第10話 ミレア・ルーウェン
グレンの家から戻った翌日、レオンたちは、十八年前に旧第七支線沿いでミレアを発見した養父ハルト・ノルンを訪ねた。
役所に残る保護記録だけでも、彼女がルテラ村と関係している可能性はかなり高くなっていた。しかし、当時の状況を直接知る人物が今も生きているなら、記録だけでなく本人の証言も確認しておくべきだった。
町の南側で暮らすハルトは五十代半ばの大柄な男で、飛脚の仕事を減らした今も、近距離の配達なら引き受けているという。
ミレアが扉を開けるなり声を掛けた。
「ただいま」
「仕事じゃなかったのか?」
「仕事みたいなもの。今日はこの人たちと話があって」
ハルトはレオンとトーマを見る。
「王立記録院のレオン・フェルナーです。十八年前、ミレアさんを保護したときのことについて確認したいのですが」
「ああ。その件か」
ハルトは少しだけ表情を変えた。
「この前、ミレアから聞いた。昔の村を調べてるんだって?」
「はい。ミレアさんの出生地に関係している可能性があります」
「中で話そう」
◇
居間に通されると、ハルトは茶を出してからレオンの正面に座った。
「何から話せばいい?」
「まず、ミレアさんを見つけた日のことを、覚えている範囲でお願いします」
「十八年前の秋だ。雨の日だった」
その言葉で、ミレアがわずかに顔を上げた。
旧休憩小屋で彼女が一瞬だけ思い出した断片にも、雨があった。
「配達の帰りで、北西の旧道を通ってた。今はほとんど使われてない道だが、当時はまだ山側へ抜ける近道として使うことがあったんだ」
「どの辺りで見つけましたか」
「古い休憩小屋の少し手前だったと思う。道の脇に子供がいた」
「一人で?」
「俺が見たときには一人だった」
ハルトは当時を思い出すように目を細めた。
「裸足で、服も泥だらけだった。雨の中で歩いてきたのか、足に細かい傷がいくつもあった。二つか三つくらいにしか見えない子供が、あんな場所に一人でいるんだから、最初は親が近くにいると思ったよ」
「周囲を探しましたか」
「もちろん。かなり大声で呼んだし、道も少し戻った。でも誰も出てこなかった」
「ミレアさんは何か話しました?」
「ほとんど喋らなかった。名前を聞いても返事がなくてな」
ハルトはミレアを見る。
「昔はもっと無口だったんだぞ」
「三歳と今を比べないでよ」
「今は喋りすぎるくらいだから安心した」
「余計なこと言わなくていいから」
二人のやり取りを見て、トーマが小さく笑った。
レオンは話を戻す。
「ミレアという名前は、衣服の刺繍から?」
「ああ。服の内側に布が縫い付けてあって、そこにMIREAと刺繍してあった。それ以外、身元が分かりそうなものはなかった」
「布製の人形も持っていたと記録にあります」
「持ってた。かなり汚れてたが、ずっと握って離さなかったな」
ミレアが尋ねた。
「私、泣いてた?」
「最初は泣いてなかった」
「そうなの?」
「むしろ、それが気味悪いくらいだった。雨の中で震えてるのに、声も出さない。ただ、俺が抱き上げて馬車に乗せたら、急に泣き始めた」
「何か言った?」
ハルトは少し考えた。
「その辺は、もう曖昧だな。役所に出した記録の方が正確だと思う」
「記録?」
「保護届とは別に、当時の飛脚所へ報告書を出したはずだ。勤務中に子供を保護したからな」
レオンはすぐに反応した。
「その報告書は現在も残っていますか」
「さあ。十八年前だぞ」
「確認したいです」
「好きにしろ。昔の飛脚所なら今も同じ場所にある」
◇
公営飛脚所の古い運行記録は、思ったよりよく保存されていた。
ハルト自身も同行し、当時の記録箱を探す。
「この辺だったと思うんだが」
古い帳面を何冊か確認すると、十八年前の秋にハルトが担当した便が見つかった。
通常の配達記録に混じって、一件だけ備考欄が大きく使われている。
北西旧道にて身元不明女児を保護。予定経路を変更し、町役場へ搬送。
そこまでは役所の保護記録と一致していた。
備考欄の末尾には、別紙参照の番号がある。
「これですね」
レオンたちは関連書類を保管する箱を探した。
しかし、対応する番号の文書は見つからなかった。
代わりに、書類管理簿には別紙の処理記録だけが残っている。
重複資料につき処分。
レオンはその言葉を見て、手を止めた。
「またか」
トーマも気づいたらしい。
「王都に送った報告書と同じ理由だな」
「はい」
ハルトが二人を見る。
「何の話だ?」
「ルテラ村について王都へ送った報告書も、『重複資料』という理由で処分されていました」
「十八年前の俺の報告まで?」
「そう見えます」
ただし、今回は完全に内容が失われていたわけではなかった。
管理簿の余白には、鉛筆に似た薄い筆記具で数行のメモが残されていた。正式な本文ではなく、別紙を確認した担当者が備忘として書いたものらしい。
レオンが薄い文字を追うと、女児は北側から逃げてきた可能性があり、背後の山地には白い光が見えたこと、さらに幼児自身が「みんな忘れる」と発言したことが記されていた。
ミレアが黙った。
ハルトも記録を覗き込み、眉を寄せる。
「……こんなこと、言ったのか?」
「覚えていませんか」
「白い光は……」
ハルトはすぐには答えなかった。
「見た気がする」
「山の方ですか」
「ああ。女の子を見つけて町へ戻るとき、背後の山が妙に明るかった気がする。ただ、今までそんなことを思い出したことはなかった」
「『みんな忘れる』という言葉は?」
「それは駄目だ。出てこない」
ミレアが自分の腕をさすった。
「三歳の私が言ったんですよね」
「この記録が正しければ」
レオンが答える。
「じゃあ、私はあのときもう知ってたんだ」
「何を知っていたのかまでは分かりません。ただ、現在私たちが確認している記憶の欠落と関係する発言である可能性は高いです」
ハルトはしばらく黙っていたが、やがてミレアへ向き直った。
「お前を捨てたわけじゃなかったのかもしれんな」
「え?」
「ずっと、誰かが逃げる途中でお前を置いていったのか、それとも親とはぐれたのか分からなかった。だが本当に北から逃げてきたなら、少なくとも普通に捨てられたわけじゃないだろ」
ミレアはすぐには答えなかった。
「別に、捨てられたと思ってたわけじゃないよ」
「そうか」
「父さんが拾ってくれたし」
「そういう言い方すると犬みたいだな」
「拾ったって自分で言ってたじゃん」
ミレアは笑ったが、その表情はいつもより少しだけ弱かった。
◇
その日の午後、レオンたちは再びルテラ村へ向かった。
目的は十九番地の家をもう一度詳しく調べることだった。
前回は、家屋と教会記録を照合するだけで時間を使っている。ミレア本人を特定できるような固有の証拠が残っていないか、今回はそこに絞って確認する。
トーマも当然のように同行した。
「もう護衛任務じゃないですよね」
ミレアが言う。
「俺も気になってるんだよ」
「守備隊って暇なんです?」
「お前を置いて帰ってもいいぞ」
「すみませんでした」
村へ近づくと、以前と同じように記憶が曖昧になり始めた。
三人とも首から現在地と目的を書いた札を下げ、前回より詳しい個人情報も持っている。
レオンの札には名前と職業、《定録》を使えることを、トーマの札には所属と任務を記した。ミレアの札には現在の名前と住所、養父母の名前に加えて、ルテラ村十九番地に同名の三歳児がいたことまで書いてある。
何度か札を確認しながら村へ入り、十九番地へ向かう。
家は前回と変わらず、静かに朽ち続けていた。
◇
今回重点的に調べたのは、母親エレナが使っていたと思われる作業部屋だった。
棚の中には染料の瓶や裁縫道具が残り、湿気で傷んだ布もいくつかある。
ミレアが小さな木箱を見つけた。
「これ、開けてもいいですか」
「まず状態を確認します」
「はいはい」
トーマが蓋を慎重に持ち上げた。
中には練習用と思われる小さな布片が何十枚も入り、花や鳥、幾何学模様のほか、文字を刺したものもあった。
レオンが一枚ずつ確認していると、ミレアが一つを手に取った。
「これ」
布には途中まで文字が刺繍されている。
MIRE
その後ろに、最後の一文字を入れるための下書き線だけが残っていた。
「MIREAを作ろうとしていた?」
「そう見えます」
以前、ミレアが保護されたときの衣服には、MIREAと刺繍された布片が縫い付けられていた。
この家では、その名前を刺繍する練習をしていた形跡がある。
しかもエレナ・ルーウェンは、職業として刺繍をしていた。
レオンは慎重にその布を記録した。
「これでかなり決まりじゃないですか?」
ミレアが聞いた。
「非常に強い証拠です。ただ、身体的な特徴まで一致すれば、ほぼ断定できます」
「まだあるんですね」
「前回見つけた成長記録を詳しく確認します」
◇
子供部屋の壁には、セイルとミレアの身長を測った線が残っていた。
日付と年齢だけでなく、時々短い書き込みもある。
セイル六歳。左膝を擦りむく。
ミレア三歳。熱が下がる。
家族が日常の中で書き足した記録らしい。
レオンは壁の下から順番に確認していった。
最後の年にある「ミレア、三歳」という線の横には、小さな文字で追記があった。
右肩後ろ、小さな三日月形の痣。大きくなっても残るか?
「身体的特徴です」
レオンが言った。
ミレアが壁を読む。
「右肩の後ろ?」
「現在もありますか」
「自分じゃ見えないですけど……たぶん」
「たぶん?」
「昔、母さん――今の母さんですけど、着替えるときに三日月みたいな痣があるって言ってた気がします」
ミレアは一瞬、言葉を止めた。
「確認します?」
「本人の同意があれば」
「じゃあ外で。ここで服脱ぐのは嫌です」
「当然です」
「そこは真面目に返さなくていいですよ」
◇
家の外へ出てから、ミレアは上着の肩口を少しずらした。
自分では見えないため、確認したのは女性であるミレア本人ではなく――と一瞬考えたところで、この場に他の女性はいないことにレオンは気づいた。
「どっちが見ます?」
ミレアが二人を交互に見る。
トーマが即座に一歩下がった。
「記録官の仕事だろ」
「護衛では確認できませんか」
「できるけどやりたくない」
「何で二人ともそんな嫌そうなんです?」
「嫌というより、あとで問題になるのを避けたい」
「右肩を少し見るだけですよ」
結局、ミレア自身が手鏡代わりになる磨いた金属板を使いながら位置を示し、レオンが必要な範囲だけ確認することになった。
右肩の後ろ、肩甲骨に近い場所には、小さな薄茶色の痣があった。壁の記録と照合すると、位置も形も一致しており、輪郭は確かに三日月に近い。
確認を終えると、ミレアはすぐに服を戻した。
「で?」
レオンは少し考えてから答えた。
「十分です」
「十分?」
「現時点で確認できる証拠を総合すれば、あなたとミレア・ルーウェンは同一人物と判断して問題ないと思います」
ミレアは黙った。
これまで何度も「まだ確定できない」と言われ続けていたからか、すぐには意味が入ってこなかったようだった。
「つまり」
「あなたは十八年前、ルテラ村十九番地に暮らしていたミレア・ルーウェン本人です」
風が古い家の屋根を鳴らした。
ミレアは家を振り返った。
壊れた窓も、青い花を描いた陶器も、母親が使っていた刺繍道具も、兄と自分の名前が残る壁も、彼女自身の記憶にはほとんど残っていない。
「……そうなんだ」
返ってきたのは、それだけだった。
「何か思い出しますか」
レオンが尋ねると、ミレアはしばらく家を見つめたあと、首を振った。
「何も」
少し笑う。
「こういうとき、普通は思い出すものじゃないですか? 家に帰ってきて、証拠も揃って、『実はあなたはこの家の子でした』って言われたら、急にお母さんの顔とか、お兄ちゃんと遊んだこととか」
「そうとは限りません」
「分かってます。あの村だし」
ミレアは自分の首から下がった札を見る。
そこには、今朝の時点ではまだ、
ルテラ村十九番地のミレア・ルーウェンと同一人物である可能性が高い。
と書かれている。
「これ、書き直してもいいですか」
「はい」
レオンは新しい紙を用意した。
ミレアが自分で言う。
「ミレア・ノルン。二十一歳。公営飛脚。養父ハルト・ノルン。出生時の名前はミレア・ルーウェン。ルテラ村十九番地で、ダリオとエレナの娘として暮らしていた」
少し考えてから付け加える。
「兄はセイル・ルーウェン。十八年前は六歳」
レオンはその内容を記録した。
ミレアは完成した紙を受け取り、しばらく眺める。
「何も思い出さないけど、これが私なんですね」
「はい」
「変な感じです」
「そうでしょうね」
「でも、嫌じゃないです」
ミレアは紙を折り、胸元の袋へしまった。
◇
資料保管所へ戻ったあと、レオンは本人確認の根拠を正式に整理した。十八年前に旧第七支線沿いで保護されたミレア・ノルンと、ルテラ村十九番地のミレア・ルーウェンは、名前と年齢が一致する。保護された時期は村の避難が予定された時期と重なり、発見地点も村から続く旧道上にあった。
さらに、保護時の衣服にあったMIREAの刺繍と青い五枚花弁の模様は、ルーウェン家に残る刺繍の練習跡や布の意匠と重なっている。家族が記した「右肩後ろの三日月形の痣」という身体的特徴まで一致した以上、複数の独立した証拠から同一人物と判断する根拠は十分だった。
レオンは最後に結論を書いた。
ミレア・ノルンは、十八年前のルテラ村戸籍に記録されたミレア・ルーウェン本人であると確認する。
《定録》で固定した。
向かいでは、ミレアがルテラ村戸籍簿を読み、自分の名から一つ、二つと前へ辿りながら、家族の名前と自分自身の記録を確かめていた。
「百三番目」
ミレアが呟く。
「はい」
「私一人が生きてるなら、他の人も生きてた可能性がありますよね」
「少なくとも、避難開始時点で百三人全員が確認されています。あなたが村外で保護されたことから考えても、避難そのものは始まった可能性が高いです」
「じゃあ、残り百二人」
レオンも戸籍簿を見る。
ダリオ、エレナ、セイルをはじめ、そこには百人近い名前が並んでいる。
今までルテラ村を調べる目的は、消えた村に何が起きたのかを明らかにすることだった。
しかし、ミレアが本人だと確認できたことで、問いは少し変わった。
確かめるべきなのは村がどうなったのかだけでなく、そこから逃げた百三人が、その後どうなったのかということだった。
「調べます」
レオンが言うと、ミレアが顔を上げた。
「百二人?」
「可能な範囲で」
「ありがとうございます」
「まだ見つかるとは言っていません」
「知ってます」
ミレアは笑った。
「でも、調べるって言ってくれたでしょう。それで十分です」
レオンは戸籍簿を閉じなかった。
百三人の名前が残る頁を開いたまま、新しい調査帳面を用意する。
最初に書くべき名前は決まっていた。
最初に書いたのは、セイル・ルーウェン。十八年前、六歳。ミレアの兄という一行だった。
彼が生きて村を出たのか、その後どこへ行ったのかはまだ分からない。
それでも、百三人のうち少なくとも一人は、十八年後の今も生きている。
ならば残りの名前についても、最初から「もういない」と決めつける理由はなかった。




