第133話 守る法も人を疲れさせる
講堂に入る前から、学生たちが文句を言っていた。
珍しくない。
人間は朝から文句を言える。
むしろ、朝だからこそ言えるのかもしれない。
ただし今日の文句は、全員の手元の札面から来ていた。
———
「最近、魔法仮想文書を開くたびに大きな板が出ます」
「追跡札を許すかどうかってやつ」
「断る場所が小さい」
「細かい設定を開くと、戻れなくなる」
「何も押さずに進むと、許した扱いになった気がします」
学生たちはよく見ている。
そして、だいたい正しい。
リゼも携帯術盤を机に置き、眉を寄せた。
「昨日、靴の札面を見たら、今日も別の札面で靴ばっかり出てきた」
「追い回されている感じか」
「そう。断ったはずなのに、店の人がずっと横を歩いてくるみたい」
「嫌すぎる」
「本当に嫌」
生活の比喩が強い。
だが、かなり正確だ。
———
ルドーが表示盤の前に立った。
今日は最初から、少し面倒そうな顔をしている。
「連合法だ」
学生たちが黙った。
「何の法ですか」
「情報を守る」
「守るなら良いことでは」
「良い」
ルドーは短く言った。
「だが面倒だ」
学生たちの視線がこちらへ来た。
やめてほしい。
法と面倒が同時に来ると、だいたい私へ来る。
「ユウ」
「はい」
「説明しろ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
守る法より先に、私の返事を守れない。
最悪だ。
———
私は表示盤に、諸侯連合の地図を描いた。
王国の西方にある、いくつもの侯国が結んだ大きなまとまり。
国ごとに言葉も商いも少しずつ違うが、外へ向ける時は大きな一つの市場になる。
「諸侯連合は最近、包括的情報保護規則を定めました」
表示盤に大きく書く。
包括的情報保護規則
「運用や監督は、連合情報保護院が見ることになります」
「名前が硬いです」
「硬いです」
「何を守るんですか」
「人に関する記録です」
私は線を引く。
閲覧した札面
買った物
居場所
好み
問い合わせ
魔文の反応
「便利な仮想文書や小術の裏では、こういう記録が集まります。集める側から見れば、使い手に合わせた案内が出せる。売れる物が分かる。危ない動きも見つけられる」
「便利ですね」
「便利です」
「ただし」
ルドーが短く言った。
「ただしだ」
「はい」
「嫌な語だ」
「本当に」
便利なものは、記録を欲しがる。
記録は、集まるほど強くなる。
そして強い記録は、人を守ることも、人を縛ることもできる。
———
「諸侯連合の考え方は、かなり筋が通っています」
私は表示盤に四つ書いた。
何を集めるか
何のために使うか
断れるか
消せるか
「勝手に集めるな。勝手に使うな。嫌なら断らせろ。消してくれと言えるようにしろ。そういう話です」
学生の一人が頷いた。
「それは、まっとうですね」
「まっとうです」
「昔は言えなかったんですか」
「言えないことが多かった。知らないうちに追跡札を置かれて、知らないうちに好みを見られて、知らないうちに別の商いへ回される」
リゼが嫌そうな顔をした。
「お店で何を買ったかの控えを、隣の店と奥の商会に勝手に回される感じ?」
「かなり近い」
「それは怒っていい」
「怒っていい」
思想としては正しい。
利用者の側へ力を少し戻す。
巨大な記録の持ち主に、説明と削除と拒否の道を作らせる。
少なくとも、何もないよりは守られる。
———
だが、法はきれいな思想だけで動かない。
私は表示盤に、西方新大陸の企業名を書いた。
原生林社
恒河沙極社
知恵之実社
学生たちの空気が少し変わった。
最近、王都でもよく聞く名だ。
借り場。
集計の服務的魔術。
携帯術盤と術式庫。
どれも便利で、どれも大きい。
「新大陸の巨大企業は、連合内の民の記録も大量に扱います」
「諸侯連合は、それを止めたいんですか」
「止めたいというより、条件を付けたい。連合全体で同じ規則にすれば、一つの小国ではなく、大きな市場として交渉できます」
学生の一人が手を上げた。
「つまり、民を守りたいだけではなく、大企業と喧嘩できる力も欲しい?」
「まあ、法ってそういうものです」
講堂が少しざわつく。
「きれいごとだけでできているわけではありません。善意もある。打算もある。どちらかだけではない」
ルドーが短く言った。
「両方だ」
「はい」
「人間だな」
「本当に」
人間の制度は、だいたい混ざっている。
純粋すぎる制度は、たいてい現場に着く前に壊れる。
———
「でも、それなら大きな企業を縛れるんですよね」
「縛れます」
「良いことでは」
「良いことです。ただし、手間は大きな企業だけに降りません」
私は表示盤に、二つの商会を描いた。
大商会
小工房
「大商会には、法を読む者、記録を棚卸しする者、問い合わせを受ける者、札面を直す者がいます」
大商会の周りに人を並べる。
「小工房には」
小工房の横に一人だけ描く。
「たいてい、店主がいます」
学生たちが少し笑い、すぐに笑えない顔になった。
「強い者を縛る法でも、準備の手間は弱い者にも平等に降ってきます」
「平等なのに、不公平」
リゼが言った。
「大きい台所なら新しい棚を作れるけど、小さい店だと調理台まで埋まる」
「かなり正確だ」
法は同じ紙で届く。
だが、受け取る手の大きさは同じではない。
———
私はさらに、仮想文書の札面を表示した。
大きな板。
明るい「すべて許す」。
薄い「細かく選ぶ」。
さらに小さい「断る」。
「最近、追跡札許諾板が増えています」
「これです」
「これ嫌い」
「守るための板なのに、守られてる感じがしません」
「そこが問題です」
私は板の構造を指した。
「法が、何を集めるか説明して許諾を取れと言う。すると、作り手は許諾を取る板を出す。ここまでは自然です」
「そこまでは」
「ですが、記録を集めたい側は、なるべく許してほしい」
板の色を変える。
「だから、許す道を目立たせる。断る道を小さくする。細かい設定を深い場所へ入れる。何も押さずに進むと許したように扱う」
学生たちが露骨に嫌な顔をした。
「ずるい」
「ずるいです」
「それ、法を守ってるんですか」
「守っているように見せている、という場合があります」
法は悪意を抑える。
同時に、法に合っているように見せる技術も育てる。
人類、そういうところだけ器用だ。
———
授業の終わりに、職員が一枚の相談札を持ってきた。
王都南区の小さな商会からだった。
「諸侯連合向けに魔法仮想文書を開いている商会です。包括的情報保護規則への対応で困っているそうです」
職員が読み上げる。
「追跡札の許諾板、記録消し願いへの対応、集めている記録の説明、問い合わせ窓口。何から手を付ければよいか分からない、と」
学生たちは、さっきの小工房の絵を見た。
笑いごとではなくなった。
さらに別の噂も届いていた。
「最近、外注業者が、断りづらい許諾板を売り込んでいるそうです。規則に対応済み、と言って」
ルドーが少し首をかしげた。
「守る法が」
「はい」
「なぜ妙な板を生む」
「人が運用するからです」
「嫌な答えだ」
「私も嫌です」
ルドーは表示盤を消した。
「次は現場だ」
「はい」
「守って疲れろ」
「言い方」
だが、たぶん正しい。
守る制度は必要だ。
そして、守る制度は人を疲れさせる。
最悪だ。




