第115話 誤差が小さいということは、早く届くということだ
王都交通局の救助室は、雨の匂いがした。
濡れた外套。
泥のついた靴。
焦げた茶。
壁の表示盤には、山地の図が大きく映されている。
乗合翼竜の便名。
乗客数。
乗員。
最後に届いた測位印。
救助隊はもう動き出していた。
だが、どこへ向かうべきかが絞り切れていない。
山の上では、迷いは距離になる。
距離は時間になる。
時間は、体温を奪う。
最悪だ。
———
表示盤には、広い円が描かれていた。
他国の天蓋測位網だけで出した、おおよその位置。
山一つ分。
谷二つ分。
尾根の北側も南側も含んでいる。
「広すぎる」
救助隊長が言った。
「この範囲を全部見るには、夜が明けます」
「夜を越せますか」
「分かりません。雨と風が強い。翼竜の状態も、乗客の怪我も不明です」
交通局の担当者が、額を押さえていた。
名はガレン。
以前、乗合翼竜の測位札更新に渋い顔をしていた人物だ。
「他国の導標だけでも足りると思っていました」
「平地なら足りることも多いです」
「山では」
「足りないことがあります」
ガレンは唇を噛んだ。
———
その言葉で、少し前の会議を思い出した。
王都交通局の会議室。
卓の上には、乗合翼竜の整備札と費用見積もり。
議題は、測位札の更新だった。
「今でも飛べています」
ガレンはそう言った。
「他国の天蓋測位網で、おおよその位置は出る。王国の天頂導き盤はまだ試し運用でしょう」
「試し運用でも、山地では効きます」
「全機更新は費用が重い」
「全機でなくても、長距離便と山越え便からでいい」
「そこまで差が出ますか」
私は表示盤に、山の図を描いた。
「普段は差が見えません。飛べているからです」
「なら」
「事故の時に見えます」
会議室が少し静かになった。
「尾根のこちら側か、谷の向こう側か。測位の誤差が、救助隊の行き先を変えます。山では少しのずれが命取りになる」
ガレンは納得し切っていなかった。
それでも、山越え便から更新する案は通った。
渋い承認だった。
渋くても、通ったなら勝ちだ。
———
現在の救助室へ意識を戻す。
「当該機の測位札は、更新済みです」
若い係員が言った。
「天頂導き盤の印を受けています。ただ、記録が雨で途切れ途切れです」
「最後の数刻を出してください」
表示盤に、印が並んだ。
他国の天蓋測位網からの印。
王国の天頂導き盤からの印。
それぞれ、送られた刻と届いた刻。
私は息を整えた。
「時の差を見ます」
係員が頷いた。
「他国の導標だけだと、この広い範囲です」
表示盤の大きな円。
「天頂導き盤を加えると」
円が縮む。
山一つ分が、尾根の南斜面へ狭まった。
さらに最後の印を重ねる。
谷の入口近く。
崩れた旧道の上。
救助隊長の目が変わった。
「ここなら、南の沢から上がれる」
「北からだと崖です」
「南隊を向かわせる。北隊は尾根上で待機」
迷いが消えた。
それだけで、部屋の空気が変わった。
———
現場からの報せは、遅く、短く届いた。
南隊、旧道確認。
翼竜の羽根跡あり。
客籠の吊り具発見。
乗客の声あり。
救助室で、誰も喋らなくなった。
遠話鏡の向こうから、雨音と荒い息が聞こえる。
「到着」
救助隊長の声。
「乗員生存。乗客、怪我人あり。重傷二名。冷えが強い。夜を越していたら危なかった」
ガレンが椅子に手をついた。
倒れそうだった。
リゼが小さく息を吐いた。
私も、ようやく息を吐いた。
間に合った。
それ以上の言葉は、しばらく要らなかった。
———
救助は夜まで続いた。
全員がすぐ歩けるわけではない。
翼竜も傷んでいる。
客籠は斜面に引っかかり、雨水が入り込んでいた。
それでも、救助隊は正しい場所へ向かった。
迷って尾根の反対側を探さなかった。
谷を一つ間違えなかった。
誤差が小さい。
ただそれだけのことが、現場では大きかった。
ガレンが私の前に来た。
濡れた髪を乱したままだった。
「ユウ殿」
「はい」
「あの時、更新を渋りました」
「覚えています」
「渋られても困るところです」
「そうですね」
彼は苦笑した。
それから、深く頭を下げた。
「進言がなければ、もっと危うかった。ありがとうございました」
「採用したのは交通局です」
「それでも、言われなければ後回しにしていました」
私は返事に困った。
困ったので、表示盤の山を見た。
旧道の上に、小さな救助印が灯っている。
———
夜遅く、王城を出る頃には雨が上がっていた。
リゼは隣を歩いていた。
いつもより少し静かだった。
「よかったね」
「間に合ってよかった」
「誇ってもいいんじゃない」
「通したのは交通局だ」
「でも、言ったのはユウでしょ」
「言うだけなら簡単だ」
「簡単じゃないから、みんな後回しにするんでしょ」
それは、少し痛いところだった。
私は空を見上げた。
雲の切れ間に、星が少しだけ見えている。
そのさらに上に、天の術盤がいる。
人の目には見えないが、時を刻み、印を送り続けている。
「あの時、更新を通しておいてよかった」
声に出すと、ようやく実感になった。
リゼは少し笑った。
「そういうの、もっと言っていいと思う」
「努力する」
「そこは即答しないのね」
「難しい」
リゼは笑った。
———
位置を知る術は、道に迷わないためだけのものではない。
誤差が小さいということは、それだけ人に早く届くということだ。
山の向こうか、谷のこちらか。
その違いが、夜を越せるかどうかを分けることがある。
空に置いた基準は、結局、地上の命を救うためにある。
平時には見えにくい。
費用だけが見える。
手間だけが見える。
だが、必要になる時は来る。
そして、その時に作り始めても間に合わない。
天頂導き盤の印は、今夜も王国の上から降っている。
誰にも気づかれないほど静かに。
だが、必要な時には、迷わず届くために。




