第7話 百三番目の名前
村を出たのは、日が傾き始める少し前だった。
これ以上長く滞在すると、帰路で記憶の欠落がさらに強くなる可能性がある。トーマの判断で調査を切り上げ、三人は来た道を引き返した。
村を離れるにつれて、記憶が抜け落ちる間隔は少しずつ長くなり、旧休憩小屋を過ぎて森の入口まで戻る頃には、腕の紙を見なくても自分たちが何をしていたのか説明できるようになっていた。
「変な感じですね」
ミレアが歩きながら言った。
「何がです?」
「山を下りるほど、自分の頭が戻ってくる感じがするんです。村にいたときは、数分前のことまで紙を見ないと分からなかったのに」
「私も同じです。現象の強さが場所によって違う可能性は高いと思います」
「じゃあ、あの村に近づけば近づくほど忘れるってことか」
トーマが振り返った。
「現時点では、そう見えます。ただ、距離だけが条件なのかは分かりません」
「また調べるんだろ?」
「はい」
「次は、もう少し準備を増やせ。今日みたいな札だけで済むとは限らないぞ」
「そのつもりです」
ミレアが自分の腕に結ばれた紙を見た。
「私も、もう少し書いておいた方がいいかも」
「何をですか」
「自分のことです。名前とか、今住んでる場所とか。村で全部忘れたら嫌なので」
トーマが頷いた。
「それはやっとけ。少なくとも、自分が誰か分からなくなったら即帰る」
「分かってます」
ミレアはそう答えてから、少しだけ笑った。
「でも、今日だけで名前が一つ増えましたね」
「増えた?」
「ミレア・ルーウェン」
冗談めかした口調だった。
「まだ本人と確定したわけではありません」
「そこは分かってます。でも、仮に私だったとしても、ミレアが二人になるわけじゃないでしょう?」
「そうですが」
「だったら今だけ使ってみてもいいじゃないですか。ミレア・ルーウェン。ちょっと貴族っぽくないです?」
「普通の村民です」
「夢を壊すの早いなあ」
トーマが吹き出した。
レオンは笑わなかったが、昨日まで知らなかった姓を口にするミレアの声を、少しだけ意識して聞いていた。
◇
翌朝、資料保管所へ来たミレアは、机の上に置かれた戸籍簿を見るなり尋ねた。
「今日は何から調べます?」
「その前に確認があります。昨日、村で見つけたあなたと同じ名前の人物を覚えていますか」
「同じ名前?」
レオンは予想していたが、それでも一瞬言葉に詰まった。
「ミレア・ルーウェンです」
「……誰でしたっけ」
昨日、自分で何度も口にした姓であるにもかかわらず、ミレアは眉を寄せた。
「ルテラ村十九番地に住んでいた三歳の女児です。年齢、保護時期、名前などがあなたと一致しています」
「ああ」
説明されると理解はできるらしい。
「昨日、その家にも行ったんでしたっけ」
「行きました。あなたは家の中で感情的な反応も示しています」
「それも覚えてないなあ」
ミレアは、昨日のうちにレオンから渡されていた記録の写しを開いた。
記録には、ルテラ村十九番地に暮らしていたダリオ、エレナ、セイル、ミレアの四人の名が並んでいる。母エレナは染色と刺繍を仕事にしており、家からは青い五枚花弁の刺繍布が見つかったほか、壁には子供たちの成長を記した線も残っていた。
ミレアはそこまで読んでから、小さく息を吐いた。
「読むと分かるんですけどね。昨日はもっと、自分の話だって感じがしてたんでしょうか」
「そう見えました」
「それすら残らないんだ」
「村から離れても、ルテラに直接関係する記憶は失われるようです」
「嫌な仕組みですね」
言いながら、ミレアはもう一度「ルーウェン」という姓を見た。
「昨日の私、これを気に入ってました?」
「少し」
「じゃあ今日も気に入ることにします」
「そういう決め方でいいんですか」
「自分の記録でしょう。昨日の自分の感想くらい参考にしますよ」
レオンには、その考え方が少しだけ理解できた。
自分の記憶を信用できないのなら、過去の自分が残した記録もまた、自分自身の一部として扱うしかない。
◇
本人確認を進めるため、まず十八年前の保護記録を改めて調べることにした。
以前確認した帳面には、ミレアが旧第七支線沿いで保護され、衣服にMIREAと刺繍された布が縫いつけられていたことまでしか記されていない。その日の状況をより詳しく記した別紙が残っていないか、改めて探す必要があった。
町役場の書庫でハインツに事情を説明すると、彼は少し困った顔をした。
「またその子の記録ですか」
「はい。十八年前の身元不明児保護に関する関連文書が、ほかに残っていないか確認したいんです」
「この前も見ましたよね」
「覚えているんですね」
「身元不明の女の子の記録を探したことは覚えてます。ただ、その子と何が関係してたのかが曖昧で」
ハインツはミレアを見る。
「あなたでしたっけ?」
「たぶん私です。たぶん、っていうのも変ですけど」
「本当に変な話ですね」
三人で書庫を探すと、保護記録とは別に、当時の引き渡し記録が残っていた。
ハルト・ノルンが女児を発見したあと、町役場へ届け出て、仮保護を経て養育を申し出た際の書類である。
そこには発見時の衣服について、以前の帳面より詳しく、上衣は淡褐色、内布にMIREAの刺繍があり、裾には青色五弁花の連続模様があると記載されていた。
レオンはその一文を読み返した。
「青い五枚花弁」
ミレアも気づいた。
「村にあったやつ?」
「はい。植木鉢、学校の絵、十九番地の家から見つかった刺繍布に同じ意匠がありました」
「でも、よくある花の模様かもしれませんよね」
「その可能性はあります。ただ、確認できる一致点は増えました」
引き渡し記録によれば、発見時の推定年齢は二歳から三歳で、保護されたのはルテラ村の記録が途絶えた年の秋だった。まだ偶然で説明する余地はあるものの、二人のミレアを別人と考えるには、同じ時期、同じ地域に、名前と年齢が等しく、同じ意匠の衣服を着た別の少女がいたと仮定しなければならない。
「かなり狭くなってきましたね」
ミレアが言う。
「はい」
「珍しく素直に認めた」
「証拠が増えましたから」
「じゃあ、あと何があれば確定です?」
「本人に固有の特徴が確認できれば理想的です。身体的特徴、家族しか知らない傷跡、所持品などですね」
「三歳の自分のことなんて、私は何も覚えてませんよ」
「なので記録を探します」
「やっぱり最後は紙なんですね」
「今のところは」
◇
資料保管所へ戻ると、レオンはルーウェン家の情報を整理し直した。父ダリオは三十五歳の木工職人、母エレナは三十二歳で染色と刺繍を生業とし、子供は六歳のセイルと三歳のミレア。教会記録と学校名簿、戸籍簿の内容はすべて一致しており、何より戸籍簿そのものが《定録》で作られている。
レオンは最終頁の紋章を指でなぞった。
「この戸籍、やっぱり変ですね」
「偽物ってことですか?」
ミレアが尋ねる。
「逆です。あまりにも丁寧に作られています」
「戸籍ってそういうものじゃないんです?」
「通常の戸籍は、長い期間をかけて追記されていきます。出生、婚姻、死亡、転居があるたびに内容が増えるので、筆跡やインクの色に多少の違いが出るものです」
レオンは別の村の古い戸籍を持ってきて並べた。
こちらは十年以上使われた帳面なので、古い頁ほど紙が傷み、追記部分には複数の筆跡が混ざっている。
一方、ルテラ村戸籍簿は違った。
「ほとんど全頁が同じ筆跡で、同じ時期に書かれています」
「アルノーさんが?」
「おそらく」
もちろん、古い戸籍を一人の担当者が清書し直すことはある。しかしその場合、通常は「転記」や「再編」といった注記が残る。
ルテラ村戸籍簿には、その説明がなかった。
「つまり、十八年前に百三人分を一気に書いた?」
「その可能性があります」
「何のために?」
「分かりません。ただ、アルノーがわざわざ《定録》を使って全住民を記録し直したのだとすれば、何か理由があったはずです」
レオンは頁をめくりながら、紙の状態を確認した。
最後の方へ進むにつれて、筆圧が少し強くなっている。急いで書いたのか、文字もわずかに乱れていた。
そして最終頁の裏側を確かめたとき、綴じ部分の近くに細い傷があることに気づいた。
「何かあります」
光を当てると、それがインクではなく、鋭いもので紙を引っ掻くように刻んだ文字だと分かった。経年で薄くなり、正面から見ただけではほとんど判別できない。
レオンは角度を変えながら、一文字ずつ読み取った。
百三名、確認。
ミレアが息を呑む。
その下にも続いている。
欠員なし。
「全員いた、ってことですか」
「この記録を書いた時点では、そういう意味だと思います」
さらに下へ目を移すと、途中から文字が深く刻まれていた。
明朝までに全員を村外へ出すこと。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
トーマが最初に口を開いた。
「避難させようとしてたのか」
「そう読めます」
「何から?」
「それは書かれていません」
ミレアは記録を見つめた。
「でも、これが本当なら、村の人たちは突然消えたんじゃないんですよね」
「少なくとも、アルノーは全員を村外へ出そうとしていました」
「百三人、全員?」
「欠員なし、とあります」
レオンが戸籍の最後へ目を移すと、百三番目に「ミレア・ルーウェン、三歳」とあった。この記録が作られた時点では、彼女も村にいたことになる。
「じゃあ、私があの道で見つかったのは……」
ミレアは自分でそこまで言い、続きに迷った。
レオンが答える。
「避難の途中だった可能性があります」
「誰かと一緒だった?」
「そうだったかもしれません。ただ、そこから先はまだ分かりません」
「分かりました。まだ記録がないんですよね」
以前なら不満そうにしていた答えを、今度のミレアはそのまま受け入れた。
◇
その日の夕方、レオンは調査帳面を整理した。ミレア・ノルンと、十八年前のルテラ村にいたミレア・ルーウェンは、名前と年齢だけでなく、保護された時期と地点、衣服に残されたMIREAの刺繍、青い五枚花弁の意匠まで一致している。加えて本人は、村で同じ意匠や家屋を目にした際、理由を説明できない反応を示していた。個々には決定打にならなくても、すべてを合わせれば同一人物である可能性はかなり高い。
そして、アルノー・フェルナーが作成したと思われる戸籍には、住民百三人全員を確認したうえで、翌朝までに村外へ出すよう記した痕跡が残っていた。
レオンはその内容を《定録》で固定した。
「セイルって人も、外へ出たんでしょうか」
向かいで記録を読んでいたミレアが尋ねた。
「あなたと同じ家にいた六歳の男児ですね」
「兄かもしれない人です」
「アルノーの記録が正しければ、避難開始前には村にいました。実際に村外へ出られたかまでは分かりません」
「今なら二十四歳くらい?」
「そうなります」
ミレアは少し考えた。
「生きてる可能性もありますよね」
「あります」
今回は、レオンもすぐにそう答えた。
「百三人が村の中で死亡した記録はありません。避難を予定していた記録も見つかりました。少なくとも、全員があの村で亡くなったと考える理由はなくなっています」
ミレアは目を伏せたあと、静かに頷いた。
「じゃあ、探したいです」
「セイル・ルーウェンを?」
「それもあります。でも、百三人全員。どこへ行ったのか分かるなら」
「簡単ではないと思います」
「分かってます。十八年前でしょう?」
「はい」
「それでも、一人くらい何か残ってるかもしれない」
レオンは戸籍簿を見た。
村そのものが忘れられても、そこで暮らしていた百三人の名前は、今も紙の上に残っている。
「調べましょう」
レオンが答えると、ミレアは少し驚いたように顔を上げた。
「今回は止めないんですね」
「止める理由がありません。ただし、まずは村で何が起きたのかを確認します。避難したことが分かっても、その後どこへ向かったのかが分からなければ探しようがありません」
「十分です」
ミレアは戸籍簿を自分の方へ少し引き寄せ、最後の頁を見た。
「百三番目、か」
昨日と同じ言葉だった。
ただし、昨日そう言ったことを彼女自身は覚えていない。
レオンはそのことを指摘しなかった。
同じ感想を繰り返したことよりも、失われる記憶とは別に、百三人の名前が記録として残っていることの方が重要だった。そして、その記録を作ったアルノーは住民を消そうとしていたのではなく、少なくとも最後の記述を見る限り、百三人全員を村外へ逃がそうとしていた。ルテラ村で起きたことを調べる理由が、また一つ増えた。




