第125話 読めない術は次の時代で人を泣かせる
講堂の朝は、古い紙の匂いがした。
新しい教材ではない。
ルドーが持ち込んだのは、禁書庫から借りたという古い術書と、保守記録の束だった。
革表紙はひび割れ、留め金は鈍く光っている。
いかにも開けたくない。
だが、こういうものほど授業に出てくる。
最悪だ。
———
ルドーは表示盤に短く書いた。
術が自分を書き換える
「知っているか」
学生たちはざわついた。
「自分を」
「書き換える」
「術が」
「そんなこと、できるんですか」
ルドーは私を見た。
「できるか」
「できます」
自分でも少し嫌そうな声が出た。
「……でも、あまり関わりたくない類の技です」
学生たちの目が少し輝いた。
黒魔術という言葉に反応する年頃だ。
若い。
危ない。
「説明しろ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
———
私は表示盤に、普通の術式を描いた。
上から順に読まれる術式列。
入力を受ける。
計算する。
結果を出す。
「普通の術は、最初に書かれた術式列に従って動きます」
次に、その途中に筆を持った小さな手を描いた。
「自己書き換え術式は、動いている途中で、自分自身の術式列を書き換えます」
講堂が少し静かになった。
「つまり、この先に実行する内容が、実行中に変わる」
古い呪文書の絵を描く。
術者が読みながら、まだ読んでいない先の行を書き換えている。
その新しい行を、さらに読み進める。
リゼが眉を寄せた。
「それって、術が自分で自分の足場を削ってるみたい」
「近い」
「怖くないの」
「怖い」
学生の一人が言った。
「なら、なぜそんなことを」
良い問いだった。
黒魔術は、だいたい理由がある。
理由があるから余計に厄介だ。
———
私は古い術盤を表示盤に描いた。
小さい。
遅い。
術座も狭い。
「昔の術盤は遅かった。術座も狭かった。今なら当たり前にできることが、当時は重かった」
分岐を描く。
何度も同じ判断をする線。
「条件ごとに分かれるたび、無駄が大きい。よく使う部分を、その場の条件に合わせて直接書き換えると、速くなることがありました」
「速さのため」
「はい」
次に、狭い術座を描いた。
一つの棚に、複数の札束を入れ替える。
「術座が狭すぎる時、一つの場所を段階ごとに別の意味で使い回す工夫もありました。最初の段階が終わったら、その場所に次の段階の術式を上書きする」
リゼが言った。
「小さい台所で、まな板を洗って、次は皿置きにして、最後は包み台にする感じ」
「かなり近い」
「場所がなさすぎる」
「昔はそうでした」
さらに、鍵のかかった箱を描く。
「もう一つ。秘匿や複製防止です」
学生たちが身を乗り出した。
「術式を読まれて真似されないように、最初は本当の形を見せない。条件が整った時だけ、自分を書き換えて真の形になる」
「ずるい」
「かなりずるいです」
だが、当時の商売や軍務では、ずるさも技術だった。
———
私は少し間を置いた。
「つまり、昔は合理的でした」
講堂が静かになる。
「遅い術盤。狭い術座。真似されたくない術式。そういう制約の中で、自己書き換えは走れば正義だった時代があります」
リゼが小さく言った。
「怖いけど、必要だったんだ」
「そうだ」
昔の術師を馬鹿にはできない。
限られた道具で、王都の仕事を動かした。
繁忙期を越えた。
税を計算し、帳簿を閉じ、通信を守った。
その知恵は、確かに人を助けた。
ただし、助けたからといって、今も残してよいとは限らない。
———
表示盤に、嫌な言葉を四つ書いた。
読めない
確かめにくい
危険
移しにくい
「今、自己書き換え術式が嫌われる理由です」
まず、読めない。
「術書に書かれている姿と、実際に走る姿が一致しません。術書を見ても、最終的に何をする術なのか分かりづらい」
次に、確かめにくい。
「安全性や正しさを事前に確認しづらい。試した時と違う形へ変化する可能性があります」
次に、危険。
「術式と記録の境目が曖昧になります。本来ただの入力や記録領域だったものが、術そのものに影響しやすい」
学生の顔がだんだん真面目になった。
「最後に、移しにくい。新しい術盤や術具は、術式は固定されている前提で作られています。動きながら自分を書き換える黒魔術が残っていると、新しい環境へ移す時に泣きます」
ルドーが短く言った。
「誰が泣く」
「保守担当です」
「現場だな」
「はい」
「現場は泣く」
言い方。
だが、正しい。
———
学生の一人が言った。
「では、全部禁止すればいいのでは」
「新しく作るものでは、ほぼそうです」
「古いものは」
「残っています」
講堂が少し嫌な空気になった。
古いものは、だいたい重要な場所に残る。
重要だから長く使われ、長く使われるから古くなる。
最悪だ。
「昔の工夫に意味がなかったわけじゃありません。でも、今これをそのまま残すのは違います」
リゼが言った。
「昔の梁は家を支えたけど、今の増築には合わないことがある」
「そういうことだ」
「折らずに、でもそのままにもせず、直す」
「かなり近い」
———
授業の終わりに、ルドーが古い術書を閉じた。
重い音がした。
「力ある技は、人の理解を置き去りにする」
講堂が静かになった。
「当時の工夫には意味がある」
ルドーは私を見た。
続けろ、という目だった。
「でも、人に読めない術は、時代が変わると誰かを泣かせます」
自分で言って、嫌な予感がした。
こういう言葉は、だいたい現場を呼ぶ。
案の定、講堂の連絡札が鳴った。
王城出納局からだった。
古い会計術を新しい術盤群へ移している最中に、奇妙な不具合が出ているらしい。
テストでは通る。
本番相当では壊れる。
昨日は動いた。
今日は動かない。
ルドーは短く言った。
「行け」
「今ですか」
「現場が泣く」
泣いていた。
たぶん、もう泣いていた。




