第6話 ルテラ村
村の入口に立っている間にも、自分たちがここへ来た理由は少しずつ曖昧になっていった。
レオンはまず三人をその場に留め、腕に結んでいた紙とは別に、現在地と注意事項を書いた札を作った。
現在地:ルテラ村。
記憶の欠落が継続している。単独行動をしない。目的を忘れた場合は記録を確認する。
同じ内容を三枚用意し、それぞれ首から下げられるよう紐を通す。
「腕だけじゃ足りないんです?」
ミレアが尋ねた。
「村の中で別の記録を見ることになるので、現在地だけでもすぐ確認できた方がいいと思います」
「どんどん迷子札みたいになっていくな」
トーマが自分の札を裏返した。
「守備隊の制服着て、首から『現在地』ぶら下げる日が来るとは思わなかった」
「必要がなくなれば外せます」
「早くそうなってほしい」
三人は改めて村へ入った。
入口から見える範囲だけでも十数軒の建物が残り、屋根が完全に落ちた家もあれば、外壁だけは形を保った家もある。道には草が生い茂り、石畳の隙間から若い木まで伸びていたが、レオンが廃墟という言葉から想像していた光景とは少し違っていた。
火災で焼けた跡も、戦闘で壁を壊された形跡もなく、家財を急いで持ち出したような乱雑さも見当たらない。ある日を境に人だけがいなくなり、その後の十八年間で建物がゆっくり朽ちていったように見えた。
「荒らされた感じは薄いですね」
ミレアも同じ印象を持ったらしい。
「山賊に襲われたなら、もっと壊されてるはずです。金目のものが残ってるかは分からないけど」
「獣は入ってる」
トーマが指した地面には、泥の上に小さな足跡が残っていた。
「ただ、人間が最近来た跡は見えないな」
レオンは家屋の配置と道幅、建物の損傷状態を記録した。少なくとも外から確認できる範囲には、大規模な災害や戦闘が村を放棄させたと示す証拠はなかった。
「まず、どこを見ます?」
ミレアが聞いた。
「役所か教会があれば、住民記録が残っている可能性があります。学校も確認したいです」
「家を一軒ずつ見るんじゃないのか」
「百三人分あります。先に村全体の記録を探した方が効率的です」
「そこは役人らしいな」
トーマが周囲を見回し、少し離れたところにある尖った屋根を指した。
「あれ、教会じゃないか?」
村の中央近くに、小さな鐘楼の付いた建物が見えていた。
「行ってみましょう」
◇
教会へ向かう途中、ミレアが一軒の家の前で足を止めた。
玄関脇には、青い五枚花弁の花を描いた白い植木鉢が割れて転がっていた。
「どうしました?」
レオンが尋ねると、ミレアは鉢から目を離さないまま答えた。
「これ、知ってる気がします」
「この鉢を?」
「たぶん。家にあったような……いや、違うかな」
ミレアはしゃがみ込み、土に半分埋まった陶器へ手を伸ばした。
「青い花の模様。見たことある」
「どこで?」
「それが分からないんです」
レオンはすぐに記録を取り始めた。
「今の感覚をそのまま話してください」
「前にもこんなことありましたね」
「休憩小屋のときです」
「ああ……そうでしたっけ」
ミレアは首から下げた札と腕の紙を確認した。
「本当に忘れるの早くなってるなあ」
それでも、もう一度鉢を見る。
「家の中にあった気がするんです。窓の近くかもしれない。誰かがこの模様を描いてたような……でも、そこから先は出てこない」
レオンは内容を《定録》で残した。
記録を終える頃には、ミレアはすでに不思議そうな顔で鉢を見ていた。
「私、また何か言いました?」
「この青い花の鉢に見覚えがあると」
「全然ないです」
トーマが腕を組んだ。
「村の中だと、思い出したそばから消えるのか」
「そう見えます」
「だったら、本人に何度も思い出させるのはやめた方がいいんじゃないか」
レオンも同じことを考えていた。
「そうですね。反応があった場合だけ記録して、無理には追いません」
ミレアが立ち上がる。
「私は大丈夫ですよ」
「大丈夫かどうかを本人が覚えていない可能性があります」
「それ言われると何も返せないですね」
「なので、三人で判断します」
「分かりました」
レオンは鉢の位置も記録し、先へ進んだ。
◇
教会の扉は鍵が壊れており、少し力を入れるだけで開いた。中には長椅子が並び、正面に小さな祭壇がある。割れた窓から入り込んだ落ち葉が床に積もっていたものの、内部は予想していたほど荒らされていなかった。
「何を探す?」
トーマが尋ねる。
「出生、婚姻、死亡の記録です。地方の小さな村では、行政記録とは別に教会が独自の台帳を持っている場合があります」
「戸籍がもうあるのに?」
「同じ内容を別の記録で確認できれば、戸籍の信頼性が上がります」
「記録だけを信用するな、ってやつか」
トーマの言葉に、レオンは少し驚いた。
「覚えているんですか」
「何を?」
「いえ」
やはり、直接ルテラ村に結びつく部分だけが抜けているらしい。
教会の一階には台帳らしいものが見当たらなかったが、祭壇の脇に地下へ降りる階段があった。
トーマが先に下り、安全を確認してから二人を呼ぶ。
地下は石造りの小部屋になっており、壁際にいくつかの木箱が積まれていた。湿気で傷んでいるものもあるが、一番奥の箱は比較的状態がいい。
中には教会の記録簿が収められていた。
レオンは年代を確認しながら、十八年前前後の台帳を選び出した。
「ありました」
箱には出生、婚姻、死亡の記録が、行政の戸籍簿とは異なる形式で保管されていた。
レオンはまず死亡記録から確認した。
もしルテラ村の百三人が災害や疫病で全滅したのなら、ここに大量の死亡記録が残っている可能性がある。
しかし、十八年前の死亡者は三人だけだった。
記録されていたのは七十二歳の男性、六十八歳の女性、生後四か月の乳児の三人で、死因はいずれも病気だった。
前年も、その前の年も大きな差はない。
「全滅じゃないんですね」
ミレアが言った。
「少なくとも、この記録では」
「百人以上いたんだろ?」
トーマも台帳を覗き込む。
「死んでないなら、どこへ行った」
「それが分かりません」
次に出生記録を確認した。
行政の戸籍簿に載っている子供たちと名前を照合していく。誕生日も両親の名前も一致していた。
婚姻記録も同様だった。
別々の目的で作られた教会記録と行政戸籍が細部まで一致している以上、ルテラ村戸籍簿全体が何者かによって偽造された可能性はかなり低くなった。
レオンは十八年前の記録を一頁ずつ確認しながら、最後まで目を通した。
しかし、村がなくなった理由を示す記述も、住民全員の死亡や大規模な移住を示す記載もない。教会側の記録も行政戸籍と同じように、ある日を境として突然途切れていた。
「やっぱり、人だけ消えてるみたいですね」
ミレアが言った。
「少なくとも、記録上はそう見えます」
「百三人がまとめて逃げたとか?」
「可能性はあります。ただ、その場合も理由が必要です」
「その理由の記録まで消えた?」
トーマが言う。
今のところ否定できないため、レオンは答えなかった。
◇
教会の記録を調べているうちに、もう一つ気になる資料が見つかった。
村の子供たちについて、洗礼と初等教育の記録を簡単にまとめた帳面である。
「学校も別にあると思いますが、ここにも子供の名前が残っています」
レオンは十八年前の頁を開いた。
そこには、当時三歳だったミレア・ルーウェンという女児の名があった。見慣れた名と未知の姓の組み合わせに、レオンの指が止まった。
「ミレアさん」
「はい?」
「こちらへ来てください」
ミレアが隣へ来る。
レオンは記録を指した。
帳面には、ミレア・ルーウェン、三歳とあり、父親はダリオ、母親はエレナ、住所はルテラ村十九番地と記されていた。
ミレアはしばらく文字を見ていた。
「同じ名前?」
「はい」
「年齢も?」
「十八年前に三歳です。現在二十一歳なら一致します」
「でも、ミレアって名前の子が他にもいたかもしれない」
「その通りです」
「そこはすぐ認めるんですね」
「同名で年齢が一致しただけでは、まだ本人とは断定できません」
ミレアは安心したような、少し残念そうなような顔をした。
「じゃあ、他に何かないですか」
「探します」
レオンは教会の記録をさらに確認した。
ルーウェン家には四人が登録されており、父ダリオは三十五歳の木工職人、母エレナは三十二歳で染色と刺繍を生業にしていた。子供は六歳の長男セイルと、三歳の長女ミレアの二人だった。
「刺繍」
レオンが言う。
「何です?」
「あなたが保護されたとき、衣服の内側にMIREAと刺繍された布が縫い付けられていました」
ミレアも母親の職業欄を見る。
「エレナって人が、私の母親かもしれない?」
「可能性は上がりました。ただし、まだ同名の別人である可能性は残ります」
「徹底してるなあ」
トーマが呆れたように言った。
「でも、こいつの言う通りだ。今は同じ名前の子供がいたってところまでだろ」
「分かってますよ」
ミレアはそう答えたものの、視線は帳面から離れなかった。
◇
教会を出たあと、三人は村の学校を探した。
広場の東側に、それらしい建物が残っていた。入口の上には文字の消えかけた木札があり、内部には長机と小さな椅子が並んでいる。
教師用の机から見つかった児童名簿を調べると、十八年前の初等組に六歳のセイル・ルーウェンが、幼年組には三歳のミレア・ルーウェンが記載されていた。教会の帳面とは別に作られた資料でも、兄妹の名前と年齢が一致したことになる。
「ここまで来ると、偶然って言いにくくないですか」
ミレアが尋ねる。
「かなり言いにくくなっています」
「かなり?」
「まだ確認できるものがあります」
「絶対に断言しないんですね」
「間違っていた場合、あなた自身の出生に関する話なので」
レオンがそう言うと、ミレアは少しだけ表情を改めた。
「……そうですね」
「だから、できるだけ慎重に確認します」
「お願いします」
トーマは教室の窓際を調べていた。
「おい。これ、さっきの鉢と同じじゃないか?」
二人が振り返る。
壁に、子供たちが描いたらしい絵が何枚か残っている。
その一枚に、青い五枚花弁の花が描かれていた。
さらに別の紙には、同じ花を並べた模様がある。
「村でよく使われていた図柄だったのかもしれません」
レオンが言う。
ミレアは絵へ近づいた。
「これ……」
また反応があった。
「何か思い出しましたか」
「うまく言えないです。懐かしい感じがする」
「無理に思い出さなくて構いません」
「記録を読む、でしたっけ」
「はい」
ミレアは首から下げた札を指で触った。
「少しずつ慣れてきた自分が嫌ですね」
「私もです」
◇
午後になる前に、レオンは一度調査をまとめた。王立記録院の戸籍だけでなく、教会と学校で別々に作られた資料からも、ルテラ村に百三人前後の住民が暮らしていた事実を裏づけられた一方、大規模な死亡や村全体を失わせる災害の記録は見つかっていない。
また、十八年前には三歳のミレア・ルーウェンが村におり、その年齢は現在のミレア・ノルンと一致していた。母親エレナの仕事には刺繍が含まれ、ミレア自身も村内で使われていた青い花の意匠に、理由を説明できない既視感を示している。本人と断定するにはなお足りないが、無関係な同名人物だと考える方が、次第に難しくなっていた。
「次は十九番地を探します」
レオンが言った。
「私の家かもしれない場所?」
「ミレア・ルーウェンの家です」
「同じことでしょう」
「まだ同じとは確認できていません」
「分かってますって」
ミレアは笑った。
「でも、行ってみたいです」
「俺も一緒に行く」
トーマが言った。
「ここからは家の中に入るんだろ。床が抜けてるかもしれないから、先に俺が見る」
「お願いします」
◇
住所を示す標識はほとんど失われていたが、教会の保管箱から簡単な区画図が見つかっていたため、十九番地の位置は特定できた。
十九番地は村の西側、通りから少し奥へ入ったところに建つ二階家だった。屋根の一部は崩れていたが外壁はまだ残っており、玄関脇には白地に青い五枚花弁を描いた陶器の破片が落ちていた。
ミレアがそれを見た。
「さっきと同じ」
「はい」
「ここにもあったんだ」
トーマが先に内部を確認し、床が崩れていない範囲を示した。
三人で家へ入る。
居間には壊れた机と椅子が残り、壁際には木工道具の棚がある。父親ダリオの職業が木工だったことと一致する。
別の部屋には、染料を入れていたと思われる瓶や、布を張るための木枠が残っていた。
ミレアはその部屋の入口で立ち止まった。
「ここ、好きじゃないです」
「何か思い出しました?」
「違う。たぶん」
彼女は胸のあたりを押さえた。
「何も思い出せないのに、泣きそうになる」
レオンは帳面を開きかけたが、手を止めた。
「記録しますか?」
ミレアが自分から尋ねた。
「あなたが望むなら」
「してください。忘れるんでしょう?」
「おそらく」
「なら、今そう感じたことだけでも残しておいてください」
レオンは頷き、彼女の言葉をそのまま記録した。
しばらくしてミレアは目元を拭った。
「もう平気です」
「無理なら外へ出ます」
「大丈夫。続けましょう」
奥の小さな部屋には簡素な寝台が二つ並び、壁には子供の背丈を測ったらしい線が何本も引かれていた。その傍らにはセイルと、その少し下にミレアという名前が残っている。
レオンが日付を確認すると、最後の記録は十八年前の「ミレア、三歳」で、教会の帳面と一致した。ミレア本人は壁の前に立ち、何も言わなかった。
「ここまでで十分ですか?」
レオンが尋ねる。
「何が?」
「今日は外へ戻っても」
ミレアは壁に残った自分と同じ名前を見たあと、首を振った。
「もう少しだけ見たいです」
部屋の隅には小さな木箱が残っていた。歪んだ蓋をトーマが慎重に開くと、子供用の布切れや壊れた玩具に交じり、比較的状態のよい布が一枚入っていた。青い五枚花弁の花が何度も刺繍されたそれを、ミレアは手に取ってしばらく見つめ、小さく息を吐いた。
「これ、私のだったのかな」
「まだ分かりません」
「はい」
今度は、レオンの答えに不満そうな顔をしなかった。
代わりに、布を元の箱へ静かに戻した。
◇
家を出たあと、レオンは村の広場でその日の記録を整理した。教会の死亡記録には大量死の記載がなく、村にも急激な破壊の痕跡が見られない以上、住民百三人がここで死亡したとみなす根拠はない。
一方、教会の記録と学校名簿、十九番地の家屋からは、十八年前に三歳のミレア・ルーウェンがこの村で暮らしていたことをそれぞれ確認できた。現在のミレア・ノルンとは、名前と年齢だけでなく、保護された時期と場所、刺繍との関わり、青い花の意匠への反応まで重なっている。決定的な本人確認には至らないものの、同一人物の可能性を調べ続けるには十分すぎる材料だった。
レオンはそこまで《定録》で固定してから、ふと戸籍簿を開いた。
百三人の名前が並ぶ戸籍の最後には、ミレア・ルーウェン 三歳とある。記録番号は百三番だった。
「どうしました?」
ミレアが尋ねた。
「あなたと同じ名前の子供は、この戸籍の最後に登録されています」
「最後?」
「百三人目です」
ミレアは戸籍を覗き込んだ。
そこに書かれた名前を、しばらく黙って見ている。
「もしこれが私だったら」
「はい」
「私は、この村で最後に記録された人なんですね」
「戸籍上では、そうなります」
ミレアは自分の名前と同じ文字を指で追った。
「じゃあ、次はこの百三人がどこへ行ったのかを調べるんですか」
「そのつもりです」
「私も?」
「希望するなら」
「します」
返事は迷わなかった。
レオンは調査帳面に、次の確認事項を書き加えた。
ルテラ村の住民百三人は、死亡したのではなく、何らかの理由で村外へ出た可能性がある。
そして、その百三人目として記録された少女が、今、自分たちと一緒にこの村へ戻ってきている可能性が高い。
その事実だけは、本人がまた忘れてしまっても残るように、《定録》で確かに固定しておいた。




