第5話 忘れる道
守備隊への相談は、思っていたより早く話が通った。
レオンが資料保管所で見つけた旧道の確認に護衛を付けてほしいと申し出ると、当初は「役人が古道を見に行くだけなら必要ない」と断られかけた。しかし、現在は使われていない山道であることと、同行者に民間人が含まれることを説明すると、最終的に一人だけ人員を出してもらえることになった。
翌朝、資料保管所へ現れたのは、背が高く、無駄のない動きをする二十代後半の男だった。
「西部守備隊、トーマ・ベルク。今日の護衛を命じられた」
「レオン・フェルナーです。こちらが案内役のミレア・ノルンさん」
「どうも」
ミレアが軽く手を上げる。
トーマは二人を順番に見てから、壁に立て掛けられた古地図へ目を向けた。
「それで、どこへ行く?」
「レダ村の北西から旧第七支線へ入り、その先を確認します。目的地はルテラ村です」
「知らないな」
予想していた反応だったので、レオンは二十年前の地図を広げ、旧第七支線と村の位置を示した。
「現在の地図からは消えていますが、十八年前まで戸籍と道路維持記録が残っています。廃村になった経緯が不明なので、現地を確認したいと考えています」
さらに、ルテラ村について調べたり話したりした人間には、関連する記憶だけが抜け落ちる現象が確認されていることも説明した。レオン自身だけでなく、資料保管所のエッカルトと町役場のハインツにも同じ傾向があり、原因も安全な対処法もまだ分かっていない。護衛を引き受ける相手には、そこまで伝えておく必要があった。
トーマは古地図と現在の地図を見比べたあと、何とも言えない顔をした。
「記録院の仕事って、廃村を探しに山へ入ったり、記憶が消える話まで調べたりするのか?」
「通常は含まれないと思います」
「思います、か」
「私も今回が初めてなので」
「守備隊も初めてだ」
トーマはため息をついた。
「まあいい。俺の仕事は二人を無事に帰すことだ。道が危険なら途中で引き返す。それでいいな?」
「はい」
レオンが答えると、ミレアも頷いた。
「私も同じ条件で雇われてます」
「なら話は早い」
トーマは腰の剣と背負った弓を確認した。
「出るぞ。山で日が落ちるのは避けたい」
◇
レダ村までは整備された街道を使い、そこから北西へ折れると、道幅は次第に狭くなって荷車が一台通れる程度の林道へ変わった。ミレアは周囲の目印を確かめながらも、迷う様子なく先を歩いていく。
「この辺りまでは配達で来たことがあります。向こうに炭焼き小屋があって、その先から道が二つに分かれるんです」
「旧第七支線はどちらですか」
「たぶん右ですね。左は今も猟師が使ってます」
「たぶん?」
トーマが聞き返した。
「右の道は普段使わないから。古地図だと合ってると思うけど」
「現地で分からなくなったら止まれ。勘で進むなよ」
「分かってますって」
レオンは古地図と周囲の地形を照合しながら進んだ。炭焼き小屋を過ぎると確かに道が分かれており、左側には比較的新しい足跡があって木の枝も払われている。一方、右側は下草が伸び、遠目には道なのか獣道なのか判別しづらかったが、よく見れば両脇に古い排水溝の跡があり、かつて整備された道だったことが分かった。
「道路だったことは間違いなさそうです」
「十八年も放っておけば、こんなもんだろうな」
トーマが周囲を見回した。
「ここから先は歩きにくくなる。足元を見ろよ」
森へ入ると、昼前だというのに辺りは薄暗くなった。古い道はところどころ崩れていたものの完全には消えておらず、石積みの路肩や朽ちた道標の柱らしきものも残っている。レオンは現在地と照合できる特徴を選び、帰路にも使えるよう順に記録していった。
「そこまで書く必要あります?」
前を歩いていたミレアが振り返る。
「後で道を再現するためです。帰ったあと、別の人が確認する可能性もありますから」
「本当に何でも残すんですね」
「忘れる可能性もありますから」
そう答えた直後、レオンは足を止めた。
自分がなぜ「忘れる可能性がある」と口にしたのか、一瞬だけ理由が分からなくなったのだ。調査帳面を開けば、ルテラ村を調べた人間に記憶の欠落が起きていることも、その確認を兼ねて旧道へ入っていることも理解できる。しかし町にいたときより、読んだ内容が頭から滑り落ちる感覚は明らかに強かった。
「少し待ってください」
「何か見つけた?」
「違います。自分の状態を確認します」
レオンはその場で記録を残した。
旧第七支線へ入って約一刻。ルテラ村に関する調査目的を、一瞬思い出せなくなった。記録を読むことで再確認できた。
トーマが帳面を覗き込む。
「何だ、それ」
「出発前に説明した記憶の欠落です」
「出発前……?」
トーマは眉を寄せた。
「そんな話をされたか?」
「しました。私自身だけでなく、二人の別人にも同じ現象が確認されていると説明しました」
ミレアも少し考えるような顔をした。
「私も何度か聞いてるはずなんですよね。でも、詳しい内容になると全然実感がないです」
レオンは二人に調査帳面を見せ、ルテラ村に関係する記憶が時間とともに失われること、町では翌朝までに抜け落ちる場合が多かったこと、そして今回の調査では自分たち自身の記憶を信用しない方がよいことを確かめさせた。トーマは読み終えたあと、しばらく黙っていた。
「つまり、俺は説明されたこと自体をもう忘れ始めてるわけか」
「そう考えるのが自然です」
「帰るか?」
「現時点では、まだ行動目的を記録から確認できます」
「俺は危険なら引き返すと言った」
「はい。ただ、この現象については出発前から想定していました。目的を忘れたこと自体は、直ちに退避する条件にはしていません」
「想定してたことを、俺が忘れてる可能性があるわけだな」
「そうなります」
トーマは、自分の判断の前提まで失われかけていることを理解し、露骨に嫌そうな顔をした。
「最悪だな、その説明」
「私もそう思います」
「そこで同意するなよ」
◇
それからしばらく進んだところで、レオンは一度全員を止めた。
「ここから先は、口頭だけで目的を共有するのは危険だと思います」
「何か方法あるんです?」
ミレアが聞く。
「あります」
レオンは、出発前に念のため用意していた紙と細い紐を取り出した。一枚目には、記憶だけを理由に行動を変えないための指示が書かれている。
ルテラ村へ向かっている。理由を忘れても、勝手に引き返すな。危険がある場合は退避する。
と書いてある。
「矛盾してないか?」
トーマが言った。
「理由を忘れても進め。でも危険なら帰れって」
「判断を記憶だけに任せないという意味です。目的を忘れたからという理由だけで引き返さず、実際に道が崩れている、負傷した、獣がいるといった危険があれば退避します」
「なるほど。面倒だが筋は通ってる」
レオンは同じ内容を三枚作ってそれぞれの腕に結びつけ、ミレアには同行理由を失わないための別紙も渡した。
あなたの出生記録が、この道と関係している可能性がある。
ミレアは読んでから、少しだけ表情を変えた。
「これも必要ですか」
「あなたが同行している理由を忘れる可能性があります」
「嫌な準備だけはいいですね」
「何も起こらなければ、それが一番です」
トーマにも、護衛対象と任務を明記した別紙を渡した。
任務:レオン・フェルナーおよびミレア・ノルンの護衛。旧第七支線を調査中。
「俺まで自分の仕事を忘れる前提か」
「可能性があります」
「守備隊でこんな任務報告したら笑われるぞ」
「無事に帰れば、笑われるだけで済みます」
「お前、たまに嫌なことを平然と言うな」
◇
森は次第に深くなっていったが、十八年間ほとんど使われていないはずの古道は、予想以上に形を残していた。木の根が石敷きを押し上げ、途中の小橋も欄干を失っていたものの、荷車が通れた幅や路面の輪郭までは確認できる。
「これ、行政がちゃんと作った道ですね」
ミレアが言う。
「道路台帳にも修繕記録があります」
「何で使われなくなったんです?」
「それを調べに来ています」
「ああ、そうだった」
ミレアは自分の腕の紙を見た。
「……今、普通に忘れてました」
冗談を言っている表情ではなかった。
「どの部分を?」
「この道を調べに来た理由です。レオンさんに聞いた瞬間、何でそんなこと聞くんだろうって思った」
トーマも腕の紙へ目を落とした。
「俺は任務自体は覚えてる。ただ、目的地の名前だけが出てこない」
「ルテラ村です」
「そう、それだ」
レオンも自分の状態を確かめた。ルテラ村という名前と、戸籍に百三人の住民が記録されている事実は理解できる。ところが、なぜその二つが重要なのかを組み立てるには町にいたときより時間がかかり、記録を読んで関係を把握しても、数分するとまた輪郭が薄くなっていった。
「何なんでしょう、これ」
ミレアが呟いた。
「分かりません。ただ、町にいたときより記憶が抜けるまでの時間は短くなっています」
「村に近づいてるから?」
「その可能性はあります」
「だったら、もっと先ではどうなる?」
トーマが尋ねる。
「それもまだ分かりません」
「分からないことだらけだな」
「分からないことを分かったとは言えませんから」
「そういう性格なのは、もう分かった」
トーマは周囲を見回した。
「少なくとも、今のうちに帰り道の目印も増やしておくぞ。進むかどうかとは別の話だ」
「賛成です」
木へ布を結び、分岐点や橋の位置を記録しながら進むことにした。
◇
昼を少し過ぎた頃、ミレアが突然立ち止まった。
「どうしました?」
レオンが声を掛けても、ミレアはすぐには返事をせず、道の脇にある崩れかけた石壁を見ていた。古い休憩小屋の跡らしい。
「ここ……」
ミレアがゆっくり近づいた。
「見覚えがありますか」
「分からない。でも、何か……」
石壁へ手を伸ばし、目を閉じる。
「赤い布が見える」
「赤い布?」
「誰かが持ってた。私を抱いてる人かもしれない」
レオンは質問で記憶を誘導しないよう、急かさずに待った。
「雨が降ってる。たぶん私、すごく小さい。誰かに抱かれてて、その人の近くに赤い布が見える」
「その人の顔は分かりますか」
「見えない。声も聞こえる気がするけど、何を言ってるのかまでは……」
ミレアは額へ手を当て、数秒後にゆっくり目を開いた。
「駄目。もう出てこないです」
「今の内容を記録します」
「お願いします」
レオンは聞いた内容をそのまま《定録》で残した。
旧第七支線、休憩小屋跡付近。ミレア・ノルンが断片的記憶を訴える。雨天。誰かに抱かれている感覚。赤い布。人物および声の内容は不明。
記録を固定してミレアへ見せると、彼女は文章を読み、困惑したように眉を寄せた。
「……私、こんなこと言いました?」
レオンは彼女の顔を見た。
「つい今です。一分も経っていません」
「全然覚えてない」
「ここで思い出したんだよな?」
トーマが石壁を指す。
「らしいです。でも、その感覚そのものがもうない」
レオンが記録を指しながら説明する。
「あなたは雨の中で誰かに抱かれていて、赤い布が見えたと話しました」
ミレアは何度か文章を読み返した。
「文字を見れば、自分が言ったんだってことは分かります。でも、自分が本当にそれを思い出したって感じがしない」
町では一晩ほど残っていた記憶が、ここでは一分も保たない。旧道を進むにつれ、失われるまでの時間が明らかに短くなっていた。
「ここから先では、さらに強くなる可能性があります」
「戻るか?」
トーマが改めて尋ねた。
レオンは現在の状況を一つずつ確認した。
三人とも怪我はなく、帰り道は地図と目印の両方で確認できる。行動目的も腕の紙や調査帳面を読めば理解できており、少なくとも判断能力そのものが失われている兆候はなかった。
「もう少し進みたいです。ただし、自分が誰なのか分からなくなる、記録を読んでも意味を理解できなくなる、あるいは帰路を確認できなくなる。このどれかが起きた時点で退避します」
トーマはしばらくレオンを見た。
「そこまで決めてるならいい。ただし俺が危険だと判断したら、その場で帰す」
「構いません」
「ミレアは?」
彼女は腕に結んだ紙を読んだ。
あなたの出生記録が、この道と関係している可能性がある。
「行きます。少なくとも、自分がここまで来た理由はまだ読めるので」
「分かった」
トーマが先へ進んだ。
◇
そこから先では記憶の欠落がさらに頻繁になり、目的地の名前が出てこなくなったほか、三人で山道を歩く理由が曖昧になり、ときには数分前の会話だけが抜け落ちた。そのたびに立ち止まり、腕の紙と調査帳面を読み直して、三人の理解が揃ってから先へ進んだ。
何度目かの確認を終えたところで、ミレアが言った。
「これ、思い出そうとするの、やめた方がいいんじゃないですか」
「どういう意味です?」
「忘れたことを必死に思い出そうとすると、余計に混乱するんです。書いてあることを読んで、『そうなんだ』って受け入れた方が楽な気がします」
レオンは少し考えた。
確かに、自分も記憶を掘り返そうとするほど、何かに手を掛けては滑り落ちるような感覚を覚えていた。思い出そうとする行為そのものが役に立っていないのであれば、無理に記憶へ頼る必要はない。
「そうしましょう」
「いいんです?」
「記憶が信用できないなら、無理に思い出す必要はありません。必要な事実は記録に残っています」
トーマが振り返った。
「随分あっさり言うな」
「今は、その方が安全だと思います」
レオンはミレアにも、そして自分自身にも言い聞かせるように続けた。
「理由を思い出そうとしないでください。記録を読んでください」
ミレアは腕の紙へ目を落とし、少しして頷いた。
「分かりました」
それからは、忘れるたびに記録を読み、そこに書かれている事実だけを頼りに先へ進んだ。自分たちがどこへ向かっているのかを、自身の記憶ではなく紙に教えてもらいながら山道を歩くのは、奇妙というより不気味な感覚だったが、少なくとも記録は同じ内容を示し続けている。
やがて森が開け、古い道の先に石造りの低い壁が現れた。その向こうには屋根の崩れた建物が何軒も並び、人の姿がないまま集落の形だけを残している。
「集落……?」
トーマが周囲を見回す。
ミレアは腕の紙を確認した。
「ここが目的地なんですか?」
「地図と照合します」
レオンは古地図を開いた。
周囲の地形や街道の向き、村へ入る直前を流れる小川まで、記載された特徴は目の前の景色と一致していた。
入口の脇には、傾いた木製の柱が一本立っている。長い年月で表面は黒ずみ、苔にも覆われていたが、上部に取り付けられた板にはまだ文字が残っていた。
三人で近づき、レオンが表面の苔を手で払うと、文字が現れた。
ルテラ村。
二十年前の地図にしか残っていなかった名前が、今は自分たちの目の前にある。ルテラ村は記録の中だけの存在ではなく、誰にも覚えられないまま、十八年間ここに残り続けていた。




