第137話 部屋は勝手に湧かない
講堂の朝は、いつもより少し色が多かった。
赤い腕輪。
青い布札。
机の端に置かれた烏賊の小さな飾り。
王都で流行っている仮想空間遊戯、烏賊飛散の祭典戦が近いらしい。
学生たちの気持ちは、すでに講義ではなく墨の色へ向かっている。
最悪だ。
いや、少し楽しそうではある。
———
「紅墨派ですか、蒼墨派ですか」
学生の一人が、授業前から聞いて回っていた。
「紅墨」
「蒼墨」
「今回は蒼が強い」
「いや紅の新しい筆砲が」
うるさい。
だが、元気だ。
リゼも少しだけ笑っていた。
「リゼはやるのか」
「見たことはある。烏賊の怪獣が墨をまき散らして、地面を塗り合うやつでしょ」
「そうらしい」
「派手で、ちょっと楽しそう」
「意外だ」
「見るだけならね」
リゼは紅と蒼の腕輪を眺めた。
どちらを選ぶか、少し考えている顔だった。
———
ルドーが表示盤の前に立った。
学生たちの色付きの腕輪を見て、少しだけ目を細める。
「流行りか」
「はい」
「遊戯だな」
「はい」
「支える術は」
講堂が少し静かになった。
ルドーは続けた。
「どうなっている」
学生たちは顔を見合わせた。
「遊戯の術盤があるのでは」
「部屋に入って戦うだけです」
「押せば出ます」
「部屋は勝手に」
ルドーが最後の学生を見た。
「勝手に?」
学生が少し縮んだ。
視線がこちらへ来る。
来ると思った。
「ユウ」
「はい」
「説明しろ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
今日も試合前に負けている。
———
私は表示盤に、烏賊飛散の簡単な図を描いた。
紅墨派。
蒼墨派。
仮想の競技場。
墨で塗られる地面。
「表から見ると、利用者はただ試合へ入っているように見えます」
「違うんですか」
「裏では、試合ごとに専用の仮想部屋を起こしています」
表示盤に、試合部屋と書く。
試合部屋
「一つの試合には、その試合だけの部屋が必要です。誰が紅で、誰が蒼か。地面のどこが塗られたか。誰がどこにいるか。試合の残り刻はどれくらいか」
「それを一つの部屋で持つ」
「はい」
「別の試合と混ざったら」
「事故です」
学生たちは頷いた。
遊戯の話だと理解が早い。
「試合部屋は、自然に湧きません。どこかの術盤で起動しなければならない」
私は術盤群を描いた。
「同時にたくさんの試合が走るなら、それだけ多くの部屋を、術盤群のどこかに載せる必要があります」
———
「でも、人が見て増やせばいいのでは」
学生の一人が言った。
「平時なら、しばらくはできます」
私は表示盤に、運営係の人形を描いた。
空き術盤を見る
部屋を起こす
利用者を入れる
終わった部屋を片付ける
足りない時に増やす
「人がこれを全部見ます」
「大変そう」
「大変です」
「でも、運営工房なら」
「祭典戦では、同時に大量の利用者が来ます」
紅墨派と蒼墨派の札を、表示盤の入口に大量に置く。
「どの術盤に空きがあるか。今何部屋動いているか。誰をどこへ入れるか。終わった部屋を消したか。これを人が逐一見ていたら詰まります」
ルドーが短く言った。
「人が門になる」
「はい」
「細いな」
「かなり細いです」
人間は有能でも、同時に見られる数に限界がある。
遊戯が流行るほど、裏方の目が足りなくなる。
———
「試合部屋は、押した瞬間に完成するわけでもありません」
私は空の部屋を描き、その横に砂時計を置いた。
「競技場を起こす。紅と蒼の席を作る。地面の塗り札を用意する。参加者の入口を結ぶ。見張りを置く」
「少し時間がかかる」
「はい」
学生たちが、少し嫌な顔をした。
「待たされるやつだ」
「そうです」
「押してから作ると遅い」
「遅いです」
私はいくつかの空き部屋を表示した。
待機部屋
「だから、利用者が来る前に、少し多めに待機中の部屋を用意しておきます」
リゼが言った。
「お客さんが来てから鍋を洗って火を起こすんじゃなくて、少し席と鍋を用意しておく感じ?」
「かなり近い」
「でも、用意しすぎると邪魔」
「そこも大事だ」
待機部屋は便利だ。
だが、術盤の力を使う。
多すぎれば無駄。
少なすぎれば待ち。
ここに調整がいる。
———
「終わった部屋はどうするんですか」
「消します」
私は即答した。
「掃除して使い回さないんですか」
「使い回せる場合もあります。ですが、試合部屋では消して作り直す方が安全なことが多い」
学生たちが首を傾げた。
「もったいなくないですか」
「もったいなく見えます」
私は終わった試合部屋を赤くした。
前の参加者。
前の塗り跡。
前の得点。
前の通信の残り。
途中で切れた利用者の痕跡。
「完全にきれいに戻したつもりでも、何かが残るかもしれません。前の試合の情報が次の試合へ漏れたり、状態が混ざったりすると危険です」
リゼが嫌そうな顔をした。
「前のお客さんが使った皿を、洗ったつもりで汚れが残ったまま次に出す感じ?」
「それだ」
「それなら新しい皿を出してほしい」
「遊戯の部屋でも同じです」
使い終わった部屋は、節約のために使い回すより、捨てて作り直した方が事故が少ない。
無駄に見える。
だが、安全のための無駄だ。
———
私は表示盤に、新しい台を描いた。
部屋番台
「こういう面倒を見る専用の世話役があると、かなり楽になります」
部屋番台の周りに、札を並べる。
空き部屋を見る
待機部屋を補充する
利用者へ割り当てる
使用中を守る
終わった部屋を消す
足りなければ増やす
余れば減らす
「遊戯本体の術師は、塗り合いの面白さ、武器の調整、祭典戦の演出に集中できます。部屋の世話は部屋番台に任せる」
「裏方の裏方ですね」
「そうです」
「地味」
「かなり地味です」
「でも大事」
「かなり大事です」
派手な遊戯ほど、裏は地味だ。
表で墨が飛ぶほど、裏では札が淡々と動いている。
———
授業の終わり際、講堂の連絡札が鳴った。
嫌な予感はしていた。
最近、授業が現場を呼ぶのか、現場が授業を待っているのか分からない。
「王都の遊戯工房、彩墨工房から相談です」
職員が読み上げる。
「烏賊飛散の祭典戦を数日後に控え、事前試験で待機列が詰まりました。利用者の一部が試合へ入れず、運営側が原因を調査中とのこと」
学生たちがざわついた。
「紅墨派の試験ですか」
「蒼も入れなかったらしい」
「祭典戦、大丈夫なのか」
私は額を押さえた。
平時はともかく、大祭典では危ない。
人力で試合部屋を増減しているなら、なおさらだ。
ルドーが短く言った。
「遊戯だな」
「はい」
「現場だ」
「はい」
「墨を浴びろ」
「嫌です」
講堂の学生たちは少し笑った。
私は笑えなかった。
部屋は勝手に湧かない。
そして今、王都中の烏賊たちが、その部屋を一斉に求めている。




