翌朝
お読みいただき、ありがとうございます。 前回に続き、クルナの物語です。 今回もよろしくお願いいたします。
翌朝、クルナは玄関を叩く音で目を覚ました。
まだ眠かった。布を肩まで引き上げると、もう一度、今度は続けざまに音がした。
「はい、今開けます」
母の足音が部屋の前を通り過ぎた。
「朝早くにごめんなさい。メル、こっちに来てない?」
クルナは目を開けた。
「来てないけど……どうしたの?」
「昨日から帰ってないの。あの子、クルナちゃんと遊ぶって出ていったから」
「昨日は戻ったんじゃないの?」
「ううん。一緒にいた子たちの家も回ったんだけど……」
声が小さくなって、そこから先は聞き取れなかった。
クルナは起き上がった。床に足を下ろし、閉まっている扉を見る。
昨日は来た。
でも、一緒には行っていない。
廊下へ出ると、玄関にメルの母親が立っていた。いつもきれいに結んでいる髪が、今日は肩にばらばらとかかっている。
「クルナちゃん」
目が合うなり、メルの母親が一歩近づいた。
「昨日、メルと話したのよね? どこへ行くか、何か言ってなかった?」
「……川に行くって」
「川のどの辺りか、分かる?」
クルナは首を横に振った。
「大きい魚を見つけたから、捕まえるって。それしか……」
「ほかには? 何でもいいの」
緑の髪。窓枠についた両肘。
メルは、何と言っていただろう。
「この辺じゃ、あまり見かけない魚だって言ってた」
答えてから少し待ったが、それ以上は思い出せなかった。本の続きを読みたくて、早く帰ってほしいと思っていた。
「そう……ありがとうね」
メルの母親は、クルナの母へ向き直った。
「もし来たら、家で待っているように伝えてもらえる?」
「もちろん。うちの人にも話しておくわ」
玄関の戸が閉まった。
「お母さん」
「クルナは家にいてね」
母はすぐに父を呼びに行った。
クルナだけが、廊下に残った。
魚を捕まえたなら、見せに来そうなものだった。
捕まえられなくても、どれだけ大きかったか、窓の外でうるさく話しそうだった。
部屋へ戻り、窓を開けた。
いつもメルが立っている時間になってもメルは来なかった。
「メルどうしたんだろ?」
少しやんちゃだけれど、親を心配させたまま帰らないような子ではない。
昨日だって、ほかの子たちを待たせてまで誘いに来てくれた。私なんてほっといて、みんなと遊びに行けばいい。それなのに、わざわざ窓のところまで。
私が一人だから?
クルナは机の上の本を見つめた。
私なんかより、ずっと周りを見ている。誰かが一人でいれば声をかけるし、嫌なことを言われても、次の日にはまた来てくれる。
そんなこと、前から知っていた。
「あれ? なんで……」
頁に小さな染みができた。指で触れる前に、もう一滴落ちた。
袖で目を拭った。玄関の向こうから物音がして、顔を上げる。けれど聞こえてきたのは、出かける支度をする父の声だった。
昨日、最後に何と言っただろう。
――興味ないし、もう行って。
クルナは本を閉じた。
「……帰ってきてよ」
ふと窓の外を見ると、一匹の猫が家の前を横切っていた。
何かを咥えている。顎の下で揺れる小さなものが、日差しを受けてきらりと光った。
クルナは窓枠に手をつき、身を乗り出した。
あの飾り。昨日も、メルの髪の間で揺れていた。
「……メルのイヤリング?」
猫は足を止めず、家の角を曲がっていく。
「待って!」
クルナは廊下へ飛び出した。玄関で靴に足を押し込み、戸を開ける。
「クルナ? どこへ行くの?」
母の声に振り返る余裕もなかった。
外へ出ると、道の先に猫の尻尾が見えた。
クルナは、その尻尾を追いかけて走った。
走ったのなんて、何年ぶりだろう。
家を数軒通り過ぎただけで、息が苦しくなった。足が重い。猫はすぐそこにいるのに、手を伸ばせるところまで近づけない。
「待って……それ、返して!」
猫が角を曲がった。
クルナも後を追おうとして、道のくぼみに足を取られた。よろめきながら壁に手をつき、どうにか踏みとどまる。
顔を上げると、猫はまだ見えるところにいた。
止まったら、見失う。
クルナは息を吸い、もう一度走り出した。
「やっと……追いついた」
運のいいことに、猫が曲がった先は行き止まりだった。積まれた薪の前で立ち止まり、咥えたものを地面に落としている。
クルナは膝に手をつき、息を整えた。猫の足元に、あのイヤリングが見えた。
「それ……拾わせて」
少しずつ近づき、しゃがみ込む。
猫は伸ばした手を避けるように身を引くと、薪の上へひょいと飛び乗った。
イヤリングをつまみ上げる。土を払って手のひらに載せると、見覚えのある飾りが揺れた。
間違いない。メルのものだ。
「……どこで拾ったの?」
見上げた先で、猫は前足を舐めていた。
*
「今日も駄目だった」
そう呟いたのは、捜索から戻った父だった。玄関で靴を脱ぐと、泥のついた裾を気にすることもなく、その場に腰を下ろした。
「川の下流まで見てきた。あの子たちが入りそうな場所は、ひと通り……」
母が差し出した水を飲み、父は口を閉じた。
メルが帰ってこなくなってから、村の大人たちは毎日、川や森を捜していた。クルナが拾ったイヤリングも、すぐにメルの母へ渡した。けれど、猫がどこから持ってきたのかは分からないままだった。
「明日は?」
廊下からクルナが尋ねると、父は顔を上げた。
「隣の村からも、人が来てくれる。もう少し先まで捜すよ」
「私も行く」
「クルナ」
「イヤリングを拾ったところより、もっと先。まだ見てないところが――」
「ダメだ、お前まで帰ってこなかったら、父さんたちはどうすればいい」
父の声に、クルナは言葉を止めた。
母は水の器を受け取ったまま、何も言わなかった。
「でも、メルは……私、ひどいこと言っちゃったの。謝りたいの」
父は黙って、クルナの続きを待った。
「誘いに来てくれたのに、興味ないから、もう行ってって……」
口に出すと、あの日の自分の声まで思い出した。
「いつも来てくれるから、また来ると思ってた。明日も、その次の日も……」
父の顔が見えなくなって、クルナは袖を目に押し当てた。
「私、謝ってない」
「……そうか」
父はゆっくり立ち上がった。
「だから、捜しに行きたいの」
「捜すのは父さんたちに任せてくれ。何か分かったら、ちゃんとお前にも話すから」
クルナは返事をしなかった。
待っているだけなら、今日も一日そうしていた。
「クルナ、もう寝ましょう」
廊下の奥から、祖母が声をかけた。
「……まだ眠くない」
「それなら、横になるだけでもいいから」
クルナは父を見た。何か言ってほしかったが、何を言ってほしいのか、自分でも分からなかった。
祖母に背中をそっと撫でられ、部屋へ向かった。
窓辺には、読みかけの本が置いたままになっていた。
祖母はそれを手に取った。
「少し、読もうか?」
クルナは首を横に振り、寝床に潜り込んだ。
「……ここにいて」
「ええ」
祖母がそばに腰を下ろす音がした。
クルナは壁のほうを向いたまま、毛布の端を握っていた。
翌朝、メルは川のほとりで見つかった。
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