第一章:木の部屋
私は、自分のものではない世界で目を覚ました。
天井は木だった。黒ずんだ古い梁が、何本も頭の上を走っている。
障子窓から差し込む光は弱々しく、どこか埃っぽい空気をぼんやりと照らしていた。
匂いも知らない匂いだった。乾いた木と、湿った苔のような冷たい匂い。
すべてが異質で、すべてが私の知っている世界とはかけ離れていた。
体が動かない。
鉛でも流し込まれたように重く、まずは指一本を持ち上げようとした。
次に手を、腕を――すべてが鈍く、弱々しかった。
まるで一生分の大病を患った後のように、私の体は私の言うことを聞かなかった。
――ここはどこだ。
私の家か? 違う。田中宏のアパートに、こんな木の天井はなかった。
病院でもない。病院ならもっと清潔で、消毒液の匂いがするはずだ。
ここは違う。古い木と、湿った苔の匂いがする。
もしかして、私はあの事故から本当に生き延びたのか?
それとも、これは死ぬ前に見る夢の続きなのか。
そう思った瞬間、記憶が堰を切ったように溢れ出した。
明子の顔。あの感情のこもらない声。
「今日中に荷物をまとめて出て行って」――そう言った時の彼女の冷たさ。
雄輝の顔。
「父さんにはもう会いたくない」――十五年間、毎朝弁当を作り続けたのに。
健二の顔。
私を嵌めた後に見せた、あの無関心な表情。
そして母の声。
「役立たず」――電話越しのあの一言が、とどめだった。
胸が締め付けられる。息が苦しい。
慣れ親しんだ感覚――絶望と虚無と、すべてに対する無力感が、心の奥底からせり上がってくる。
ああ、もういい。十分だ。
どうせ誰も私を必要としていない。
どうせ誰も、私の存在なんて覚えていない。
いっそ、このまま死んでしまえ。
目を閉じる。体を布団に沈み込ませる。
このまま意識が消えてしまえば、どれほど楽か。
――ガタンッ。
突然、部屋の空気が変わった。
勢いよく障子が開く音がして、誰かが入ってきた気配がする。
私は重い瞼を持ち上げ、音のした方に顔を向けた。
そこには、若い女が立っていた。
メイド服を着ている。手には小さな盆。
彼女は私を見て、硬直した。
私も彼女を見て、硬直した。
一秒。二秒。時間が止まったみたいに、二人とも動けなかった。
次の瞬間、彼女の手から盆が滑り落ちた。
陶器が床に当たって割れる鋭い音。中身が派手に散らばる。
しかし彼女はそれを気にする様子もなく、一歩後ずさりし、顔を真っ青にして、思い切り息を吸い込んだ。
「アルベール様がお目覚めになりました―――――!!!」
耳をつんざくような叫び声が、家中に響き渡った。
木の壁に反響し、廊下の奥まで突き抜けていく。
警鐘のような、あるいは悲鳴のような、そんな声だった。
私はハッとして、慌てて部屋の中を見回した。
誰かいるのか。この「アルベール」という人物が、私の他にいるのか。
しかし、誰もいない。私と、今にも卒倒しそうなメイドだけだ。
アルベール? 誰がアルベールだ。
ここには私しか――。
その時、私は初めて自分の体を見た。
いや、「見た」というより「気づいた」という方が近い。
さっきまですっかり忘れていた。体が重いのは当然だ。動かないのも当然だ。
だって、この体は――。
私は裸同然だった。薄手の短いズボン一枚だけ。
そして、そこに露出した手足は、恐ろしいほどに痩せこけていた。
腕は枯れ枝みたいだ。青白い肌の下から肋骨が浮き出ている。
ふくらはぎは萎びて、ほとんど肉がついていない。
私は手を持ち上げて、まじまじと見つめた。
長くて細い指。骨ばった関節。
とてもじゃないが、四十二年生きた中年の手じゃない。
――なんだこれは。
私は太っていたはずだ。ビール腹で、丸顔で、手足もゴツかった。
それが、どうしてこうなった。まるで別人じゃないか。
いや、別人どころか、まるで別の生き物だ。
歩く枯れ木。それ以外に、自分をどう表現していいのかわからなかった。
その時、稲妻のような考えが頭をよぎった。
――まさか。まさか、そんなことが。
異世界転生。
若い頃に読み漁ったライトノベルの中だけの話だ。
死んだら別の世界に生まれ変わる。魔法と剣の世界で、新しい人生をやり直す。
そんなの、ただの作り話だ。フィクションだ。現実に起きるはずがない。
でも――。
もう一度、部屋を見回す。
木の天井。障子戸。西洋風のメイド服を着た女と、明らかに日本建築の古い家。
すべてがチグハグだ。すべてが、私の知っている世界の常識から外れている。
そして何より、この痩せこけた体。この若い手。これは私のものじゃない。
ありえない。信じられない。認めたくない。
だけど――。
私はゆっくりと、痩せ細った拳を握りしめた。
思うように力は入らなかったが、それでも私は確かに拳を握ったのだ。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
さっきまでの絶望じゃない。さっきまでの虚無でもない。
もっと熱くて、もっと強い何かだ。
――これは、希望か。
そうか。そういうことか。
私は本当に――あの時、死んだんだ。
そして、もう一度生き返った。新しい体で。新しい世界で。
神様は――いるのか、いないのか、そんなことはどうでもいい。
でも、何かが私の叫びを聞いた。
あの雨の夜、東京の冷たいアスファルトの上で、私が最後に吐き出した魂の叫びを。
「来世では自分のためだけに生きる」
その誓いが、叶えられたんだ。
今度こそ、私は自分のためだけに生きる。
誰かの期待に応えるためでも、誰かに嫌われないためでもない。
ただ、私自身のために。誰がなんと言おうと、私はもう、誰にも従わない。誰にも遠慮しない。
だが、次の瞬間には、現実が押し寄せてきた。
どたどたと、複数の足音が廊下を駆けてくる。五、六人分だ。
あっという間に部屋の前に集まり、一斉に雪崩れ込んでくる。
狭い部屋はあっという間に人で埋まった。
彼らは奇妙な服装をしていた。
長いジャケット、プリーツの入ったスカート、襟元や袖口の凝ったレース飾り。
まるで中世ヨーロッパの貴族だ。映画やドラマでしか見たことがないような格好を、彼らは普通に着こなしている。
私は反射的に立ち上がろうとした。
だが足が言うことを聞かない。膝が震え、がくんと崩れる。
体全体が前に倒れかけた瞬間、別のメイドが二人、慌てて駆け寄って私の両脇を支えた。
その顔には、恐怖と驚きと、それからかすかな喜びが入り混じっている。
奇跡と災難が同時に起きたかのような、複雑な表情だった。
彼女たちはそっと私をベッドに座らせてくれた。
私は肩で息をした。ただ立ち上がろうとしただけで、これだ。全身が悲鳴を上げている。
一人の男が、群衆の中から進み出た。
金髪をオールバックにした、長身の男だ。
肩幅が広く、立ち姿だけで只者ではないことがわかる。
角ばった意志の強そうな顔立ちだが、深い青の瞳は、紛れもない心配の色で私を見つめている。
濃紺のジャケットの襟元には、金糸の刺繍が施されていた。
「アルベール、体の調子はどうだ」
低く落ち着いた声だった。父親が息子にかける、安心させるための声。
思いやりに満ちた、温かみのある声。
だが、私にはその男が誰だかわからなかった。
私は周りの顔を見回した。男も、女も、子供も、全員が私を凝視している。
まるで幽霊でも見るような目つきだ。
私はもう一度金髪の男に視線を戻し、正直な疑問を口にした。
「……あんた、誰だ」
部屋の空気が凍りついた。
金髪の男は、平手打ちを食らったように固まっている。
他の者たちも、一瞬息をするのを忘れたみたいに沈黙した。
「あんたのことは知らない。どうして俺のことを『息子』なんて呼ぶんだ」
ざわめきが広がる。誰かが息を呑む音。誰かが何か囁く声。
そのざわめきをかき分けるように、一人の少年が進み出てきた。
十三、四歳くらいだろうか。栗色の髪に、整った顔立ち。母親の面差しを色濃く受け継いでいる。だが、目の色は母親とは違った。深い緑ではなく、曇り空のような薄い青。その目が、今、私をまっすぐに見つめている。
少年は早足で近づいてきた。駆け寄るでもなく、しかし迷いもなく。私の目の前でぴたりと止まると、まっすぐに私を見た。
「兄さん」
声は、落ち着いていた。だが、その奥で、何かが必死に堪えているのがわかった。
「僕のこと、覚えてる? セドリックだよ」
セドリック。
私は頭の中を探った。名前。顔。声。思い出の欠片。何か一つでも、この少年と結びつくものはないかと。
でも、どこにもなかった。
私は、ゆっくりと首を横に振った。
少年の顔から、表情が消えた。怒りでも、悲しみでもない。ただ、すっと、光が抜け落ちるように。目が、わずかに伏せられる。
彼は何も言わなかった。問い詰めるでもなく、泣くでもなく。ただ、静かに私を見ていた。その瞳の奥で、何かが静かに砕けていくのが、わかった。
数秒後、彼は小さく息を吐いた。それから、静かに一歩、後ろへ下がった。もう一歩。そして、群衆の中へと戻っていく。振り返りもせず、誰かに話しかけるでもなく。ただ、静かに、その場を離れた。
その背中は、年齢に見合わないほど、落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
今度は女が進み出た。
炎のように真っ赤な髪を、高い位置で結い上げている。
気品のある顔立ちだが、その顔は今、青褪めて、震えている。
彼女は両手で口元を押さえ、信じられないものを見る目で私を見つめていた。
「アルベール……母さんのことがわからないの? ロザリンドよ。あなたの母ですよ……」
声が震えている。言葉の端々に、祈りにも似た響きがあった。
どうか思い出してほしい。どうか嘘だと言ってほしい。
そんな悲痛な願いが、ありありと伝わってくる。
私はまた首を振った。知らない。この人も、知らない。
すると彼女はまるで糸が切れた人形のように、その場にくずおれた。
すんでのところで金髪の男が支え、近くの椅子まで連れて行く。
彼女は椅子に座り込むと、両手で顔を覆い、声を押し殺して泣き始めた。
「ああ……私の息子が……五年も待って、やっと目を開けたのに……私のことが、誰だかわからなくなってしまった……」
さらに小さな影が、母親のスカートの後ろに隠れているのに気づいた。
七、八歳くらいの少女だ。母親と同じ赤毛を、二つに結んでいる。
彼女は母親の陰から、怯えた目で私をチラチラと覗き見ていた。
私と目が合うと、びくっとして、さらに奥に引っ込んでしまう。
申し訳ないと思った。
彼らは本物の悲しみを抱えている。本物の苦しみを味わっている。
それを引き起こしたのは、私だ。
でも、私にはどうすることもできない。私はアルベールじゃない。
彼らが愛していた息子じゃないんだ。
金髪の男は、ようやく平静を取り戻したようだった。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
それから彼は私の目の高さまで膝をつき、真っ直ぐに私を見た。
その瞳はまだ動揺していたが、それでも強い意志の光を失ってはいなかった。
「アルベール。何か――何でもいい。覚えていることはないか。ほんの小さなことでも構わない」
私はその目を見返した。嘘をつくつもりはなかった。少なくとも、この部分については。
「何も。何も覚えていない。ここがどこかも、あんたが誰かも。全部だ」
男はしばらく沈黙した。
それから小さく頷き、ゆっくりと立ち上がった。
彼は一度だけ妻の方を見て、何か目配せをした。
それから私に向き直り、努めて穏やかな声で言った。
「わかった。今は無理に思い出そうとしなくていい。まずは体を休めろ。話はそれからだ」
その言葉で、ようやく私は、この奇妙な状況の全体像を掴み始めた。
彼らの話を総合すると、こうだ。
私が入り込んだこの体の持ち主は、アルベールという名の十五歳の少年だ。
彼は五年前、つまり十歳の時に突然倒れ、それ以来ずっと昏睡状態――いわゆる植物状態――だった。
そして今日、奇跡的に目を覚ました。
五年間。五年間も眠り続けて、突然目を覚ました。
家族にとっては、これ以上ない奇跡だ。
ところが、いざ目を覚ましたら、何も覚えていない。自分の名前すらわからない。
そりゃあ、さっきのような反応にもなる。
私は周りの顔を改めて見渡した。
彼らは役者なんかじゃない。その目の痛みも、その声の震えも、すべて本物だ。
この五年間、彼らはアルベールが目を覚ますことを信じて、看病を続けてきたのだろう。
そして今、私という見知らぬ魂が、その体に入り込んでいる。
胸の奥に、チクリとした痛みが走った。罪悪感だ。
私は彼らの息子じゃない。それなのに、彼らの愛情を受け取ろうとしている。
でも、同時にこうも思った。
この人たちは、本物だ。本物の家族だ。
息子が五年間眠っていても、見捨てずに看病を続けるような。
目を覚ました息子が自分のことを覚えていなくても、それでもなお心配し、世話を焼こうとするような。
そんな本物の愛情が、この世界にはあるんだ。
私は知らなかった。知らなかったんだ、こんな温かさを。
前世では、私は誰かに認められたくて、愛されたくて、必死で働いた。
誰かの役に立ちたくて、嫌われたくなくて、すべてを捧げた。
でも最後に待っていたのは、裏切りと見捨てられることだけだった。
なのに、この世界では、見ず知らずの――いや、本当は見知っているべきなのに、私が知らないだけの――人たちが、何の見返りもなく、私を心配してくれる。
私は決めた。自分の状態について、できる限り正直に話そう。
記憶がないこと。ここがどこかもわからないこと。
そして、体がひどく衰弱していて、とてもではないが普通の生活はまだ無理だということ。
でも、一つだけ、絶対に言わないことがある。
私はアルベールじゃない。
私は田中宏。四十二歳の中年男。
家族にも会社にも見捨てられ、雨の夜に犬死にした、ただのリストラ男だ。
そのことは、墓場まで持っていく。
そう心に誓ったちょうどその時、腹の底から、ぐぅ、という音が鳴った。
いや、音というより、痛みだった。胃がねじれるような、強烈な空腹感。
そういえば、この体は五年間もまともに食事をしていない。
栄養はすべて点滴か何かで補給していたのだろう。
今、こうして意識が戻ったことで、体が本能的に食料を求めている。
すぐに家族は気づいた。
赤毛の母――ロザリンド、と名乗っていたか――が、慌てて使用人に指示を出す。
ものの数分で、食べ物が運ばれてきた。
白いパン。湯気を立てる肉のスープ。
香ばしく焼かれた分厚い肉の塊。色とりどりの野菜。
見たこともない果物。とろりとした黄色いチーズ。
匂いだけで、頭がくらくらした。
どれもこれも、前世で食べたどんな料理よりも、鮮烈に、力強く、私の本能に訴えかけてくる。
メイドが新しい服を持ってきた。
麻の白いシャツ。濃紺のズボン。袖口に銀の刺繍が入った軽い上着。
彼女たちは手際よく、しかし慎重に、私に服を着せていく。
子供に服を着せる時のような優しさだった。
私は抵抗しなかった。いや、できなかった。腕一本持ち上げるだけで精一杯だったからだ。
準備が整い、私は食堂の長いテーブルの前に座らされた。
私一人のために、これだけの料理が並んでいる。
家族は周りに立って、じっと私を見つめている。
心配そうな顔、期待に満ちた顔、まだ怯えている顔。
それぞれの表情で、私の次の行動を待っている。
私は料理を見下ろした。温かい湯気が、顔に当たる。
いい匂いだ。たまらなく、いい匂いだ。
ふと、昔の癖が顔を出した。
皆に「一緒に食べませんか」と声をかけようとしたのだ。
気を遣うのが、私のデフォルトだった。
誰かに喜んでもらうのが、私の生き甲斐だった。
でも、駄目だ。
その瞬間、冷たい雨の夜を思い出した。
アスファルトの冷たさを思い出した。
健二の顔を思い出した。明子の冷たい声を思い出した。母の罵倒を思い出した。
私は、あの日、死んだんだ。あの雨の中で、全部終わったんだ。
今の私は、田中宏じゃない。アルベールでもない。
今の私は、まだ誰でもない、新しい何かだ。
そして、新しい私のルールは、こうだ。
腹が減ったら食う。うまいものは、誰にも遠慮せずに食う。
それが私の生き方だ。
私は両手を伸ばした。
右手でパンを掴み、左手で肉の塊に齧りつく。
パンをスープに浸し、ぐちゃぐちゃになったそれを口に押し込む。
スープが顎を伝うが、気にしない。肉汁が指を汚すが、どうでもいい。
ただ、がむしゃらに、獣のように、目の前の食料を貪った。
うまい。
こんなにうまいものを、私は知らない。
前世のどんな高級レストランよりも、どんな評判のラーメン屋よりも、
今ここにあるパンと肉とスープの方が、百万倍うまい。
体が、細胞の一つ一つが、この栄養を待っていたんだ。五年間、ずっと。
周りがざわついている。誰かが息を呑む音。誰かが何かを囁く声。
「まるで、一度も食べたことがないみたい」
「奇跡ですわ……本当に、五年間も……」
「アルベール様、どうかゆっくり、喉に詰まらせないでくださいませ」
ゆっくり? 冗談じゃない。
私は今、この瞬間を、五年間待っていたんだ。
いや、四十二年間待っていたと言ってもいい。
誰にも遠慮せず、誰にも気を遣わず、ただ自分の欲望のままに生きる瞬間を。
そして私は食った。食って、食って、食いまくった。
前世での悔しさも、悲しさも、みんなまとめて飲み込んでやるみたいに。
これは食事じゃない。これは決別だ。
田中宏という名の、他人のために生きた哀れな男との、完全なる決別。
腹がはちきれそうになるまで食べ尽くし、私は深く息を吐いた。
テーブルの上は空っぽの皿だらけだ。
家族は呆然としている。父親は口をあんぐりと開け、母親は手で口を覆い、弟は目をまん丸にしている。
メイドたちは、神様でも見るような目で私を見つめていた。
これでいい。これがいい。これが私の新しい人生だ。
それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
体はゆっくりと、しかし確実に回復していった。
最初はベッドから起き上がるだけで息が切れたが、数日もすれば部屋の中を歩けるようになり、一週間もすると廊下も階段も、自分の足で移動できるようになった。
まだ走るのは無理だが、普通に生活する分には問題ない。
両親――心の中ではまだ「ジェラルド」と「ロザリンド」と呼ぶことに抵抗がある。だから、ひとまず「父上」「母上」と呼ぶことにしている。
彼らは私が外に出ることを許さなかった。体がまだ完全ではないし、下手に外に出て何かあっては大変だというのが、彼らの言い分だった。
実際、私が目を覚ましたという知らせは、まだこの家の中だけの秘密らしい。近所の人間も、親戚も、誰もこの奇跡を知らない。医者すら呼ばれなかった。
だから、私の新しい世界は、この屋敷の中だけだった。
私は、まるで子供のように、家の中を探検して回った。
実際、この世界に来て初めて見るものばかりなのだから、それは正しい反応だと思う。
家は二階建てで、思ったより大きい。
板張りの廊下は掃除が行き届いていて、歩くたびにぎしぎしと心地よい音がする。
部屋の間仕切りは障子戸で、開け閉めのたびに軽やかな音を立てた。
しかし、置いてある家具や装飾品は妙にちぐはぐだった。
天井からは鉄製のシャンデリアが吊るされている。
壁際の机や椅子は、ヨーロッパの骨董品のような重厚な彫刻が施されている。
床には、見たこともない幾何学模様の敷物。
――これはどっちの文化なんだろうな。
私は思った。日本家屋にヨーロッパ家具。まるで異世界だ。
いや、実際に異世界なんだから、当然か。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、一枚の絵が目に留まった。
巨大な猪の絵だ。牙を剥き出し、今にも襲いかかってきそうな迫力がある。
その前に、白いドレスを着た美しい女性が立っていて、なんとその獣の額に手を伸ばして、優しく撫でている。
まるでペットだ。どういう絵だ、これは。
さらに行くと、今度は竜の絵があった。
本物の竜だ。大きく翼を広げ、口から炎の息を漏らし、ルビーのように赤い目で虚空を睨んでいる。
翼の一本一本の骨格まで細かく描き込まれていて、まるで図鑑の挿絵のようだった。
ヨーロッパでは昔、竜は実在すると信じられていた。伝説や神話にも事欠かない。
でも、この絵はちょっと生々しすぎるな、と私は思った。
芸術的な誇張にしては、えらく解剖学的に正確すぎる。
まあいい。ただの絵だ。
さらに探検を続けると、私は人生で最大級のカルチャーショックを受けた。
便所だ。木でできた、ぼっとん便所。いわゆる汲み取り式である。
強烈な悪臭に、私は思わず鼻を覆った。
そりゃあ、そうだ。水洗トイレに慣れた現代日本人にとって、これはなかなかの拷問である。
前世がどれだけ貧乏でも、トイレだけは文明の利器だった。
ここでの生活は、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
気を取り直して、私はさらに屋敷の奥へと進んだ。
そしてついに、私はこの家で最も重要な部屋を見つけた。
書斎だ。父親のものと思われる、小さな部屋。
中には大きな木の机が置かれ、その上に、古びた本が数冊、積み上げられている。
この世界の本は、私が知っている本とは全然違った。
印刷された活字じゃない。羊皮紙を何枚も折り重ねて、糸で綴じてある。
表紙は布張りの厚紙で、すべてが手作りだ。
当然、文字も手書きである。黒いインクで、流麗な筆記体でびっしりと書かれている。
私はその中で、一番分厚い本を手に取った。
背表紙は擦り切れていて、よほど読み込まれたことがわかる。
表紙には、大きな手書き文字で、こう書かれていた。
『世界史』
私は本を開いた。
最初の数ページは、目次と凡例だった。
どのように年号を数えるのか、どのように地図を読むのか、そういった説明が細かく書かれている。
私はそれらを適当に飛ばして、本編らしきページを開いた。
そこには地図があった。見開きいっぱいに、細かな筆致で描かれた、巨大な世界地図だ。
私は目を凝らした。
それは、私が知っているどんな地図とも違っていた。
アジア大陸のシルエットも、南北アメリカの縦長の形も、オーストラリアの島影も、どこにもない。
代わりに、まったく見知らぬ形をした六つの大陸が、見知らぬ海によって隔てられて、そこに浮かんでいた。
そして、それぞれの大陸には、奇妙な名前が記されている。
エルフの領地。
竜人の王国。
獣人の平原。
私はさらにページをめくった。
次の章には、人間とエルフの古代戦争の歴史が、細かな年表つきで綴られていた。
さらに次の章には、山をも動かし海をも割るという、伝説的な大魔法使いの列伝。
そして、かつてこの世界の空を支配していたという、生ける竜たちの記録。
ページをめくるたびに、神話の世界が広がっていく。
作り話だ。絵空事だ。空想の産物だ。
そう思いながらも、私は目が離せなかった。
その一貫した設定。緻密な歴史。矛盾のない年表。
これは、ただのファンタジー小説じゃない。
誰かが本気で作り込んだ、一つの世界の「本物の歴史」だ。
少なくとも、そう信じさせるだけの力が、この本にはあった。
私は本を閉じた。
羊皮紙の表紙が、乾いた音を立てる。
これは、どこにでもあるような本だ。市場で売られている、ありふれた歴史書。誰かが書き、誰かが写し、誰かが売った。この世界の、普通の商品。アルベールのガキが読んでいたライトノベルなんかじゃない。誰かが本気で作り込んだ、この世界の「本物の歴史」――そう信じさせるだけの力が、この本にはあった。
でも――。
作り話だ。どうせ、誰かが書いた空想の産物だ。異世界転生ものの。ファンタジー世界の。私が若い頃に読み漁ったのと同じようなやつだ。誰かが竜だの魔法だのに憧れて、書き綴った。それだけのことだ。
何も不思議なことじゃない。何も、おかしなことじゃない。
そう自分に言い聞かせて、本を机の上に置いた。これ以上深入りするのはやめよう。第一、字が細かすぎて目が疲れる。それに、この世界のことを知ったところで、私に何ができるわけでもない。
私は手の埃を払って、立ち上がった。椅子が、ぎしりと鳴った。
書斎を後にして、廊下に出る。板張りの床が、足の裏に冷たい。障子越しの光が、細長く伸びて、私の影をぼんやりと照らしていた。
それでも――。
廊下を歩きながらも、さっきの地図のことが頭から離れなかった。
あの細密な描線。あの具体的な名称。あの一貫した世界設定。エルフの領地。竜人の王国。獣人の平原。人間とエルフの古代戦争。山をも動かし海をも割る大魔法使い。空を支配していたという、生ける竜たち。
あれは、誰かが書いたものだ。市場で売られていた、ただの本だ。娯楽のための、空想の産物だ。
なのに――。
どうして、こんなに胸がざわつくんだ。
私は立ち止まり、振り返って書斎の方を見た。
閉じた扉の向こうに、あの本がある。あの中に、この世界のすべてが詰まっている。
――まさか、な。
私は頭を振り、その考えを追い払った。
まだだ。まだ結論を出すな。簡単に信じるな。私はこれまでずっと、人を信じて、裏切られてきたんだ。物事を信じて、騙されてきたんだ。だから、今度は――。
この世界が、何であろうと。
エルフや竜が実在するファンタジー世界だろうと。電気も水道もない、ただの田舎の時代遅れの土地だろうと。
そんなことは、今はどうでもいい。
大事なことは、一つだけだ。
――今度こそ、私は自分のために生きる。
それだけは、絶対に、忘れない。




