第106話 要るものが違う
王都の朝は、少しだけ音を取り戻していた。
荷車の車輪。
市場の呼び声。
学校へ向かう学生たちの足音。
術負け病が消えたわけではない。
数日後に集まりから熱の者が出て、町区の掲示が慌ただしく貼り替わることもある。
それでも、人は顔を見て話したがる。
遠話鏡は便利だ。
便利だが、同じ卓の湯気や、隣の人間の笑いまでは運んでくれない。
人類は、鏡越しでは満足しきれない。
最悪だ。
少し分かる。
———
朝、リゼが一枚の札を卓に置いた。
王都の印が入っている。
旅宿支え札。
宿屋や乗合翼竜を使う旅の代金を、一部だけ王国が肩代わりする札だった。
「行こう」
「どこへ」
「旅」
「急だな」
「急じゃないわ。ずっと閉じこもってたもの」
リゼは言い切った。
珍しく強い。
「宿屋も翼竜場も大変なんでしょ。助けにもなるし、私も外へ出たい」
「理屈は通っている」
「じゃあ行く」
「俺の意思は」
「あるでしょ。今、理屈が通ってるって言った」
言った。
言ってしまった。
最悪だ。
私は旅宿支え札を手に取った。
紙は薄いが、王都の印はしっかりしている。
対象の宿。
乗合翼竜の便。
使える日数。
細かい条件が小さく書かれている。
「これ、読む人いるのか」
「あなたは読むでしょ」
「読む」
「だから連れていく」
「荷物扱いか」
「読める荷物」
ひどい。
だが、旅には向いているかもしれない。
———
乗合翼竜場は、久しぶりの混雑だった。
大きな翼竜が伏せ、胴の下に吊られた客籠へ旅人たちが乗り込んでいる。
太い吊り革と金具が、翼の付け根を避けるように張られていた。
革袋。
土産籠。
子どもの声。
係員の呼び声。
誰もが少し浮かれている。
同時に、少しだけ後ろめたそうでもある。
まだ病は終わっていない。
しかし、宿屋も運び屋も、ずっと空では生きていけない。
リゼは客籠の窓から外を見ていた。
「高い」
「まだ飛んでない」
「乗った時点で高い」
「それはそう」
翼竜がゆっくりと首を上げた。
籠の上で、胴の筋肉が動く。
吊り革が低く鳴る。
風が巻いた。
浮く。
金属の船とは違う。
翼が生きている。
風を噛み、体をしならせ、空へ出る。
リゼが小さく息を呑んだ。
「ユウの世界の空を飛ぶ船も、こんな感じ」
「かなり違う」
「どっちが怖い」
「どっちも怖い」
「正直ね」
正直でないと空では困る。
———
地方都市アマネは、王都より低く、広かった。
白い壁の家が斜面に並び、細い水路が街の真ん中を流れている。
石畳は少し丸い。
人の歩き方も、王都よりゆっくりだった。
店先では、主人が客の顔を見て品を包んでいる。
帳面を開かない。
名前も聞かない。
「いつもの干し果」
「今日は二袋だろ」
「よく分かったな」
「奥さんが来る日だ」
成立している。
かなり成立している。
王都なら危ない。
客が多すぎる。
係が入れ替わる。
顔だけでは追えない。
だが、この通りでは違う。
客が店を知っている。
店が客を知っている。
帳面の外側に、関係という帳面がある。
私はそれを見て、少し黙った。
「気になる顔してる」
リゼが串焼きを片手に言った。
「管理が甘いと思った」
「思ったのね」
「思った。だが、今は少し違う」
「違うって」
「ここでは、これで足りている」
リゼは串をかじった。
「みんな王都みたいにせかせかしてないんだね」
「遅いんじゃなくて、要るものが違うんだろうな」
「台所みたい」
「台所」
「家の台所なら、塩の場所に札なんて貼らないでしょ。そこにあるって、家の人は知ってるから」
「店にしたら貼る」
「そう。人が増えたら貼る」
分かりやすい。
悔しいくらい分かりやすい。
———
宿は、水路沿いにあった。
木の看板には、青い羽根亭とある。
古いが、よく磨かれている。
玄関には花が置かれ、内側から煮込みの匂いがした。
「いらっしゃい」
宿の主人は、丸い顔の大きな男だった。
声も大きい。
名はバルトというらしい。
「王都からか」
「はい」
「最近多いな。支え札さまさまだ」
バルトは笑った。
笑ってから、卓の上の帳面を見て眉を寄せた。
「ええと、二人。泊まりは二晩。飯は」
「朝夕付きでお願いしています」
「そうだったな。たぶん」
たぶん。
宿の主人の口から出ると、少し怖い言葉だ。
バルトは帳面をめくった。
紙札が挟まっている。
予約札。
旅宿支え札の控え。
到着済みの印。
延泊希望の走り書き。
かなり混ざっている。
「部屋は二階の水路側だ。たぶん」
「たぶんが多いな」
リゼが小声で言った。
「聞こえてるぞ、嬢ちゃん」
「すみません」
「いい。俺もそう思ってる」
バルトは豪快に笑った。
笑いながら、帳面の上に別の札を重ねた。
危ない。
かなり危ない。
———
部屋は良かった。
窓から水路が見える。
夕方の光が揺れて、天井に細い波を映していた。
リゼは荷を置くと、すぐ窓を開けた。
「いいところ」
「いいところだ」
「でも、下は大変そう」
「そうだな」
廊下の向こうで声がした。
「飯付きって言っただろ」
「いや、帳面では素泊まりで」
「支え札には飯付きってあるぞ」
別の声。
「二階の水路側って聞いたんだが」
「そこ、さっき別の客が入った」
沈黙。
その後、重い足音。
私は窓から視線を戻した。
「今の規模なら足りていた仕組みが、急に足りなくなっている」
「旅宿支え札で、人が増えたから」
「たぶん」
「直すの」
「まだ分からない」
「珍しい」
「旅に来たからな」
「旅先でも聞き耳を立ててる人が言うこと」
それはそう。
———
夜、食堂は小さく混乱していた。
大事故ではない。
誰かが倒れたわけでもない。
ただ、地味に困ることが重なっている。
飯付きの客に飯が出ない。
素泊まりの客に膳が二つ出る。
同じ部屋の鍵が二組に渡りかける。
乗合翼竜の遅れで、未着のはずの客が一度に来る。
バルトは汗をかいていた。
家族らしい若い男と女が、帳面と厨房を行ったり来たりしている。
誰も怠けていない。
むしろ、動きすぎている。
だから余計に悪くなる。
バルトが私を見た。
少し疑わしそうな目だった。
「おまいさん、王都の術師か何かか」
「近い仕事はしています」
「ややこしい仕組みを持ち込むなら、ごめんだぞ。うちは宿だ。役所じゃねえ」
「分かります」
「本当に分かってんのか」
「まだ見ています」
バルトは鼻を鳴らした。
「見るだけなら好きにしな」
私は頷いた。
見るだけ。
まずはそれでいい。
全部を変える必要はない。
この宿は、もともと回っていた。
今だけ、客の波が大きすぎる。
必要なのは、王都式の大きな術ではない。
たぶん、足元に置く小さな札だ。




