第126話 術は動けばいいだけじゃない
王城出納局の術盤室は、乾いた熱で満ちていた。
古い術盤の低い唸り。
新しい術盤群の細い震え。
紙束。
冷めた茶。
眠っていない人間の顔。
困惑と諦め。
それに、少しの殺気。
移行現場だ。
最悪だ。
———
「仕様書通りに移しました」
若い術師が言った。
声が少し震えている。
「昨日の試験では通りました」
別の術師が、表示盤を指す。
「同じ入力を入れているはずなのに、今日は結果がずれます」
「入力が悪いのかと思いましたが、違いました」
「古い術盤では正しいのです。新しい術盤群では壊れます」
全員が疲れていた。
疲れている人間は、細かい差を見落とす。
そして移行は、細かい差だけで人を殴る。
対象は、王城の出納補助術だった。
税の受け取り、支払い、帳簿の締め。
王国の金の流れを支える古い術。
止められない。
だから古くなる。
古いのに止められない。
最悪だ。
———
私は術式列と実行痕跡を並べてもらった。
古い術盤で走った痕跡。
新しい術盤群で走った痕跡。
入力。
途中の印。
参照先。
出力。
最初は同じに見えた。
だが、途中から少しずれる。
「ここ、書かれている術式列と、動いた痕跡が違います」
若い術師が首を振った。
「そんなはずは」
「実行後だけ、参照先の印が変わっています」
別の術師が表示盤を覗き込む。
「でも、そこは固定のはずです」
「固定なら、変わりません」
嫌な感じがした。
授業の直後にこの感じはやめてほしい。
別条件の記録を出してもらう。
繁忙期の締め処理。
月末の支払い。
小口の払い戻し。
同じ術が、条件によって別の形で動いている。
術書に書かれた姿と、走っている姿が違う。
私は額を押さえた。
「これ……自分で自分を書き換えてる」
部屋が止まった。
———
「そんな馬鹿な」
若い術師が言った。
「術式列を自分で変えるなんて」
リゼが小さく言った。
「授業で聞いた嫌なやつ」
「その嫌なやつだ」
奥にいたベテラン術師が、苦い顔をした。
名はナザル。
この出納術を長く見てきた人物らしい。
「昔の術盤なら、ありえなくはありません」
若手たちが一斉に振り返る。
ナザルは古い保守記録を持ってきた。
紙は黄ばんでいる。
字は細かい。
余白に、当時の術師の愚痴がある。
「繁忙期の締め処理に耐えられなかったとあります。術盤が遅く、術座も足りなかった」
私は記録を読んだ。
当時の出納局は、増える税と支払いに追いついていなかった。
普通に書けば遅すぎる。
術座も足りない。
そこで当時の名人が、処理の段階ごとに術式列を上書きし、よく使う分岐を直接書き換えた。
「英雄的な仕事ですね」
私が言うと、若手たちが驚いた顔をした。
「英雄、ですか」
「当時は。これがなければ、出納局は繁忙期を越えられなかった」
昔の術師は愚かではない。
むしろ、かなり強い。
強すぎる人間が、その時代の制約を殴って突破した。
そして、その突破跡に後世の人間が落ちる。
———
問題は、新しい術盤群だった。
新しい術盤群は、術式列を固定されたものとして扱う。
安全のためだ。
読めるようにするためだ。
検証できるようにするためだ。
だが、旧術は違う。
走りながら自分を書き換え、次に読む行を変える。
記録領域を、途中から術式領域として使う。
条件が整うと参照先の印を書き換える。
「丸写しで移すのは無理です」
部屋が重くなった。
「では、どうすれば」
若い術師が聞いた。
怒りではない。
疲れた声だった。
「まず、旧術が実際にどう変形して動いているかを観測します」
表示盤に書く。
観測
仕様化
再実装
「動いた痕跡を集める。どの条件でどこを書き換えるかを洗う。暗黙の分岐を、読める形へ戻す」
「仕様化」
「はい。術書に書いてある姿ではなく、実際に走っていた姿を仕様にします」
「その後で」
「自己書き換えをやめた固定術式として組み直す」
リゼが言った。
「古い家の隠し扉を全部開けて、普通の廊下として作り直す感じ」
「かなり近い」
「でも、住んでる人を外に出せない」
「だから並行して動かします」
———
方針は地味だった。
旧術盤をすぐ捨てない。
新しい固定術式を横に作る。
同じ入力を両方へ流す。
差分を見る。
繁忙期相当の条件も試す。
差が出たら、旧術の変形をもう一度観測する。
「時間がかかります」
出納局の担当者が言った。
「かかります」
「すぐ移せると思っていました」
「それは無理です」
少しきつい言い方になった。
だが、ここで甘く言うと後で全員がさらに泣く。
「昔の工夫に意味がなかったわけじゃない。でも、今これをそのまま残すのは違います」
ナザルが静かに頷いた。
「名人の術を壊すことになりますか」
「違います」
私は首を振った。
「名人が当時守ったものを、次の時代でも守れる形に直すんです」
ナザルの目が少し変わった。
古いものを直す時、敬意の置き方を間違えると現場が割れる。
崇めすぎても駄目だ。
馬鹿にしても駄目だ。
理解して、役割を引き継ぐ。
———
夕方までに、最初の観測札が並んだ。
月末締めでは、参照先の印が三度変わる。
小口払い戻しでは、記録領域の一部が一時的に術式へ変わる。
繁忙期処理では、よく使う分岐が直接短い術式へ書き換わる。
若い術師たちは、青い顔でそれを見ていた。
「読める気がしてきました」
一人が言った。
「まだ読めません。でも、どこを読めばいいかは分かりました」
それは大きい。
地獄で道標を見つけるくらいには大きい。
ナザルが古い術盤を見た。
「こいつは、よく働いたんです」
「分かります」
「でも、もう一人で背負わせる時代ではない」
「そう思います」
古い術盤は、低く唸っていた。
誇っているのか、疲れているのかは分からない。
———
夜、出納局を出る頃には、空気が少し冷えていた。
リゼは隣を歩いていた。
王城の窓には、まだ灯りが残っている。
「今日のは、怖かった」
「怖い」
「でも、昔の人はすごかった」
「すごい」
「すごいけど、そのまま残すと今の人が泣く」
「そういうことだ」
リゼは少し考えた。
「古い梁を見て、昔の大工を褒める。でも、今の家に合わせて補強する」
「かなり近い」
「壊すんじゃなくて、渡すために直す」
「そうだ」
———
術は動けばいいだけではない。
人が読めなければ、次の時代に渡せない。
昔の術師の知恵は、確かに王都を支えた。
遅い術盤と狭い術座の中で、出納局を動かし続けた。
それは誇っていい。
だが、誇ることと、そのまま残すことは違う。
時代が変われば、強かった工夫が負債になる。
読めない術は、人を泣かせる。
だから、観測する。
仕様にする。
今の術盤で読める形へ作り直す。
古い知恵を捨てるのではない。
次の時代へ渡せる形に直す。
それが、たぶん移行という仕事なのだ。




