第4話 出生地のない飛脚
翌朝、レオンは資料保管所へ着くと、机の正面に一枚の紙を貼った。
一人で調べるな。
それは昨日見つけた自分自身からの指示であり、目立つ場所に置かなければ、その存在ごと忘れる可能性がある。今の状況では、少々大げさなくらいでちょうどよかった。
「何だ、それ」
出勤してきたエッカルトが紙を見上げた。
「今後の調査方針です」
「誰に言われたんだ?」
「三日前の自分に」
「朝から怖いこと言うなよ」
「私もそう思います」
レオンは調査帳面を開き、前日までの記録を読み直した。
調査記録によれば、ルテラ村について知った内容は時間とともに記憶から抜け落ち、レオンだけでなく、エッカルトや町役場のハインツにも同じ現象が起きている。また、戸籍簿を作成したアルノー・フェルナーはレオンの大伯父である可能性が高く、十八年前に西部勤務中のまま消息を絶っていた。そこまで確認した三日前の自分は、今後の調査を一人で続けるべきではないと判断している。
「問題は、誰と調べるかですね」
「俺じゃ駄目なのか?」
「資料確認には今まで通り協力してもらいます。ただ、現地へ行くなら別の人も必要です」
「何でだ」
「山道を長時間歩けますか」
エッカルトは腰へ手を当てた。
「資料を読むのも立派な仕事だぞ」
「そうですね」
「今、年寄り扱いしただろ」
「体力面を確認しただけです」
「やっぱりお前、王都で嫌われてたんじゃないか?」
否定しきれなかった。
◇
現地まで同行してもらう候補については、昨日ハインツから話を聞いていた。古い林道に詳しい猟師か、山間部まで荷物を運ぶ公営飛脚なら、廃道になった第七支線について何か知っているかもしれない。そこで古地図を持って町へ出ると、ちょうど広場の掲示板前に飛脚の制服を着た女性がいた。
二十歳を少し過ぎたくらいだろう。肩までの茶色い髪を後ろでまとめ、革の鞄を斜めに掛けた彼女は、配達予定表を眺めながら片手で干し肉を食べていた。
「すみません」
「はい?」
女性が振り返る。
「公営飛脚の方ですか」
「そうですけど、荷物なら受付は向こうですよ」
「配達の依頼ではありません。古い道について伺いたいことがあります」
「古い道?」
レオンが地図を広げると、女性は干し肉を口にくわえたまま覗き込んだ。
「レダ村の北西から山側へ延びる旧道です。十八年前までは第七支線と呼ばれていました」
「この辺?」
「はい」
女性は指先で地図を辿った。
「途中までは知ってます。今の北西林道から分かれて、森に入る道ですよね」
「通ったことがあるんですか」
「仕事で近くまでは。奥までは使わないですけど」
「案内をお願いできますか」
女性は地図から顔を上げた。
「いくらで?」
「仕事として、ですか」
「仕事でしょう?」
「そうですね」
「じゃあ一日、銀貨二枚」
「高くありませんか」
「知らない山道に入るんですよ。熊も出るし、崩れてるかもしれない。普通の配達と同じ料金じゃやりません」
「相場なら銀貨一枚程度かと思っていました」
「それは普通の街道を走る仕事でしょう」
「では、一枚と半分で」
「細かいなあ」
女性は少し考え、残っていた干し肉を食べきった。
「分かりました。一枚半でいいです。その代わり、危ないと思ったら途中でも引き返しますからね」
「それで構いません」
「じゃあ決まり。ミレア・ノルンです」
「レオン・フェルナー。王立記録院の者です」
「王都の人?」
「今は西部辺境資料保管所です」
「左遷?」
レオンは黙った。
「当たり?」
「配置転換です」
「なるほど。左遷ですね」
初対面でそこまで言われるとは思わなかった。
◇
「それで、どこへ行きたいんです?」
ミレアが改めて地図を覗き込んだ。
「この旧道の先です」
「先って、山しかないですよ」
「二十年前の地図には村があります。ルテラ村という名前です」
その名前を口にした瞬間、ミレアの表情がわずかに変わり、何かを思い出そうとするように眉を寄せて地図へ目を落とした。
「……ルテラ?」
「ご存じですか」
「いや、知らないです。でも何だろう。聞いたことがあるような気がする」
レオンは、知っているかどうかではなく、名前を聞いたときの反応そのものを残すために調査帳面を開いた。
「その感覚について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
「詳しくって言われても、本当にそれだけですよ。知ってる気がするけど、どこで聞いたのか全然出てこない。こういうのって一番当てにならないでしょう?」
「それでも構いません。今の時点では、反応があったという事実だけ記録します」
「何でも書くんですね」
「仕事なので」
ミレアは少し笑った。
「変な人」
「よく言われます」
「そこは自覚あるんだ」
レオンは、ミレアがルテラという名前に曖昧な既視感を示したことを《定録》で残した。
「古い道に詳しいのは、やはり飛脚の仕事で?」
「そうですね。公営飛脚って、主要街道だけ走るわけじゃないので。農村とか山側の集落へ届けるときは、昔の道を使うこともあります」
「この道も?」
「途中までなら何度か。もっと先まで行ったこともあるような……」
ミレアはそこで言葉を止め、自分でも答えを探すように古地図の先を見つめた。
「どうしました?」
「行ったことがある気がしたんです。でも、いつだったのかも、どこまで行ったのかも出てこなくて」
「仕事を始めてからですか」
「それも分からないんですよ。子供の頃かもしれないし、仕事を始めてからかもしれない」
「幼少期はこの辺りに?」
ミレアは少し困ったように笑った。
「その辺、ちょっと面倒なんです」
◇
現地調査へ同行してもらう以上、身元を確認しておく必要があるため、翌日、ミレアは公営飛脚の身分証を持って資料保管所へやって来た。
「ちゃんと本物ですよ」
「疑ってはいません」
「昨日、所属と住所と年齢まで聞いたじゃないですか」
「山へ同行してもらうので、確認が必要です」
「真面目だなあ」
レオンが身分証へ目を通すと、ミレア・ノルン。二十一歳。公営飛脚。とあり、住所はファルン南区、緊急連絡先にはハルト・ノルンという名前が記されていた。
「ハルト・ノルンさんは、お父上ですか」
「養父です」
レオンの手が止まった。
「養父?」
「そう。私、拾われた子なんです」
ミレアは特に重く受け止めている様子もなく答えた。
「三歳くらいのときに、うちの父が道端で見つけたらしいです。本人は何も覚えてないですけど」
「保護されたときの記録は残っていますか」
「役所にあると思いますよ。何で?」
「出生地が身分証に記載されていません」
「ああ、そこ。分からないんですよ」
「ミレアという名前は、養父母が付けたものではない?」
「違います。見つかったときに着ていた服の内側に、名前が縫ってあったんです。MIREAって」
「姓は?」
「ノルンは今の家の名字です。元の名字は分かりません」
レオンは、昨日ルテラ村という名前を聞いたときの彼女の反応を思い返した。村名に聞き覚えがあるような感覚を示し、旧道のさらに先まで行ったことがある気もすると話していたうえ、保護される以前の記憶がない。気になる点は重なっているが、これだけでルテラ村と結びつけるのは早すぎた。
「保護記録を確認してもいいですか」
「私の?」
「はい。古い道との関係があるかどうかだけでも確認したいんです」
「別にいいですけど」
ミレアは少し考えたあと、にやりとした。
「もし王族の隠し子とかだったらどうします?」
「記録します」
「夢がないなあ」
◇
町役場には十八年前の身元不明者保護記録が残っており、ミレア本人の同意もあるため、閲覧手続きは難しくなかった。担当のハインツが書庫から古い帳面を持ってくる。
「最近よく来ますね、フェルナーさん」
「私のことは覚えているんですね」
「何の話です?」
「いえ。こちらの話です」
ルテラ村に関する記憶だけが失われる理由は、レオン自身にもまだ分からない。今ここでハインツに説明できることはなかった。
ハインツが該当頁を開く。
「ありました。十八年前の秋ですね」
記録によれば、公営飛脚ハルト・ノルンが旧ファルン北西道路付近で、推定二歳から三歳の身元不明女児を保護している。所持品は衣服、小型の靴、布製の人形で、衣服の内側には「MIREA」と刺繍された布片が縫い付けられていた。
ミレアが横から帳面を覗き込む。
「本当に書いてある」
「見たことはなかったんですか」
「父から聞いただけでした。自分で記録を見たのは初めてです」
レオンは保護地点の記述へ目を戻した。
「旧ファルン北西道路だけでは範囲が広すぎますね。詳細記録が別にあるはずです」
帳面には参照番号が付いており、同じ年の別紙記録を探すと、対応する番号の文書が見つかった。そこには、保護地点についてさらに詳しい記載があった。
旧北西道、山側分岐より北へ約三里。旧休憩小屋付近。
レオンは古地図を横へ並べ、現在の北西林道から旧第七支線へ分かれる位置を確かめた。そこからさらに北へ進んだ場所には道路沿いの休憩小屋が小さく記されており、保護記録の位置と一致していた。
「ミレアさん。あなたが保護された場所は、この辺りです」
レオンが古地図を指す。
「旧第七支線沿い?」
「はい。ルテラ村へ続いていた道と同じです」
ミレアの表情から笑みが消えた。
「村までは、ここからどのくらい?」
「さらに山側へ進みます。ですから、村で保護されたわけではありません。ただ、少なくとも同じ街道上にいたことは確かです」
ミレアはしばらく地図を見ていた。
「私、本当にここにいたんだ」
「記録上は間違いありません」
「十八年前ですよね」
「はい」
「ルテラ村の戸籍がなくなったのも?」
「同じ年です」
村の記録が途絶えた時期と、ミレアが同じ街道上で保護された時期が重なった。無関係である可能性は残るものの、両者のつながりを調べる理由としては十分だった。
「私とルテラ村、関係あると思います?」
ミレアが聞いた。
「可能性はあります。ただ、今の情報だけでは判断できません」
「やっぱりそう言うんですね」
「根拠が足りませんから」
「分かってます。そういう人だって、だんだん分かってきました」
◇
さらに現在の身分記録を確認していると、レオンは出生地欄に違和感を覚えた。
現在は空欄になっているが、その部分だけ紙の表面がわずかに荒れている。
「以前、何か書かれていたように見えます」
「消した跡ってこと?」
「その可能性があります」
光を斜めから当てると、インクそのものは残っていないものの、筆記した際の圧力で紙の繊維がわずかに沈んでいる。完全な文字は読み取れなかったが、最初の一字には曲線の形がうっすら残っているように見えた。
「『ル』……かもしれません」
「ル?」
「そう読める可能性がある、というだけです。これだけでは確定できません」
ミレアも記録を覗き込むが、当然ながらはっきりとは読めない。
ミレアは十八年前に旧第七支線沿いで保護され、元の出生地は分かっていない。現在の身分記録には出生地を削ったような痕跡があり、その最初の文字が「ル」だった可能性があるうえ、本人はルテラ村という名前と旧道に理由の分からない既視感を示している。個別には偶然で説明できても、同じ人物にこれだけ重なる以上、無関係と決めつけることもできなかった。
「これで、私も調べる理由ができましたね」
ミレアが言った。
「もともと案内をお願いしています」
「銀貨一枚半で」
「契約なので」
「そうじゃなくて、自分の話かもしれないなら、途中で『危ないから帰ります』って言いにくくなったなって」
「危険なら帰ってください」
「そこは止めるんだ」
「安全を優先します。調査のために同行者へ無理をさせるつもりはありません」
「真面目」
「仕事なので」
「それもよく言いますね」
◇
資料保管所へ戻ったあと、レオンはその日の確認事項を調査帳面へまとめた。
ミレア・ノルンは十八年前、推定二歳から三歳の頃に旧第七支線沿いの休憩小屋付近で保護され、衣服にはMIREAと刺繍された布が縫い付けられていた。元の姓と出生地は不明だが、現在の身分記録には出生地欄から何らかの記載を削った痕跡があり、残った筆圧から最初の文字が「ル」だった可能性がある。さらに本人は、ルテラ村という名称と旧第七支線に、理由の分からない既視感を訴えている。
これらを踏まえ、レオンは判断と今後の注意事項を書き加えた。
ミレア・ノルンが保護された地点は、旧ルテラ街道沿いの休憩小屋付近と一致する。本人とルテラ村との直接的な関係については未確定。
さらに少し考えてから、もう一行追加した。
本人も、ルテラ村に関連する記憶を失っている可能性を考慮すること。
《定録》で固定したところで、エッカルトが横から帳面を覗き込んだ。
「その娘、本当に連れていくのか?」
「本人も希望しています」
「山の中だぞ。案内できるってだけで十分なのか?」
「その点は私も気になっています。ミレアさんには道案内をお願いしますが、安全確保は別に考えます」
「なら、もう一人連れていくつもりか」
「守備隊に相談します」
エッカルトはしばらくレオンを見たあと、面白そうに笑った。
「三日前のお前、ちゃんと分かってたんだな」
「何がです?」
「一人で調べるなって話だよ。気づけば案内役を雇って、今度は護衛まで探してる」
レオンは机の正面に貼った紙を見た。
一人で調べるな。
少なくとも今回は、その指示を守れている。
次に確かめるべきことも、もう決まっていた。
二十年前の地図にしか残っていない道を実際に辿り、その先にルテラ村が存在するのかを、自分たちの目で確認する。




