第139話 誰も悪くないのに壊れる
王都翼竜管制塔の部屋は、朝から妙に静かだった。
高い塔の上だ。
窓の外には、遠くの翼竜場と、薄く霞んだ空が見える。
机には運行札、位置札、確認記録。
人はいる。
声もある。
だが、部屋全体が息を詰めている。
原因の分からない不具合は、人間の顔をこうする。
最悪だ。
———
「また出ました」
交通局の術務員が、控え札を差し出した。
乗合翼竜の高度記録。
運行順序。
到着予定。
どれも、普段は安定している。
だが、ここ数週、まれにありえない値が混ざる。
「この便、記録上では一瞬だけ高度が地中になっています」
「実際には」
「飛んでいました。見張り手も、測位札も、翼竜騎手の報告も正常です」
別の札を見せられる。
「こちらは運行順序が一つだけ跳びました。北二便の後に、存在しない北八十六便が割り込んでいます」
「実在しない便」
「はい。すぐ次の記録では戻っています」
嫌な壊れ方だ。
派手に壊れない。
一瞬だけ、ありえない。
そして戻る。
———
リゼが控え札を覗き込んだ。
「誰かが書き換えたの?」
「最初はそれを疑ったそうだ」
術務員が疲れた顔で頷く。
「操作記録は見ました。担当者の誤操作も疑いました。夜番も、昼番も、外部からの悪戯も」
「決め手は」
「ありません」
別の術師が続けた。
「部品不良も疑いました。記憶盤を抜き差しし、術式列も検めました。通信の乱れも見ました。ですが、同じ手順で再現しません」
再現しない。
不具合の中でも、かなり嫌な言葉だ。
「昨日は何もなく、今日は一回だけ出る。明日は出ない。場所も毎回少し違う」
部屋の空気が重くなる。
誰も怠けていない。
誰も明確な失敗をしていない。
それなのに壊れる。
———
私は記録札を並べた。
高度。
便名。
順序。
到着予定。
空き席。
壊れ方に共通する派手さはない。
だが、妙な共通点がある。
「大きく崩れてはいません」
「はい」
「一つだけ、変な値になる」
「そうです」
「しかも、すぐ戻る」
「はい」
私は一枚の札を指した。
「これ、人間が狙ってやるには細かすぎます」
術務員が顔を上げた。
「悪戯ではないと?」
「断定はしません。ただ、狙うならもっと意味のある値に変えるはずです。これは、まるで記憶の一印だけが化けたように見えます」
リゼが首を傾げた。
「一印だけ」
「うん。帳面の一文字だけが、勝手に別の文字になるようなものだ」
「そんなことあるの?」
「滅多にない」
「滅多に」
「絶対にない、とは言えない」
———
その日の午後、ルドーは講堂ではなく、管制塔の一室で授業を始めた。
学生も数人連れてきている。
現場こそ授業だ、といういつものやつだ。
表示盤には、記憶盤の図を描いた。
記憶盤
「術盤の記憶は絶対ではありません」
学生たちが少しざわつく。
「壊れるということですか」
「壊れることもあります。もっと嫌なのは、一見壊れていないのに、覚えている印の一つだけが別物になることです」
「そんな馬鹿な」
「そう思います」
私は頷いた。
「ですが、世界には微かな乱れがあります。術勢の揺れ。熱。古い部品の疲れ。さらに、星の彼方から降る見えない乱れもあります」
ルドーが短く言った。
「星からか」
「可能性です」
「怪異か」
「違います。自然現象として扱います」
怪異にすると、そこで考えが止まる。
術務の知恵は、怪異に名前をつけて祈ることではない。
起きるものとして備える仕事だ。
———
私は記憶盤に並ぶ印を描いた。
一
一
一
一
そのうち一つだけを変える。
一
一
二
一
「たとえば、術盤が覚えていた値の一印だけが化ける。すると、高度、便名、順序、空き席のような数字が、一瞬だけ変になります」
「でも、なぜすぐ戻るんですか」
「次に正しい値が上書きされるからです。記録の流れが続いていれば、次の刻には戻ることもあります」
「では問題ないのでは」
「その一瞬を、別の判断が読んだら問題になります」
講堂ではないのに、部屋が静かになった。
運行順序。
乗り場案内。
到着見込み。
警告。
一瞬の変な値を、他の術が本物として読めば、現場は揺れる。
———
リゼが言った。
「台所の注文札で、一文字だけ勝手に変わる感じ?」
「近い」
「塩少々が、塩大量になるとか」
「かなり嫌だな」
「でも次の札で戻る。けど、その一瞬に料理人が見たら入れちゃう」
「それだ」
学生たちの顔が変わった。
比喩が刺さったらしい。
「だから、滅多に起きないからといって、見なくていいわけではありません。重要な場所では、たまに起きる一印化けも考える必要があります」
ルドーが短く言った。
「犯人は」
「いないかもしれません」
「嫌だな」
「かなり嫌です」
犯人がいない障害は、怒る先がない。
だから余計に不気味だ。
———
夕方まで、条件を並べた。
異常が出た術盤。
出なかった術盤。
設置場所。
記憶盤の種類。
修理履歴。
塔の高さ。
近くの術勢の揺れ。
やがて、少し偏りが見えた。
「古い記憶盤を積んだ術盤に寄っています」
術務員が言った。
「新しい高級機では」
「今のところ、同じ記録はありません」
「設置場所は」
「管制塔の上層、山沿いの中継塔、翼竜場の高い見張り台が多いです」
私は窓の外を見た。
空が高い。
夕方の光が、塔の端を白くしている。
古い記憶盤。
高所。
再現しない一印化け。
星針乱れ。
嫌な線がつながる。
———
「部品交換では」
「止まりませんでした」
「術式修正では」
「変わりません」
「通信経路は」
「別経路でも出ています」
私は記録札を閉じた。
完全な証明ではない。
だが、他の説明が少しずつ狭くなっている。
リゼが小さく聞いた。
「何か分かった?」
「分かったというより、残った」
「残った?」
「これ、人じゃない」
部屋の空気が、一段沈んだ。
私は窓の外の空を見た。
「空の向こうから来てるのかもしれない」
誰もすぐには笑わなかった。
笑えない程度には、記録が揃っていた。




