札の一つ前。

 そこが、今日戻せるもっとも近い時点だった。


———

 担当役人が沈んだ声で言った。


「完全には戻らないのですね」


「はい」


 私は答えた。


「だから、最初に決めるんです。どこまでなら失っても、業務として耐えられるのか」


 喪失許容。

 今日、この窓口では、最後の数件が限界だった。

 幸い、仮受付前に来ていた商人の控え札と、窓口職員の手元記録がある。

 完全なゼロ損失ではない。

 だが、再確認できる範囲だ。


「最後の七件は、紙の受付記録と本人の札で照合して、手で入れ直します」


「七件なら」


「できます」


 担当役人が頷いた。


 できる形に落とす。

 魔法より大事なことが、時々ある。


———

 夕方、復元した台帳を検査し、本番台帳と切り替えた。

 商人たちの列はまだ残っていたが、顔つきは少し変わっている。

 怒りより、待てる疲れになっていた。


 西区役所の会議室で、反省会が開かれた。

 湯気の立つ茶はあるが、誰も甘味に手を伸ばさない。

 そういう日もある。


「重要な台帳ごとに、復旧猶予と喪失許容を決めてください」


 私は言った。


「すぐ戻す必要がある記録は、深雪倉だけに置かない。古い記録を安く長く保つ用途なら有効です。ただ、急ぎで戻したい記録を、急いで戻せない倉に入れると困ります」


 役人たちが書き取る。


「それから、戻し稽古を定期的にしてください。控えを取るだけでは足りません」


 リゼが言った。


「戻せるか試さないとだめなんですね」


「その通りです。戻したことのない控えは、まだ半分しか信用できません」


———

 夜、リゼの家に戻ると、台所は温かかった。

 雨は上がっている。

 窓の外で、濡れた石畳が街灯を反射していた。


 リゼが鍋の蓋を開ける。

 甘い匂いではなく、落ち着く塩気のある匂いがした。


「今日は焦げた鍋の話ばかりだったね」


「たとえとして優秀だった」


「じゃあ、これは焦げてない」


「ありがたい」


 椀を受け取る。

 温かい。

 今日の私は、記録控えより先に夕食を必要としている。


「星の外にまで控えを置く話、少し怖かった」


 リゼが言った。


「王都の営業許可には要らない」


「でも、残した方がいいものはある?」


「ある。歴史、言葉、治療の知識、災害の記録、失敗の記録」


「失敗も?」


「大事だ。未来の誰かが、同じ事故をもう一度やらずに済む」


 リゼは少し黙って、椀を両手で包んだ。


「じゃあ、今日の失敗も残るね」


「残す。できれば、次は授業だけで済ませたい」


「無理そう」


「それはそう」


———

 記録は消える。

 紙は濡れる。

 術盤は壊れる。

 人は間違え、控えは遠すぎる倉にしまわれ、戻し方は忘れられる。


 だから、残す。

 分ける。

 遠くへ置く。

 そして、戻せるか試す。


 控えは、安心の飾りではない。

 壊れた日にも仕事を続けるための、地味で切実な約束だ。


 次の授業は、実際に控えを戻す訓練になった。

 学生たちは一斉に嫌そうな顔をしたらしい。


 ユウ、そういうところだよ、とリゼは笑った。


 否定はできなかった。


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