第119話 見えない時ほど欲張るな
王都術務室は、紙と汗と熱い術盤の匂いで満ちていた。
表示盤の光が、壁を青白く照らしている。
赤い注意印。
欠けた線。
遅れて届く見張り値。
困惑と諦め。
それから、少しの怒り。
現場はいつも、表示盤が信用できなくなった瞬間に人間へ戻る。
最悪だ。
———
「負荷が本当に高いのか、観測盤だけがおかしいのか、分かりません」
術務官が早口で言った。
「一部の差配盤は、自動増設をかけています。別のところでは術盤を減らしています」
「減らしている」
「見張り値がゼロに見えたようです」
私は表示盤を見た。
確かに、王都市民向けの申請状況照会盤が、急に暇になったことになっている。
そんなわけがない。
午前の申請時刻に、市民向け照会が急に暇になるわけがない。
「観測盤の値を、唯一の真実として扱わないでください」
部屋の動きが止まった。
「見張り盤が壊れた時に、見張り盤の数字だけ見て動くな」
強く言った。
少し強すぎたかもしれない。
だが、今は柔らかくしている時間ではない。
「外見張りはありますか」
「外からの応答確認なら、簡易のものが」
「それを出してください。各窓口の手報告も拾います。札面が返るか。照会が返るか。現場で人が詰まっているか」
リゼが横で言った。
「豪華な見張り台が曇ったなら、外から戸を叩く」
「そういうことだ」
———
外見張りの結果は、粗かった。
粗いが、嘘のきれいな数字より役に立った。
申請状況照会盤は返りが遅い。
許可札発行窓口は生きているが、待ちが増えている。
交通局の乗合翼竜案内は普通。
観光案内札面は止めてもよい。
王立研究院の長期調査は後回しでよい。
私は表示盤に三つの欄を作った。
止められない
遅くてもよい
止めてよい
「全部は守りません」
術務官の一人が顔を上げた。
「全部、ですか」
「全部です。見えない時ほど欲張るな」
止められないもの。
市民向け申請の最低限。
許可札発行窓口。
交通局の安全連絡。
遅くてもよいもの。
日次報告。
集計文。
図板工房向けの報せ素材。
止めてよいもの。
観光案内の飾り札面。
研究院の長期分析。
急ぎでない整札庫の作り直し。
「自動増設を止めます」
部屋がざわついた。
「自動を止めたら、人手が足りません」
若い術務官が言った。
正しい。
自動化は、人手を節約するためにある。
「今は楽をする時じゃない」
私は言った。
「壊れた目に任せて、手足まで動かす方が危ない。手動運転に切り替えます。余力のある術盤は、止められないものから配ってください」
ルドーが短く言った。
「責任は王城だ」
「先生」
「動け」
術務官たちが一斉に動いた。
———
手動運転は、きれいではなかった。
担当者が声を張る。
別の担当者が札を運ぶ。
表示盤の前で、古い手順書をめくる。
誰かが茶をこぼす。
自動が壊れた時、人間は急に昔へ戻る。
昔へ戻れるだけ、まだましだ。
「申請状況照会盤、応答戻りました」
「許可札窓口、待ち減っています」
「観光案内札面、一時停止しました」
「研究院から抗議札」
「後で」
私は即答した。
人類は、自分の止められた仕事にすぐ抗議する。
それも仕事だ。
だが、今は後だ。
AIエージェント:「提案:抗議札の優先度は低です」
「黙れ」
リゼが少し笑った。
笑える空気が戻ってきたなら、少しだけ進んでいる。
———
昼前、千里盤工房と連絡がついた。
鏡面に映った担当者は、血の気が薄かった。
名はオルダ。
千里盤工房の基盤改め担当だという。
「申し訳ありません」
開口一番だった。
「まず状況を」
私は言った。
謝罪は後でいい。
現場では、謝罪より事実が先だ。
「昨夜、観測盤の下支えに基盤改めを当てました。一部の術盤を順に再起動する予定でした」
「予定でした」
「再起動後、術盤間の連絡経路が乱れました。見張り値の束が遅れ、一部が欠け、古い値が新しい値のように見える箇所が出ています」
部屋が静かになった。
「やりがちな改めです」
私は言った。
オルダの顔がさらに白くなった。
「責めているわけではありません。やりがちだからこそ怖い」
基盤を改める。
一部を再起動する。
連絡経路が揺れる。
観測盤が乱れる。
悪意はない。
天才悪役もいない。
ただ、十分ありうる保守作業と、十分ありうる見落としが重なった。
こういう事故が一番胃に悪い。
———
王都側の術務室長が、額に手を当てていた。
「工房側の事故、ということでよろしいでしょうか」
「それだけではありません」
私は言った。
部屋がまた静かになる。
「王都側も、観測盤を一本柱にしていました」
表示盤に、一本の柱を描く。
その上に、差配盤と自動増設と担当者呼び出しを載せる。
「値が来ない時の安全側動作を決めていなかった。見張り値がゼロに見えた時、古い値が届いた時、欠けた時の扱いも曖昧だった」
術務室長は黙って聞いていた。
「手動運転への切り替え訓練も足りません。手順書はありましたが、探すのに時間がかかりました」
若い術務官が俯いた。
私は首を振った。
「個人を責める話ではありません。仕組みの話です」
ルドーが短く言った。
「甘かった」
術務室長は、少しだけ息を吐いた。
「はい。甘かった」
「直せ」
「直します」
言い訳が出なかった。
それだけで、この現場はまだ強くなる。
———
復旧は段階的に進んだ。
千里盤工房は、観測盤の下支えを一部ずつ戻した。
王都側は、自動増設を止めたまま、外見張りと手報告で重要術務を守った。
古い値を新しい値として読まないよう、差配盤の入口に止め札を置いた。
夕方には、見張り値の遅れはかなり減った。
記録札も追いつき始めた。
王都の市民向け術務は、遅れながらも動いている。
全部は美しくない。
だが、事故対応で最初から美しさを求めると、たいてい人が倒れる。
「改善を整理します」
私は表示盤に書いた。
別立ての見張り
値が来ない時の振る舞い
段階投入
手動運転
「まず、別立ての見張りを持つ。豪華な観測盤が倒れても、外から戸を叩いて返事があるか確かめる術は残す」
リゼが頷いた。
「家の中の時計が壊れても、外の鐘で朝かどうか分かるようにする」
「近い」
「次に、値が来ない時の振る舞いを決める。遅れたらどうする。欠けたらどうする。来なかったらどうする。見えない時は、安全側に倒す」
術務官たちが書き取っている。
「基盤改めは一度に広く当てない。王都全部の床石を一夜で張り替えるな。一部で試して、異常がないか見てから広げる」
何人かが苦笑した。
比喩は伝わったらしい。
「最後に、手動運転の手順を残す。完全自動は気持ちいい。ですが、事故ると弱い。人が介入する手順を残し、たまに訓練してください」
術務室長が深く頷いた。
「必ずやります」
———
夜、術務室を出る頃には、王都の空気は冷えていた。
石畳が昼の熱を失い、遠くで馬車の車輪が鳴っている。
リゼは隣を歩いていた。
「今日は、見張りの話なのに、見張りだけじゃなかったね」
「見張りだけなら、まだましだった」
「便利な見張り盤に頼るのは分かる」
「分かる」
「でも、その見張り盤が壊れたら、自動で動く仕組みまで揺れるのはまずい」
「そうだ」
リゼは少し考えてから言った。
「つまり、見張りと差配を近づけすぎたんだね」
「かなり正確だ」
「褒められた」
「褒めた」
リゼは少しだけ満足そうに歩いた。
疲れていた。
だが、最悪は避けた。
それだけで、今夜は十分だった。
———
見えることと、動かすことは、似ているようで別だ。
よく見える仕組みは強い。
だが、その目を一本柱にして、手足まで預けると脆くなる。
見張りの術が優秀でも、それを一本柱にするな。
値が来ない時の振る舞いを、先に決めておけ。
自動で動く仕組みほど、手で止める道を残しておけ。
見通しを失った時こそ、仕組みの骨が出る。
今日見えた骨は、少し細かった。
なら、次は太くすればいい。
壊れた目に、手足まで預けるな。




