第116話 全部ためると全部読む
講堂の朝は、紙と湿った木の匂いがした。
雨は降っていない。
それでも王都の空気は重い。
春の商いが戻り、旅人が戻り、役所の札束も戻ってきたからだ。
人の往来が増えると、街は明るくなる。
そして、記録係の目が死ぬ。
だいたい同時に起きる。
最悪だ。
———
ルドーは表示盤に短く書いた。
記録が百倍になる
「どうする」
学生たちは顔を見合わせた。
「書庫を増やします」
「棚を増やします」
「強い術盤を買います」
「記録係を増やします」
ルドーは一語ずつ斬った。
「足りん」
「遅い」
「高い」
「逃げる」
最後だけ人間の話だった。
だが、たぶん正しい。
リゼが少し手を上げた。
「すごく強い一台を買えばよくないの」
自然な問いだった。
そして、王都の偉い人が最初に言いがちな答えでもある。
ルドーが私を見た。
「説明しろ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
今日は早い。
———
私は表示盤に、大きな術盤を一つ描いた。
その横に、小さめの術盤を十個描く。
「一台をどこまでも強くする発想は分かりやすいです」
大きな術盤を光らせる。
「ですが、高くなります。大きくなります。壊れた時の影響も大きい。何より、強さには限界があります」
次に、小さな術盤をまとめて線で結んだ。
「そこで、並の術盤をたくさん並べる。ひとつの大きな仕事を小さく分け、それぞれの術盤へ配る。最後に結果を集める」
学生の一人が眉を寄せた。
「弱いものを集めるんですか」
「弱いものではなく、そこそこのものです」
「そこそこ」
「大事です」
私は術盤の群れの上に書いた。
術盤群
「一台の怪物を買う代わりに、扱える術盤を束ねる。王都規模の商業記録、税記録、旅人の出入り、乗合翼竜の運行記録、魔文通信の利用統計。そういうものを相手にすると、この発想が効いてきます」
リゼが言った。
「大鍋ひとつで全部煮るんじゃなくて、小鍋を並べて同時に作る感じ」
「近い」
「最後に盛り合わせる」
「かなり近い」
———
次に、私は表示盤に大きな水面を描いた。
そこへ札束を次々に落とす。
「記録が増えると、もう一つ問題が出ます。最初から何に使うか分からない記録が多い」
「分からないなら捨てればいいんじゃないですか」
学生の声は軽かった。
若い。
捨てたあとで必要になったことがまだ少ない顔だ。
「後で必要になることがあります」
「全部、ですか」
「全部ではありません。ですが、後で必要なものがどれか、最初に分からない」
私は水面の横に書いた。
水鏡庫
「だから、生の記録を大きな保管庫へためる。最初から完璧に整えず、とにかく失わないように置いておく」
講堂が少しざわついた。
「ぐちゃぐちゃのまま貯めるんですか」
「後で読めますか」
「誰が整理するんですか」
リゼも言った。
「全部取っておけば安心、って聞こえるけど、押し入れに何でも突っ込む家みたい」
「その通りです」
「通りなの」
「便利です。危険でもあります」
水鏡庫は便利だ。
最初から用途を決めなくてもいい。
失敗した集計をやり直せる。
昨日は不要だった記録が、明日には疫病や商いの変化を見る手掛かりになる。
だが、便利なものは人を甘やかす。
人は甘やかされると、押し入れの奥に鍋と靴と古い請求札を同じ箱へ入れる。
最悪だ。
———
私は術盤群の上に札束を散らした。
「記録を扱う時、もう一つ大事な考え方があります」
札束を一か所へ集める線を引く。
線が太くなり、赤く濁った。
「全部を一つの場所へ運んでから数えると、運ぶだけで詰まります」
「じゃあ、どうするんですか」
「記録の近くで数えます」
私はそれぞれの術盤の横で小さな数え札を光らせた。
「各術盤に置かれた記録を、その場で選ぶ。数える。要らないものを落とす。最後に、軽くなった結果だけを集める」
学生たちの顔が少し変わった。
大鍋と小鍋の続きとして、理解しやすかったらしい。
リゼが言った。
「倉から全部店先に運んで数えるんじゃなくて、倉ごとに数えて、合計だけ持ってくる」
「そういうことだ」
「それなら楽そう」
「正しく分けてあれば、楽です」
私はそこで、少し間を置いた。
「ただし」
講堂に嫌な空気が流れた。
学生たちは、もう私の「ただし」を信用していない。
正しい。
「最初は一息で読めた札束が、気づけば荷車百台分になることがあります」
表示盤の水鏡庫を広げる。
札束が増える。
小さな水面が湖になり、湖が沼になる。
「日付も地域も用途も分けず、生の記録をただ積む。最初は問題ありません。小さいからです。月日がたつと、昔の雑さが牙をむく」
「今日の数字を見るだけでも」
リゼが言った。
「押し入れを全部ひっくり返す」
「そうなる危険があります」
———
授業の終わり頃、講堂の遠話鏡が鳴った。
ルドーが出る。
鏡面には、王都術務室の職員が映っていた。
目の下が濃い。
基盤担当者の顔だ。
「ルドー先生、ユウ殿。ご相談があります」
「言え」
「共用の大規模集計術盤群が、最近たびたび詰まります」
講堂の空気が変わった。
授業で描いたばかりの術盤群が、現実からこちらを見ている。
「ある部署の重い集計が走ると、他部署の朝の報告まで遅れます。原因がはっきりしません」
「部署は」
「税務局、観光局、旅券局、交通局、王立研究院。ほかにも」
多い。
共用基盤に人が集まるのは、便利だからだ。
便利だから人が寄る。
人が寄るから詰まる。
人類はだいたい、便利なものを混雑させる。
ルドーは短く言った。
「行け」
「今からですか」
「現場は待たん」
待ってほしかった。
だが、現場は本当に待たない。
———
王都術務室の集計室は、熱かった。
術盤群が並ぶ奥から、低い唸りが続いている。
表示盤には、走っている仕事の札が何十枚も重なり、赤や黄の印が点滅していた。
紙束。
冷めた茶。
床に落ちた書き損じ。
困惑と諦め。
現場だ。
「昨日は税務局でした」
担当者が言った。
「今日は観光局です。その前は旅券局でした。朝の報告が遅れ、交通局の乗合翼竜集計まで巻き込まれました」
「術盤群は一つですか」
「はい。部署ごとに持つより安いという話で」
「安い」
「聞こえは良いです」
担当者は乾いた笑いをした。
「今は、全員で同じ台所に押し寄せている感じです」
リゼが小さく言った。
「鍋も火口も取り合いね」
「その比喩、かなり正確だ」
私は表示盤に並ぶ仕事札を見た。
観光局の朝集計。
税務局の月次照合。
旅券局の来訪者推移。
王立研究院の長期調査。
どれも必要そうだった。
だから厄介だった。
悪役はいない。
いるのは、必要な仕事を投げた人々と、それを全部受けてしまった仕組みだけだ。
———
私は一つの仕事札を開いた。
観光局の「今日の宿泊助成利用数」。
今日。
それだけを見るはずの仕事だ。
だが、記録の読み出し先が広すぎる。
王都全域。
全期間。
全宿。
全旅券。
次の仕事札も開く。
税務局の昨日分確認。
これも、過去の全商業記録へ手を伸ばしている。
私は額を押さえた。
見覚えがある。
とても嫌な見覚えがある。
AIエージェント:「観測:あなたの過去職務記憶に近い苦痛です」
「黙れ」
リゼが横目で見た。
「そんなに嫌なやつ?」
「嫌なやつだ」
表示盤の線を追う。
水鏡庫の底から、古い記録までごっそり持ち上がっている。
今日の数字を見るために、昨日どころか去年の祭りの記録まで読んでいた。
私は言った。
「……これ、誰かが全部読んでるな」




