第138話 使い終わった部屋は消せ
王都の表通りは、紅と蒼に割れていた。
屋台には紅墨焼きと蒼墨菓子。
子どもたちは烏賊の帽子をかぶり、商人たちはどちらが勝つかで軽く言い合っている。
華やかだ。
楽しそうだ。
その裏で、彩墨工房の運営部屋は死にかけていた。
遊戯の表と裏は、だいたい温度差がひどい。
最悪だ。
———
彩墨工房の奥は、墨の匂いではなく、熱い術盤と濃い茶の匂いがした。
長机に、待機列の札。
術盤群の空き状況。
試合部屋の台帳。
苦情の連絡札。
術師たちは顔色をなくしていた。
「待機列が伸びています」
「東側術盤に空きがあるはずだ」
「どの部屋を載せますか」
「終わった部屋が残っています」
「消していいのか、再利用するのか」
「紅墨派の組が入れません」
「蒼墨派も詰まっています」
華やかな祭典戦の裏で、人間が詰まっている。
だいたい、まず詰まるのは人間だ。
———
工房の責任者、サナは深く頭を下げた。
目が赤い。
徹夜だろう。
「平時は回っていました」
「そうでしょうね」
「祭典戦だけ人数が跳ねます。試験でも、部屋の起動が追いつかず」
「今は人が割り当てていますか」
「はい。空き術盤を見て、係が部屋を起こし、利用者を入れて、終わったものを片付けて」
「限界です」
サナは少しだけ笑った。
笑うしかない顔だった。
「ですよね」
責める話ではない。
小さい頃から祭典戦規模で始まる遊戯は少ない。
平時の人力運用が、流行で急に破綻する。
よくある。
———
まず台帳を見た。
試合部屋の状態が揺れている。
待機中
使用中
終了済み
片付け待ち
不明
「不明があります」
サナが目を伏せた。
「終了の知らせが遅れた部屋です。念のため残しています」
「誰か入れていますか」
「いえ。ただ、空きとしても見えていません」
「一番困る状態です」
使用中でもない。
空きでもない。
消されてもいない。
こういう札が増えると、術盤群の空きが見えなくなる。
リゼが台帳を見て言った。
「食べ終わった席に皿が残っていて、次のお客さんを座らせられない感じ?」
「かなり近い」
「しかも、本当に食べ終わったか誰も見てない」
「かなり怖い」
その通りだ。
———
次に、終わった部屋を再利用しかけているところを見つけた。
「この部屋、さっきの紅墨戦で使ったものですよね」
「はい。掃除済みです」
若い術師が答えた。
「次の蒼墨戦に回せば、起動時間を節約できます」
「止めてください」
声が少し強く出た。
部屋が静かになる。
「前の塗り跡、参加者の接続、得点の札、途中離脱の痕跡。完全に消せている保証はありますか」
「掃除術は通しました」
「保証は」
若い術師は黙った。
「使い終わった部屋は、節約のために使い回すより、消して作り直した方が安全です」
サナが小さく頷いた。
「使い捨て部屋として扱う、ということですね」
「はい」
「無駄に見えても」
「事故を減らすための無駄です」
リゼが言った。
「皿なら洗えるけど、試合部屋は前の墨が見えないところに残るかもしれないのね」
「そういうことだ」
———
解決する対象は、遊戯本体ではなかった。
烏賊の動き。
墨の飛び方。
紅墨派と蒼墨派の点数。
それは触らない。
触るのは、試合部屋の世話だけだ。
私は表示盤に書いた。
部屋番台
「試合部屋を資源として台帳管理します」
サナが身を乗り出した。
「資源」
「はい。部屋は自然に湧きません。術盤群の持ち時間と場所を使います。だから、状態を明確に分ける」
私は札を並べた。
準備中
待機中
使用中
終了確認
削除中
「不明を減らします。どこにあるか分からない部屋は、空きでも安全でもありません」
術師たちが頷いた。
顔に少しだけ光が戻る。
———
部屋番台の仕事を決めた。
待機中の部屋を一定数保つ。
利用者が来たら、部屋割り札で待機部屋をすぐ割り当てる。
割り当てた部屋は使用中にする。
使用中の部屋は、他の組へ渡さない。
試合終了を確認したら、終了確認へ送る。
終了確認が済んだ部屋は、再利用せず削除中へ送る。
削除が終わったら、待機部屋を補充する。
サナが表示盤を見つめた。
「人が全部見るのではなく」
「部屋番台が見ます」
「係は何を見るんですか」
「全体の数と、異常です」
人間が一件ずつ部屋を持ち上げるのではない。
人間は、どれくらい用意するか、どこで危ないかを見る。
力の使いどころが違う。
———
待機部屋の数も決めた。
「多めに置けば安心では」
若い術師が言った。
「多すぎると術盤群を食います」
私は待機部屋を増やしすぎた図を描いた。
空き術盤が細る。
別の処理が詰まる。
使われない部屋が熱だけ出す。
「少なすぎると」
今度は待機列が伸びる図を描く。
「利用者が待ちます」
サナが腕を組んだ。
「つまり、ちょうどよく」
「はい」
「一番難しい言葉ですね」
「本当に」
祭典戦の開始直後。
昼の山。
夕方の再集中。
それぞれで必要な待機部屋は違う。
「部屋番台は補充します。でも、どれくらい待機させるかの目安は、人間が祭典の流れを見て調整してください」
万能ではない。
だが、人間の手を、全部の部屋から、判断すべき場所へ戻せる。
———
試運転をした。
まず、待機部屋が十。
利用者役の札が一斉に押し寄せる。
部屋番台が待機中の部屋を割り当てる。
待機部屋が減る。
減った分を、術盤群の空きへ準備中として起こす。
準備が終わると待機中に戻る。
試合が終わる。
使用中が終了確認になる。
確認が終わる。
削除中になる。
消える。
新しい待機部屋が補充される。
術師たちは、表示盤を食い入るように見た。
「人が部屋を選んでいない」
「はい」
「でも、変なところへ載らない」
「術盤群の空きを見ています」
「終わった部屋も残らない」
「残さないようにしました」
地味だ。
しかし、こういう地味な流れが、現場では一番効く。
———
祭典戦当日。
王都は朝から紅と蒼に揺れていた。
広場では楽隊が鳴り、屋台では墨色の菓子が売れ、子どもたちは烏賊の跳ね方を真似している。
彩墨工房の奥では、誰も跳ねていなかった。
全員、表示盤を見ている。
「第一波、来ます」
札が動いた。
紅墨派と蒼墨派の利用者が、一気に待機列へ流れ込む。
昨日なら、ここで人間が叫んでいた。
今日は部屋番台が動く。
待機部屋が割り当てられる。
使用中に変わる。
減った待機部屋を補充する。
準備中が待機中へ上がる。
終了した部屋は消える。
次の部屋が起こされる。
表示盤の札が、淡々と流れた。
「詰まっていません」
若い術師が呆然と言った。
「待機列、短いままです」
サナが両手で口元を押さえた。
泣きそうだった。
徹夜明けの人間は、安堵で泣く。
———
昼の山で、一度だけ待機部屋が薄くなった。
「待機部屋、残り三」
部屋が緊張する。
「増やしますか」
サナが私を見る。
「増やしましょう。ただし、術盤群の上限を越えない範囲で」
サナが頷き、部屋番台の目安を少し上げた。
準備中の部屋が増える。
待機列は伸びかけたが、崩れなかった。
自動で全部解決するわけではない。
人が状況を見て、目安を動かす。
ただし、動かすのは一つの目安であって、個々の部屋ではない。
これが大きい。
———
夕方、祭典戦の第一日が終わった。
表通りでは、紅墨派が勝った、いや蒼墨派が追い上げた、と騒いでいる。
烏賊の帽子をかぶった子どもが、墨の菓子を手に走っていく。
彩墨工房の奥では、術師たちが椅子に沈んでいた。
燃え尽きた顔だ。
だが、絶望ではない。
「大きな詰まりはありませんでした」
サナが言った。
「苦情も、昨日の試験よりずっと少ないです」
「部屋の残りは」
「終了済みの部屋は順に消えています。不明は、ほとんど出ていません」
ほとんど。
いい言葉だ。
完全ではないが、運用できる。
ルドーがいつの間にか入口にいた。
「墨は」
「浴びていません」
「つまらん」
「仕事です」
ルドーは少しだけ笑った。
———
夜、工房を出ると、王都の空に紅と蒼の灯りが揺れていた。
祭典戦はまだ続く。
表では、利用者たちが墨をまき散らし、地面を塗り、勝った負けたで騒いでいる。
リゼが灯りを見上げた。
「みんな遊んでるだけに見えるけど、裏は大変なんだね」
「派手なものほど、裏方は地味で面倒なんだ」
「でも、今日の裏方はちょっと格好よかった」
「地味に格好いいだろ」
「うん。皿を使い回さず、ちゃんと片付けて、次のお客さんを待たせない」
「かなり正確だ」
リゼは少し笑った。
「遊戯なのに、台所みたい」
「大規模なものは、だいたい台所に似てくる」
鍋が増え、皿が増え、客が増え、片付けが追いつかなくなる。
そして、片付けが崩れると料理の味以前に店が止まる。
———
試合部屋は勝手に湧かない。
どこかの術盤で起こし、待機させ、利用者へ割り当て、使用中は守り、終わったら消す。
使い終わった部屋を使い回せば、少し得をしたように見える。
だが、前の試合の墨や札が残る危険を考えれば、消して作り直す方がずっと素直だ。
自動化は魔法の杖ではない。
待機部屋をどれくらい置くか、山がいつ来るか、術盤群をどこまで使うか。
そこは人が見続ける必要がある。
それでも、人間が一つ一つ部屋を持って走る地獄からは抜け出せる。
表の遊戯が華やかであるほど、裏方は地味な知恵で事故を減らす。
その知恵は、今日、王都中の烏賊たちを、ほとんど待たせず戦場へ送り出した。




