第9話 俺はあそこから逃げた
ヴァルター・クロイツについて調べ始める前に、レオンには確認しておきたい人物がいた。十八年前の西部地方地図を作成した測量官である。
ルテラ村が記載された二十年前の地図と、村が消えた十五年前の地図の間に何があったのかを知るには、当時この地域を実際に歩いた人間から話を聞くのが早い。
王立記録院に残る古い測量記録を調べると、旧ファルン郡北西部を担当したグレン・ハースの名が見つかった。現在六十三歳で、十年前に役所を退職したあとも西部地方に住んでいた。
「生きてるんですね」
ミレアが言った。
「記録上は」
「最近その言い方、怖く聞こえるようになってきました」
「住所も残っています。町から馬車で半日ほどです」
「会いに行くんですか?」
「はい。十八年前にこの地域を測量していますから、旧第七支線やルテラ村を直接見た可能性があります」
今回はトーマも同行することになった。守備隊として正式な護衛任務ではないが、ルテラ村で起きている現象をすでに経験しているため事情を最初から説明する必要がなく、何よりレオンとミレアだけで動くより安全だった。
「その測量官も忘れてたらどうする?」
出発前、トーマが尋ねた。
「本人の記憶だけでなく、当時の記録も確認します」
「また紙か」
「本人が忘れていても、記録が残っている可能性があります」
「お前の魔法じゃなくても?」
「そこを確かめます」
◇
グレン・ハースの家は町外れの葡萄畑の近くにあり、庭には空になった酒瓶が何本も転がり、玄関脇には使われなくなった測量棒が立て掛けられていた。
レオンが扉を叩くと、しばらくして中から不機嫌そうな声がした。
「誰だ」
「王立記録院の者です。グレン・ハースさんに、昔の測量についてお話を伺いたいのですが」
「税金なら払ってるぞ」
「徴税ではありません」
「じゃあ帰れ」
扉が開く気配はなく、ミレアがレオンの横から声を掛けた。
「昔の地図について聞きたいだけです。すぐ終わりますよ」
「役人の『すぐ』は信用しない」
「じゃあ、お酒一本持ってきたら?」
扉の向こうが静かになった。
レオンがミレアを見る。
「持ってきてませんよ」
「今から買えばいいじゃないですか」
「公務上の聞き取りに酒を渡すのはどうなんでしょう」
「じゃあ一生ここで話してます?」
結局、近くの商店まで戻って安い葡萄酒を一本買い、それを見せると、今度はすぐに扉が開いた。
「最初からそうしろ」
「今後の参考にはしません」
「堅いな、お前」
白髪交じりの髭を伸ばした老人は、瓶を受け取ると三人を中へ入れた。
室内には古い地図と測量道具が雑然と積まれている。退職して十年経っているとは思えないほど、仕事道具が残されていた。
「グレン・ハースさんですね」
「そうだ。それで、何を聞きたい」
「十八年前、旧ファルン郡北西部の測量を担当していますね」
「そんな昔のこと覚えてるか」
「記録には残っています」
「じゃあ記録に聞け」
「その記録と、あなたの記憶が一致するか確認したいんです」
グレンは瓶の栓を抜きながら、面倒そうにレオンを見た。
「変な役人だな」
「よく言われます」
最近は自分でも返事が決まってきた気がした。
◇
レオンはまず、現在の地図を広げた。
「この山地周辺について覚えていますか」
「多少はな。若い頃は何度も歩いた」
「この北西林道の先は?」
「森と山だ。今は猟師くらいしか行かんだろ」
「昔、さらに先へ続く道はありませんでしたか」
「ない」
即答だった。
「本当に?」
「測量屋に道を聞いてるんだろ。なかったと言ってる」
レオンが次に二十年前の地図を広げると、興味もなさそうに眺めていたグレンが、旧第七支線へ目を移したところで眉を寄せた。
「何だ、これ」
「二十年前の西部地方地図です」
「見れば分かる。この道は何だ」
「旧第七支線です。レダ村付近から分岐して、ルテラ村まで続いています」
「こんな道は知らん」
「この地図の測量担当者欄を確認してください」
レオンが隅を指す。
そこには、
北西区画担当 グレン・ハース
と記されている。
グレンは黙った。
「あなたが測量した地図です」
「……同姓同名じゃないのか」
「職員番号も一致しています」
「覚えてないぞ」
「そうだと思っていました」
「何だと?」
レオンはこれまで確認した記憶欠落現象について説明した。
ルテラ村に関する情報を知った人間は、その内容を時間とともに忘れることがある。現地に近づくほど作用は強まり、王都のような遠隔地でも詳細な報告書に触れた人間が記憶を失った例がある。
グレンは最初こそ半信半疑だったが、自分の名前が入った地図を何度も見直すうちに、表情から軽さが消えていった。
「俺がこの道を測ったっていうのか」
「記録上は」
「なのに俺は、こんな場所はないと思ってる」
「はい」
「酒の飲みすぎじゃないのか」
「十九年前の測量記録もあります」
「嫌な役人だな、お前」
今度の言い方には冗談がなかった。
◇
グレンはしばらく考えたあと家の奥へ入り、大きな革張りの筒を抱えて戻ってきた。
「退職するときに持って帰った私物だ。昔の下書きとか、使わなくなった測量図が入ってる」
「見ても?」
「勝手にしろ。どうせ俺も何が入ってるか覚えてない」
床に広げたのは正式な行政地図ではなく、グレン自身が現地で使った測量用の下図だった。川や尾根、道路、橋の位置と距離が細かく書き込まれ、ところどころに短い走り書きもある。
レオンは年代を確かめながら一枚ずつ調べ、十八年前の秋の日付が入った地図を見つけた。
「これです」
そこには旧第七支線と、その先にあるルテラ村が描かれ、さらに村の北側から山中へ細い線が延びていた。
「この道は?」
レオンが尋ねる。
グレンは地図を見る。
「知らん」
「あなたの筆跡です」
「それは分かる」
山へ延びる線の横には、小さな文字で、
軍用車両通行可。臨時整備。
と書かれていた。
それは正式な道路台帳には存在しない道だった。
「軍用?」
トーマが地図を覗き込んだ。
「この先、何か施設でもあったのか」
「私は見つけていません」
レオンはグレンを見る。
「覚えは?」
「ないと言ってるだろ」
苛立った声とは裏腹に、その視線は地図から離れない。グレンは自分の書いた文字を指先でなぞりながら、何かを探すように何度も同じ場所を見ていた。
「軍用車両……」
小さく呟く。
「何か思い出しましたか」
「分からん。黙ってろ」
レオンは従った。
しばらくして、グレンは目を閉じた。
「馬車がいた」
「どこに?」
「分からん」
「何台くらいです?」
「黙れと言っただろ」
「すみません」
グレンは頭を押さえた。
「馬車……いや、荷車か。何台もいる。兵隊もいた気がする」
トーマとレオンが顔を見合わせる。
「王国軍ですか」
「制服が……たぶんそうだ。だが、何であんな場所に」
そこでグレンが急に立ち上がり、椅子が大きな音を立てて倒れた。
「何だこれは」
「グレンさん?」
「何で俺は知らないんだ」
地図を指す。
「俺の字だ。俺が測った。なのに、何も覚えてない」
レオンは調査帳面を用意した。
「今思い出している内容を記録してもいいですか」
「好きにしろ」
◇
グレンから戻ってきたのは、十八年前の秋の山道に兵士と複数の荷車が集まり、その周囲を大勢の人間が行き交う、断片的な光景だけだった。
「村の住民ですか?」
「知らん。子供がいた」
「何人くらい?」
「覚えてない。泣いてる声がする」
グレンは目を閉じたまま答える。
「大人もいた。みんな何か叫んでたが、何を言ってたのか分からん」
「どちらへ向かっていました?」
「道の下……いや、上か?」
記憶を掴もうとするたびに、表情が苦しそうに歪む。
「無理に思い出さなくて構いません」
レオンが言うと、グレンは薄く目を開けた。
「さっきまで質問してたくせに」
「思い出すこと自体が負担になっているなら、止めます」
「今さら気を遣うな」
「記録できる範囲で十分です」
グレンは鼻を鳴らしたが、しばらく黙って呼吸を整えた。
その間ずっと地図を見ていたミレアが、やがて山へ延びる道を指した。
「この辺で、何か光ってませんでした?」
グレンの顔が固まった。
「何でそう思う」
「私も、昔のことを少しだけ思い出したことがあります」
ミレアは休憩小屋で見た記憶について説明した。雨の中で誰かに抱かれていたことと、赤い布。そして保護記録の別紙には、彼女が見つかった当時、山側で何かが起きていたことを示す可能性がある。
その話を聞いているうちに、グレンの顔から血の気が引いていった。
「赤い布……」
「見覚えがありますか」
「違う」
グレンは頭を振った。
「布じゃない。光だ」
「光?」
「白い光」
声が低くなる。
「山が光ってた」
レオンは記録を続けた。
「どのような光でした?」
「分からん。火じゃない。雷でもない。山の奥から、白い光が出てた」
「村から見えた?」
「見えたはずだ。だからみんな……」
そこまで言うと、グレンは口を閉じた。
「みんな?」
「逃げてた」
部屋が静かになった。
グレンは目の前の地図ではなく、もっと遠くにある光景を見るような目をしていた。
「子供が泣いてた。兵隊が怒鳴ってる。馬が暴れてた。荷車が道に詰まって……誰かが、名前を呼んでた」
ミレアの手がわずかに動いた。
「誰の名前です?」
「分からん」
グレンは頭を振る。
「何も分からん。でも、あそこにいた」
声が震えていた。
「俺は、あそこにいた」
レオンが何も挟まずに待っていると、グレンは両手で顔を覆い、しばらくして指の隙間から言葉を漏らした。
「俺はあそこから逃げた」
誰もすぐには答えられなかった。
十八年間、本人の中から消えていた記憶だった。
◇
グレンが落ち着くまで、かなり時間がかかった。
結局、グレンはなぜ山へ行き、何が起きたのか、住民たちがどこへ向かい、自分が何から逃げたのかまでは思い出せなかった。それでも、十八年前のルテラ村周辺に王国軍の兵士と多数の荷車が集まり、住民らしき人々が混乱の中を移動していたこと、村の北側の山中から白い光が見えたこと、そして彼自身がその場から逃げたことは、十分に大きな証言だった。
「この内容を《定録》で残します」
「勝手にしろ」
「写しも置いていきます」
「いらん」
「明日には忘れている可能性があります」
グレンは何か言い返しかけたが、自分の古地図を見て黙った。
「……置いてけ」
「はい」
レオンはグレン自身にも読める形で、その日の証言をまとめた。
最後に、
この記録はグレン・ハース本人の証言に基づく。本人は証言時点で、十八年前の出来事を断片的に思い出した。
と加えた。
グレンは文章を読んだあと、葡萄酒を一口飲んだ。
「明日、本当に忘れてたらどうする」
「記録を読んでください」
「それで思い出せるのか」
「記憶そのものは戻らないかもしれません。ただ、昨日のあなたが何を話したかは確認できます」
「嫌な話だな」
「はい」
レオンも否定しなかった。
◇
翌日の午後、三人はもう一度グレンの家を訪ねて扉を叩いた。
「誰だ」
「昨日伺った、王立記録院のレオン・フェルナーです」
少し間があって扉が開き、昨日より露骨に不機嫌そうなグレンが姿を見せた。
「何の用だ」
「昨日のお話について確認に来ました」
「昨日?」
「十八年前の測量について聞きました」
グレンは眉を寄せた。
「お前ら、昨日も来たのか?」
「はい」
「覚えてない」
予想通りだった。
「机に記録を置いたはずです」
「記録?」
グレンは振り返り、部屋の机を見る。
昨日レオンが残した紙は同じ場所にあったが、その横には、グレン自身の筆跡でもう一枚の紙が置かれていた。
「それは?」
「知らん」
グレンは紙を取り、そこに書かれている文章を読んだ瞬間、顔色を変えた。
「どうしました?」
グレンが答えないため、レオンは許可を得て紙を見た。
それは、三人が帰ったあとでグレン自身が書いたらしい、短い文章だった。
あの記録官を止めろ。
レオンは眉を寄せた。
「あの記録官?」
「俺に聞くな。覚えてない」
その下にはもう一行、強い筆圧で紙を破りかけながら書かれた文があった。
山の地下に、まだ残っている。
ミレアが息を呑んだ。
「地下……?」
トーマはすぐに昨日の測量図を広げ、ルテラ村の北側から山へ延びる臨時道路を示した。
軍用車両通行可。
その道は、地図の途中で途切れていた。
「この先か」
トーマが言う。
レオンは答えず、グレンの紙を見た。
何を止めようとしたのか、「あの記録官」とは誰なのか、山の地下に何が残っているのか、グレン本人はもう何一つ覚えていない。
しかし昨夜の彼は、それを忘れる前に書き残していた。レオンはその二行を《定録》へ写し取りながら、次に調べるべき場所がどこなのかを理解した。
次に調べるべきなのはルテラ村だけではない。その北にある山の地下にも、十八年前の出来事へ繋がる何かが、今なお残されている。




